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59. 好きと言う気持ち

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ノエルのエスコートでエリィは静かに馬車に乗り込む。腰を落ち着けて馬車の窓から屋敷の方を見れば、シャロムが何とも悲壮な顔で窓際から見送る姿が見て取れた。
 首から下げた白い布では折れた左腕を吊っていて、顔や頭部、右上の甲など、あちこちには布や包帯が当てられている。その姿が痛々しくて、エリィは少しだけ眉尻を下げた。シャロムは、その顔色も相まって、姿だけ見れば重症患者そのものではあるが、リアンナの施した魔法のお蔭で、顔色程症状は悪くはない。圧倒的に血が足りていないのは、しっかり寝て食事を摂る以外にない。残った骨折も、今日が無事に過ぎれば、リアンナが再び治しに来てくれることになっている。無理にでもついてきそうなシャロムを何とか説き伏せるのはエリィには至難の業だったが、結局はヨハンに叱り飛ばされて渋々部屋に戻っていった。もちろん、ヴィスタがつけてくれたと言うもう一人の護衛がいると言う安心感もあるのだろう。
 同じく事故に合ったセシルも足の骨折はリアンナによって治療されて居る為に、残るのは打ち身と額の傷ぐらいで、ウォルターの監視の元絶対安静の構えらしい。セシルもシャロムと同じくエリィに同行することを望んでいたようなのだが、未だ犯人の目的がわからず、王女の婚約者であるが故に狙われたという可能性も全く否定できない状態ではヨハンの許可が下りなかった。
 本来なら、エリィはすぐにでもセシルの見舞いに行くべきだったと思う。セシルが部屋から出るのを禁止されていたとしても、エリィがセシルの部屋を訪ねるのは禁止されていない。妹としては事故に合ってけがを負った兄を見舞うのは当然の事、というより必須であろう事項だ。しかしエリィは結局セシルの部屋には立ち入らなかった。いや、正確には立ち入れなかった。
 何度かセシルの部屋の前まで足は運んだが、どうしてもその扉をノックすることが出来なかったのだ。あれ程好きだと思ったセシルへの気持ちが、今もそのままであるという自信は全くなかった。その証拠とでも言うかの様に、昨日ヴィスタからセシルと王女の婚礼の日取りが決まったと言う話を聞いても何の感情もわかなかった。いや、正確にはその情報に気を取られる余裕がない程、その直前の話の方がエリィにとっては青天の霹靂と言うほどの衝撃を受けていたのだ。
 感情がやっと落ち着きを見せた今、セシルの事を考えてみても、セシルと王女の事を考えてみても。今までとと同じような疼く痛みがあったとしても、それでも驚くほどに心穏やかな自分がいるのがわかる。ヴィスタと共に見たあの王宮でのセシルと王女の姿。あの時にエリィは確かに息苦しくなるような切ない想いを抱いた。それは今も変わら無い筈だ。それでも、婚礼の話を聞いても、あの気持ちが消えたわけではないのに、辛いと言う感情よりもやっぱりと言ったあきらめにも似た感情が強い。そんな聞き分けの良すぎる自分の感情は異常に感じられて、やはりゲームのストーリーに添って作られた感情ではないかと言う、自分に対する不信感でいっぱいになって。
 どこからどこまでが本当の感情なのか。それさえも自信が持てない。
 セシルに会ってしまえば、尚更それを自覚してしまうのではないかと思うと、どうしてもセシルに会うことが出来なかった。

「大丈夫?」

 ぼんやりと馬車の座面に視線を投げながらそんな事を考えていると、心配気な黒く優しい視線とぶつかった。覗き込むような体勢のノエルに、自分が思っている以上に憂鬱な顔をしていたという事に、そこで初めて気づき、エリィは苦笑いを零す。

「大丈夫よ?昨日は随分と夜更かしをしてしまったから、少しだけ眠いのよ」

 誤魔化す様にエリィが言えば、ノエルはそんなエリィと同じような苦笑いを零した。

「膝枕でもする?」

 それでも、ノエルはあえて追及はせず、エリィの苦し紛れの言葉にそうとわかっていながら冗談を交えて返す。そんなノエルの優しさに触れ、少しだけ心がほぐれる感じがしてエリィは頬を緩めた。

「それはいい案ね。と、言いたい所だけど……膝枕って女子の柔らかい太ももがあって初めて成り立つのではないかしら?」
「柔らかい太ももねぇ……いかがわしい感じがする」

 そう言ってノエルは顎を撫で、斜め上の方を見ながらおどけた様に首を傾げて見せた。

「なんでそこに反応するのよ」

 キョトンとした顔でエリィがそう返せば、途端にノエルはキリッとした真顔を作った。

「一応男子ですし」

 明らかにふざけているのが丸わかりな楽し気なノエルの瞳に気が付いて、エリィもそれに乗る様に眉間に皺を寄せてわざとらしく大きなため息を吐いた。 

「今、私の中のノエルのイメージが、純朴青年から一気にただれた青年になったわ」
「酷いなぁ、エリィ。女子の柔らかい太ももって言葉にロマンを感じない男子はいないよ?」
「何なのその俗物的なロマンは。私が言ってるのは、男子の固い膝枕じゃ寝れないって言いたいだけよ?」

 半眼で飽きれたようにエリィが言えば、ノエルは目を軽く閉じて眉を寄せ、上向き加減にう~んとわざとらしく考え込む。そして何かを思いついた様にポンと軽く握った右手で左の手のひらを叩いた。

「いや、俺も一応元女子だし、意外といけるかも。元女子の膝枕、どう?生足じゃないのが減点ポイントかも知れなけど、服の生地も柔らかいし、温もりも十分伝わる半生感覚だよ?」

 ポンポンと自分の太ももを叩き、ニコニコと笑いながらノエルは言う。それに対してエリィは相変わらず
眉間に皺を寄せたまま、肩をすくめて首を左右に振った。

「その言い方は何か色々間違ってる気がするわ」
「もう何万回も女子やってるんだから、女子のくくりでもいいと思うんだ。元女子の膝枕、お勧めだよ?」
「なるほど。……で、生物学上は?」
「思いっきり男子、かな?」
「何で疑問形なのよ」

 そう言って二人して吹き出す様にして笑った。ひとしきり笑うと、ノエルはホッとした様にため息を一つ吐く。そのまま一度軽く目を閉じ深呼吸をして、再び目を開けると、ノエルはいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。

「そういえば、ヨシュアはどうしたの?ヴィスタ殿下に言われるままエリィを迎えに来たけど……。てっきりヨシュアと一緒かと思ってた」

 ヨシュアの話題を振られてエリィが表情を曇らせれば、ノエルは不思議そうに首を傾げた。

「喧嘩でもした?俺が上手く取りなしてあげようか?」
「そんなんじゃないわ。……ヨシュアはアイリス様を迎えにいっているだけ」

 エリィはあえて質問には答えず、そしてリアンナの名前を避けるようにアイリスの名前を出した。実際はアイリスを、と言うより妹であるリアンナのエスコートに出向いたのは想像に難くない。だが、エリィは何となくその名前を出すのを躊躇い、避けた。
 ヨシュアが婚約者になるであろう女性をエスコートするのは当たり前の事と言っても差し支えない。それは身内のエスコートより優先されても当然である事柄だ。それがわかっていながら、どうしてもエリィには納得が出来なかった。モヤモヤとした思いが胸のあたりでつかえている気がしてイライラとした。リアンナを優先させるヨシュアに腹を立ててさえいたのだ。
 セシルと王女の事を思った時のあの切ないような、悲しいような寂しい気持ち。そんな綺麗な物ではない、もっと生々しくて濁った様な。そんな怒りとも落胆とも妬みとも似た醜い感情を持て余し、エリィは眉間に皺を寄せた。

「眉間、皺が寄ってるよ?」

 苦々しい表情をしたエリィを宥めるように、ノエルはそっと自分の眉間をトントンと指さして笑う。そんなノエルを見て、エリィは途端に拗ねた様に唇を尖らせた。

「ヨシュアと私が一緒に居ないと、ケイトも喧嘩しました?って聞くのよ。何故なの?」
 
 再び自分の気持ちを誤魔化すように言えば、ノエルは窓枠に肘を置き、頬杖をしながら苦笑した。

「そりゃあ、ヨシュアはエリィにベッタリじゃないか。過保護だなぁって思うくらいには」
「そうかもしれないけど、その後になんで私が悪いみたいな流れになるのよ?理不尽だわ」

 エリィにベッタリ。と言う言葉に何となくムズムズする物を感じながらも、唇を尖らせたままエリィがそっぽを向けば、ノエルはくすくすと笑いだした。

「ごめん、ごめん。だってもしヨシュアがエリィを何か怒らせたなら、ヨシュアってすぐ謝りそうじゃないか。だから喧嘩が長引くとしたらヨシュアが怒ってる時かなって思って」
「やっぱり私が悪者じゃないの」

 ヨシュアが怒っている、という事はつまりエリィが怒らせたという事にもつながる訳で。ケイトだけでなくノエルですらも同じ認識なのかと思えば、エリィは不満そうにノエルを見る。

「ノエルぐらいは私の味方してくれてもいいじゃないの」
「え?俺は何時でもエリィの味方だよ?」

 味方になってくれない事を非難するように言えば、ノエルは意外だと言うように目を丸くした。

「だって私を悪者にしてるじゃないの」
「違うよ、あれは客観的な意見と言うか推測だよ。仮にエリィが100%悪くったって、俺はエリィの味方だよ?」
「本当に?」
「神に誓って」

 そう言ってノエルは胸に手を当てて軽く目を閉じる。そのいかにもな芝居がかった仕草にエリィは機嫌を直したように笑い声を零した。

「今日のノエルはふざけてばかりね。でも……ありがとう」
「どういたしまして。って言うか!いやいやいや!全部本気だよ?」

 慌てた様に言うノエルにエリィは更に笑う。そんなエリィを見て、ノエルは目を細めて満足そうに笑った。

「ねぇ、エリィ」
「ん?」
「俺は、ちゃんとエリィの親友、できてるかな?」

 穏やかに微笑みながら、そして少しだけ不安そうにノエルが言う。その不安そうな表情がなんとも可愛らしく感じて、エリィも柔らかく微笑んだ。

「あら、親友以外の何者なの?」

 少しだけ偉そうにそう言えば、ノエルは一瞬だけビックリした様に目を丸くして、そのままパッと破顔した。

「赤の他人とか言われたら泣くとこだけど、一応男子としては、恋人とかそう言う選択肢もありまして」
「恋人?ノエルと?」

 そうエリィが聞き返せば、途端にノエルは苦虫をかみつぶしたような苦い表情をした。そして言いづらそうに口を開く。

「ごめん、やっぱりエリィをそう言う対象に見れないや……」

 その言葉に今度はエリィがびっくりした様に目を丸くした。

「ちょっと待って?何でノエルから話を振っておきながら、私が振られたみたいになってるのよ」

 ノエルの返事がおかしくて、エリィが笑いをこらえながらそう言えば、ノエルは再び破顔して声を上げて笑った。
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