45 / 61
45. 天丼・腹芸は基本です。
しおりを挟む「それではリズには再び私の婚約者として頑張ってもらおうか」
「は?」
さも当然と言った調でするりと発したヴィスタの言葉に、思わず眉間に深くしわを刻んで怒りの感情をのせたまま、エリィは語尾を上げた低い声で聞き返す。だが、ヴィスタはそんなエリィの様子にもまるで意に介せずと言った調子だ。
「リズが私との婚姻を了承するのなら今まで以上にヨハンを重用しよう。弟のヨシュアも一の側近として取り立てる。取りあえず子爵位でも叙爵させて、いずれは伯爵位以上に――」
「なにを馬鹿な事を仰っているんですか。父もヨシュアも私の事が無くてもそれだけの実力があります。そんな御為ごかしに騙されるとでも?」
「ああ、そうだな。2人ともとても有能だよ。だが、有能であれば重用するなどと少々夢見がち過ぎるな」
馬鹿にした物言いのヴィスタの言葉に腹が立ち、思わず力を込めて握ったエリィの拳がふるふると震える。手のひらに爪が食い込み、僅かな痛みが、ギリギリの所でエリィの理性を押しとどめていた。これ以上聞いていれば、相手が王子だというのに手が出てしまいそうだった。
「どういう意味ですか」
「私の不興を買えば、有能かどうかなど関係ないんだよ」
「父もヨシュアも関係ないじゃないですか」
「そうか。私との婚姻は嫌だから断る? ああ、構わないよ。だが、その矢面に立つのは誰だろうな」
「そんな脅しには乗りません。私は父を信頼しています。父にとって殿下の横やりなど障害にもなりませんわ」
「なるほど。嫌ならば貴族としての当然の義務である政略結婚を放棄すると言う訳だな。貴族として政略結婚など当然の義務。侯爵家の為に尽力こそすれ、足を引っ張る気など毛頭ない。そう言ったのは誰だったか」
「……」
「リズの言葉が、ブーメランの様に頭に刺さってるのが見えるぞ。ハハッ」
「この、クソ王子ぃ!」
某夢の国のネズミを彷彿とさせるような笑い声に、ブチンと頭の中で何かがはじけ飛ぶ音をその時エリィは聞いた気がした。
気が付けばブルブルと握りしめていたエリィの拳が、ヴィスタの鳩尾に埋まっている。
――そして。
――私はその日、生まれて初めて人に手を上げた。
なんてモノローグがエリィの頭の中に浮かんだ様な気がした。
――私はその日、初めてリズに殴られたのだ。
きっと殿下の脳内ではそんなモノローグが流れているのだろうとか、そんな現実逃避気味な思考がエリィの脳内を支配する。先程のブチっと言う嫌に派手な音は、エリィの堪忍袋の緒が空の彼方に飛んで行った音に間違いないとあきらめにも似た確信を抱く。意外と脆かったな、私の堪忍袋の緒……とかボソリと呟きながら遠くを見る。
視線の先にはセシルの背中と王女の背中。
それを見て苦いものがこみ上げる。何やってるんだろうと自嘲気味に笑えば、途端に普段の冷静さが戻って来たのをエリィは感じた。
「……っぐぐ……平手打ちぐらいは予想していたが、まさかの腹への拳か」
呻くような声と共に、ヴィスタはそう言って深く息を吐いた。そんなヴィスタにこれでもかと言うぐらい冷たい視線を向けながら、エリィは拳を引いて、もう片方の手でするりとその拳を撫でた。
「しかも王子に向かってクソ呼ばわりとは大した度胸だな」
「あら、何を仰っているのか私にはさっぱり」
いつの間にか床に落ちていた包みを拾い上げて、エリィは軽く微笑みながら口元に軽く指を当てて首を傾げ、すっ呆けて見せる。ヴィスタも相変わらず挑戦的な笑顔を浮かべたままだ。
「とぼける気か」
「空耳ですわ」
「冗談を――」
「空耳ですわ」
「いい度胸だな」
エリィは取りあえずすっ呆けて見せる物の、ヴィスタに良いように誘導されて嵌められた感は否めない。気付けばよかったのだ。明らかにヴィスタはエリィを怒らせにかかってきていた。人は怒れば怒るほど冷静さを失いやすい。逆を言えば、怒らせれば怒らせるほど、相手は冷静さを失って扱いやすくなるのだ。
それはエリィがアニ―ニャに対して証明してきた事である。
それをヴィスタはエリィに仕掛けてきたのだ。それにうっかり乗せられるまま乗せられて嵌められた。そして感情に任せてエリィはヴィスタに手を上げた。これではドリエン公爵とまるで同じではないか、とエリィは軽く自己嫌悪に陥る。
「王子を殴るなど不敬にもほどがある」
「尊敬できませんでしたので」
「素晴らしい理由だな」
「私の初めてを殿下に捧げただけですわ」
そう言って再びニッコリ笑ってみせれば、ヴィスタはますますニヤニヤと笑って応える。
――そうだったわ。元来ヴィスタ王子とはこういう性格だったじゃない。
余りにも長い間、情けないふりのヴィスタを見ていたせいで、すっかり本来のゲーム上でのヴィスタの性格を忘れて気を抜いていたのだ。ゲーム上のヴィスタは何度もノエルを追い詰めて、外堀を埋めて泣かせていた。あの腹黒っぷりを、ヴィスタの長年の演技にすっかり騙されて記憶の彼方だった。
「まぁ、返事は今すぐでなくていい。期限は――そうだな、1か月後。3月末にしようか」
「随分と気長ですわね」
「断りたければ断ればいい。不安なら見殺せばいい。リズに決めさせてやる」
「……取りあえず、今日はもう帰ります。酷く疲れましたので」
ヴィスタの言葉にあえて答えず、帰る旨を告げれば、ヴィスタは少しだけニヤけた笑顔を引っ込めて不満気に唇を曲げる。
「何か用事があって来たんじゃないのか」
「ええ。ですけど、全然足りない事に気が付いたので出直すことにしますわ」
「その包みの事か? 何を持ってきたんだ」
「ああ、これですか。お茶うけにでもと、折角我が侯爵家の料理長と2人でシュークリームを作って来たのです。けれど……ドリエン公爵に踏まれてしまいましたし、とてももう殿下に献上なんて出来なくなってしまったので」
そうエリィが少し視線を下げて言うと、途端にヴィスタは仏頂面になってエリィの手にある包みをヒョイと取り上げた。
「置いていけ。私が食べる」
「返してください。いくつか潰れてしまっていると思いますし、とても食べられるモノでは――」
「食べると言っている」
「無理をしなくていいのですよ?」
エリィがくすくすと笑いながら言えば、ヴィスタは憮然とした面持ちのまま、包みの口に手を添えた。
「今無理しないでいつ無理するんだ」
機嫌が悪そうにヴィスタはそう言って包みを開く。ドリエンが踏んだ部分は黄色いクリームがはみ出しており、無残と言っても過言ではない。。それでも被害にあわずに潰れていなかった一口大のシュークリームをヴィスタは一つ摘まむと、無造作に口に放り込んだ。
「……」
「お気に召したかしら?」
フンと鼻を一つ鳴らしてエリィはヴィスタに笑って見せる。それにヴィスタは答えず、口元に拳を当てて眉間の皺を深くした。
「……水」
「そんなものありませんわよ」
何かを堪える様に打ち震え俯きながら、ヴィスタが顔を盛大にしかめたまま言った言葉を、エリィはにべもなく払い落とす様に答える。先程までの笑顔を消してこれでもかと言うほど冷たい視線を浴びせれば、ヴィスタはエリィの思惑に気付いたのかギロリと睨み返した。
「食べるとおっしゃいましたよね」
「マスタード味のシュークリームなど食えるか」
「今無理しないで、いつ無理をするんでしょうか。おかしいですわね。殿下の言葉が、ブーメランの様に頭に刺さってるのが見えますわ。ハハッ」
あくまでも真顔で、冷たい視線を浴びせつつエリィがそう言えば、ヴィスタは悔しそうに唸る。
「この為に来たのか……」
「だから忠告して差し上げましたのに。『とても食べられるモノでは』って」
「そう言う意味だとは普通思わないだろうが!」
「私の善意が伝わらなくて残念ですわ。……あ、そうそう。先程も申し上げさせていただきましたが、”こんな物じゃ私の怒りを収めるには”全然足りない事に気が付いたので出直すことにしますわ」
「そっちの意味か!」
「言葉って便利ですわね? 取りあえず一人で歩いて先程のようなことがあっても困りますし、ヨシュアが居る所までイオルをお借りしますわね? では、殿下。ごきげんよう」
律儀にも2個目のシュークリームを食べようかどうか迷っているヴィスタを尻目に、必要以上に丁寧に礼をしてみせる。一切の笑みを浮かべず、絶対零度を心掛けた冷たい視線を向けたままで。恨みがましいヴィスタの視線が、エリィにとってはむしろご褒美の様にすら思える。
「……また来い」
不機嫌そうな顔のままボソリと紡がれたヴィスタの言葉に答えず、エリィは再び丁寧に一度お辞儀をした。そしてくるりと踵を返すと、黙ったまま振り返ることなくイオル達の方へと向かって歩き出したのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
よくある父親の再婚で意地悪な義母と義妹が来たけどヒロインが○○○だったら………
naturalsoft
恋愛
なろうの方で日間異世界恋愛ランキング1位!ありがとうございます!
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
最近よくある、父親が再婚して出来た義母と義妹が、前妻の娘であるヒロインをイジメて追い出してしまう話………
でも、【権力】って婿養子の父親より前妻の娘である私が持ってのは知ってます?家を継ぐのも、死んだお母様の直系の血筋である【私】なのですよ?
まったく、どうして多くの小説ではバカ正直にイジメられるのかしら?
少女はパタンッと本を閉じる。
そして悪巧みしていそうな笑みを浮かべて──
アタイはそんな無様な事にはならねぇけどな!
くははははっ!!!
静かな部屋の中で、少女の笑い声がこだまするのだった。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
我儘令嬢なんて無理だったので小心者令嬢になったらみんなに甘やかされました。
たぬきち25番
恋愛
「ここはどこですか?私はだれですか?」目を覚ましたら全く知らない場所にいました。
しかも以前の私は、かなり我儘令嬢だったそうです。
そんなマイナスからのスタートですが、文句はいえません。
ずっと冷たかった周りの目が、なんだか最近優しい気がします。
というか、甘やかされてません?
これって、どういうことでしょう?
※後日談は激甘です。
激甘が苦手な方は後日談以外をお楽しみ下さい。
※小説家になろう様にも公開させて頂いております。
ただあちらは、マルチエンディングではございませんので、その関係でこちらとは、内容が大幅に異なります。ご了承下さい。
タイトルも違います。タイトル:異世界、訳アリ令嬢の恋の行方は?!~あの時、もしあなたを選ばなければ~
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
自称ヒロインに婚約者を……奪われませんでした
影茸
恋愛
平民から突然公爵家の一員、アイリスの妹となったアリミナは異常な程の魅力を持つ少女だった。
若い令息達、それも婚約者がいるものまで彼女を一目見た瞬間恋に落ちる。
そして、とうとう恐ろしい事態が起こってしまう。
……アリミナがアイリスの婚約者である第2王子に目をつけたのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる