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33. 意識改革

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 エントランスまで来ると既にシャロムが控えて待っていた。エリィが程近くまで歩み寄ると、彼女の後ろに静かに回り、丈が短めの白のファーコートを背中からそっと着せかける。

「何か楽しい事でもございましたか?」

 エリィがコートにそでを通していると、不意にシャロムがそう聞いた。エリィが不思議そうに振り返ると最近よく見る真面目顔ではない、嬉しそうな顔のシャロムが居る。

「お顔が今朝よりもずいぶん晴れやかですので」
「……そうね。真っ白な可愛い子猫に会ったの。なんだかすごく癒された気分」
「それはようございました」

 エリィが返事をすればシャロムは自分の事の様に楽しそうに目を細めて頷いた。そのまま馬車のすぐそばまで歩き、エリィは立ち止まって口を開く。

「家ではなくて、町に行ってもらえる?」

 シャロムに向き直ってそう言えば、側に居たヨシュアが眉をひそめた。それもそうだろう、エリィは体調が悪いから家に帰ると言って教室を出てきたのだから。

「体調は?ちゃんと家に帰って休むべきだと思うけど」
「教室の空気がこもってて酔っただけみたいなの。実の所、教室を出た時点で殆ど平気になってたのよ」
「それでも、町に出るのはあんまり賛成しないな」
「私もヨシュア様のご意見と同じです」
「どうしても行きたいなら父上に許可を貰ってから明日にでも行けばいいよ」
「だって、お父様に言ったって許してもらえないわ。だったら頼めるのはヨシュアぐらいだし。それに、シャロムが居れば危ない事もないでしょう?」

 駄目押しに両手を合わせて頬に当てながら軽く首を傾げ、ね?お願い、と一言言えばヨシュアは諦めたように肩を落として溜息をつき、シャロムは苦笑いを浮かべた。2人はよっぽどのことが無ければ、エリィの頼みを断りきることが出来ないのを知ってて押し切ったのだ。あざといと言われようが、なんと言われようが、エリィにとって明日がいつ来るかもわからない以上、即断即決、思い立ったが吉なのである。

 ヨシュアの手を借りて馬車に乗り込み、彼も続いて座席に座ると、シャロムは静かに扉を閉めた。そのままシャロムは御者台に上がり、御者のすぐ横に座ると町に向かうように指示を出す。その間にエリィは足元にあるバスケットからブランケットを取り出すと足の上に広げた。

「ヨシュアも寒いなら一緒に入る?」

 ゆっくりと走り出した馬車の揺れに気を付けながらエリィが問えば、ヨシュアは名残惜しそうに校舎の方を見たあと、ちろりとエリィを見ながら小さく首を振った。

「子猫、可愛かったわね」
「うん。猫は良いねぇ。いつまでも触っていたくなる」
「だから動物に嫌われるのよ」
「なんでさ」
「ヨシュアは可愛がり方がねちっこいの。さっきもモノが嫌がってたじゃないの」
「僕があんなに気持ちよくなるように可愛がってあげたのに?」

 拗ねたように口を尖らせるヨシュアを見てエリィはくすくすと笑う。ヨシュアは動物が大好きにもかかわらず、しつこくベタベタするので今まで動物に好かれたためしがない。一度ヨシュアに抱かれたペットは大抵、次に会うとヨシュアを威嚇する。ヨシュアにとっては可愛がっているつもりでも、動物にとって彼の撫でると言う行為がどうもいじめに近いらしい。

「しつこく撫でまわすのは嫌われるわよ」
「え~でも、女の子はみんな僕が撫でまわすと喜ぶけど?」
「言い方がいやらしいわ」
「そう聞こえるように言ってるし?」
「怒らせたいの?」
「いいや。少し意識してもらおうかと思って」

 エリィがキョトンとした顔でヨシュアを見れば、彼は呆れたようにため息をついた。そして、エリィの正面にきちんと座りなおすと、ブランケットを捲り上げ自分の足を滑り込ませる。

「やっぱりちょっと寒い?ほら、ヨシュア。もうちょっと足閉じてくれないとあんまり掛からないんじゃない?」
「……はぁ」

 ヨシュアの長い足が少しでもちゃんとブランケットに入る様に、エリィは声を掛けながら少し前かがみになって端を直す。するとヨシュアは盛大にため息をついた。

「あのさ、エリィ」
「うん」
「この狭い馬車の中で何も体を近づけてブランケットを一緒にかける必要なくない?」
「もう一枚出すのが面倒なのかと思って」
「じゃあさ、本当に寒かったとして。エリィの言うように足を閉じるとこうなるわけだ」

 ヨシュアは開き気味にしていた足を急に閉じる。すると対面に座っているエリィの両膝がヨシュアの両膝にサンドイッチの様に挟まれた。そしてずれたブランケットを直せば、ヨシュアの足の熱もあって先程よりも足元はかなり暖かくなり、エリィは満足気に頷いた。

「うん、結構暖かいわね」
「……」

 エリィの返事にヨシュアは足の上に肘を置き、手の上に顎を置きながら半眼でエリィを睨む。その表情はどう見ても不満いっぱいと言った様相である。

「どうしたの?」
「ああ、なるほどね」
「何がなるほどなのよ?」
「この程度じゃ眉一つ動かさないって分かった」
「足の事?寒いし、合理的でいいと思うわ」
「まぁそうだよね。この程度で動揺するぐらいなら兄さんの寝台に上がったりしないわな」
「お兄様の寝台?……えっ、あ、いやだなぁ。もうそんなことしないわよ」

 つい先日の指先を舐められた時の事や、逆に指先で唇を撫でられた時の事をふと思い出して、エリィは少し赤くなりながら頬を押さえ、誤魔化す様に笑った。誰のルートにも入らないと決めた以上、もう以前みたいにベッタリ甘やかされようとはエリィは思わない。もちろん、力を貸してもらう気は満々ではあったが。

「なんだか、随分兄さんの事を意識してるんだね」
「へ?」
「だったら僕だって意識しない?」
「えーっと」
「足を密着させるなんてさ、抱きしめる以上にエロいと思うんだけど」
「……そう?」

 ヨシュアに言われて今の状況を把握し始めていたエリィではあったが、あえて何も気づかない振りでとぼけてみせる。ヨシュアはそんなエリィの思惑に気付かなかったようで、また一つ大きなため息をついて行儀悪くも、ドスンと音を立てる勢いで仰け反る様にして背もたれに体を預けた。

「行儀が悪いわよ?」
「寝る。町についたら起こして」

 腕を組んで目を瞑ると、ヨシュアはそのまま俯いた。どうみても不貞寝モードだと分かってはいたが、あえて邪魔をしないようにエリィは小さく頷いた。
 ヨシュアが言うように、確かによくよく考えてみれば男女が足をピッタリと合わせる等はしたないと言えばはしたない。だがしかし、エリィはドレスを着ているわけだし、その下にペティコートも着ている。足には絹のストッキングを履いて、もちろんブーツも履いている。

――その上から挟まれてエロいって言われてもねぇ……

 エリィからすれば、まだまだ底冷えする2月の寒さの中、ペティコートの下から上がってくる冷気はなかなかにキツイ。その上のドレスのさらに上から挟んで押さえてくるヨシュアの足は、いわば冷気の侵入を防いでくれる便利な物ぐらいの認識でしかない。おまけに人肌の暖かさがあるから快適なことこの上ない。
 素肌同士がふれていると言うならまだしも、こんなに沢山の布で阻まれている以上、そこにはエロさの欠片も見当たらない、とエリィは窓枠に肘をつき、頬杖ついて苦笑いしながら窓の外を眺めた。

 どんよりとして厚い雲に覆われた空は、朝よりもずっと暗く、今にも泣き出しそうな雰囲気だ。そう言えば19日にエリィを夜会へと招待したフィリオ―ルはしばらく雨が続くと言っていた気がする、とエリィはふと思い出す。ということは、これから雨が降るのはほぼ確実のように思われた。

「雷鳴らないといいけど」

 遠くの空を黒く染めている雲を見ながら、エリィは小さく呟いた。


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