上 下
46 / 61

46. 幕間 : mourn with deep grief ※ヨシュア視点

しおりを挟む


 人の気配に気が付いて、振り返れば、元気のないエリィの顔が見えた。すぐ後ろに控えているイオルを見れば、少しだけ青ざめ、エリィを気遣う様な雰囲気を感じた。

「帰ってくると思ってた」

 そう言えば、エリィの表情は途端に崩れた。瞳が僅かに潤み、眉尻はこれでもかと言うほど下がる。口元は無理に笑いを浮かべようとしているのか、何とも微妙な曲線を描いていた。それを見れば、危惧していて通りの結果だったという事なのだろう。わかっていながら上手く止めれなかった事に僕は自嘲気味に微かに笑った。

「手、痛めちゃった」

 右手を少しだけ上げて見せて、左手でその手首を擦りながらエリィはそう言う。近づいてその手首を確かめる様に触ってみる。幸いにも腫れてはいないようで、少し捻っただけなのかもしれない。痛みを紛らわせられたらいいとそのままそっと擦ってみれば、エリィは涙を一つと一緒に小さくひと言こぼした。

 悔しいと呟いて目を擦るエリィに、王子と何事かあったのかと推察してイオルの方へ視線を投げる。そうすれば、イオルは一瞬ビクリと体を震わせて、わざとらしい程に姿勢を正した。恐らく何事かを知っているのは間違いなさそうで思わず視線がきつくなる。
 厳しい口調で問い詰めようとすれば、エリィがイオルは悪くないのだと言葉を重ねた。

「頭突きされて、馬鹿にされて、売られた喧嘩を買ったら嵌められて、頭にきて腹パンしたら手首痛めたのよ」

 要点をまとめて話したと思われるエリィの言葉に、一瞬だけ眩暈がする。王子が何やらやらかしたのは間違いなさそうだが、腹パンという言葉に妙に嫌な予感を覚えて聞き返してみれば、余りにも腹が立ったので王子の腹を殴ったという。いつものエリィなら人に手を上げること自体がありえない。そう考えると、かなりエリィ自身の情緒が不安定になっているのではないかと推察できた。普段より子供じみた言動はそれを如実に表しているように思えた。

 エリィに形ばかりの軽い苦言を呈して、イオルには帰るように促す。イオルはチラチラと心配そうにエリィを見ていたが、一礼するとくるりと踵をかえし、足早に去って行った。

「ヨシュアの言う事、聞いておけばよかったな」

 エリィが口先を尖らして言うのを、苦い思いで聞く。

 何年も前から、エリィは王女と兄さんが居る場への同席にいい顔をしなかった。もちろん表面上は笑顔を見せてそつなくこなしていたから、僕も最初の内は全く気が付かなかった。体調が悪くなったと途中で退席したり、具合が悪いとその席を欠席したことはあったが、元々体が弱かった為に疑問にも思わなかった。むしろ、最初はそんなエリィの付き添いだったり、暇つぶしの相手としてエリィを独り占めできることが嬉しくさえ思えていた。

 あの時、ちゃんと考えればおかしいと思う言動は多々あった。王女と別れた後はいつも以上にエリィは兄さんと一緒に居ることを望んだ。接触過多と言っても過言ではないぐらい、大好きと言っては抱きついていたように思う。僕の手を引きながら、まるで雛の様に兄さんの後をついて回り、全身で自分を見てほしいと訴えていたように思う。


 あれは何時の事だっただろう。

 
 はっきりとエリィの気持ちを感じた時期はもう覚えていないが、僕が12か13で王女が遊びに来て、庭園で兄さんと2人でお茶を飲んでいた時の事だったと思う。僕はいつもの様に体調が悪いと自室に引っ込んでいたエリィに付き添っていた。

 体調が悪いという割には、エリィは寝台に横になる事もせず、飾り気の少ないワンピース姿のまま窓際の椅子に腰を掛けていたのに違和感を覚えた。僕はテーブルを挟んで向かいの席に座り、エリィは窓の外――いや、下に見える庭園を見ている。どこか感情が抜け落ちたような無表情のエリィに僕は話しかけるのもためらわれて、読みかけの本をわざとらしく音をてて開いた。だがエリィはそんな僕の様子に全く注意を向ける事は無い。

 そのまま人形の様に身じろぎもせずに庭を見ているエリィを僕は本を読んでいるふりをして観察をする。あの時分のエリィは丁度少女から大人になる過渡期にあって、少女の可憐さや清廉さだけではない何かを醸し出す様になっていた。それは上流から川の中を転げ落ちる岩の様に、シャープだったフォルムが少しずつ角が取れて丸い柔らかさを伴うようになったことが大きな原因ではないだろうか。

 しばらくの間そうやって黙ったまま、時々読んでもいない本のページを捲る。部屋の中には僕が建てたページを捲る音以外大した音は無く、逆に窓の外、庭園で話している兄さんと王女の笑い声が時折届いた。

 感情豊かで天真爛漫な王女は、比較的静かなディレスタ家では春の風の様に感じられ、家族だけでなく使用人達の間でも評判は悪くない。まるでパッとついたランプの明かりの様な賑やかさを運んでくる。王女らしからぬクルクルと良く動く瞳に、軽やかに弾む澄んだ快活な声。茶色のふわりとした緩い巻き毛に明るいグリーンの瞳。誰からも愛されると評されるに値した女性らしい可愛らしさを備えた王女だ。王子に言わせれば元気過ぎると顔をしかめるのだろうが、その元気の良さも行き過ぎることも無く、非常に好ましいレベルと言わざるを得ない。

 そんな王女の小さな悲鳴が微かに聞こえた。その声に何事かと庭を見てみれば、王女はどうやら庭に飛び出て来たカエルに驚いたらしい。その証拠に兄さんにしがみつく王女の前、足元の辺りに茶色いそれらしき物体がぴょんと飛び寄ったのが見えた。
 王女は再び小さな悲鳴を上げて、兄さんの体を盾にするように、しがみついたまま後ろに回り込む。そんな王女に兄さんは何事か言い、王女の頭を一撫でして体を離させると、しゃがみ込んでそのカエルを手でつかんで拾った。そして掴んだまま立ち上がって振り返ると、王女に向かって驚かす様にずいと突き出す。そうすれば、王女は再び小さく悲鳴を上げて飛び退く。そうして再び兄さんが何事か言えば、王女の少し怒った様な抗議の声が聞こえた。

 その王女の言葉に応えるように上がった楽しそうな大きな笑い声。

 その声にエリィはピクリと反応した。見れば、眉根を寄せて酷く悲しそうな、今にも壊れてしまいそうなそんな表情をしている。そして、そのままエリィはきつく目を閉じた。

 兄さんは、昔から年齢以上に大人びた子供だった。激昂したことなど、あの幼い日の僕に対して以外見たことも無い。笑う時も穏やかに笑う事が常で、子供の様に大きな声を上げて笑う事などほとんど聞いたことが無い。その唯一の例外が王女と対している時だった。
 感情豊かな王女につられる様に、セシルは王女の前ではいつもより感情豊かに見えた。王女のちょっとした我が儘を叱ってみたり、悪戯を仕掛けてみたり、王女の冗談やリアクションに大きな声で笑ったり。

 あの2人は極めて良好な関係と言っても何ら問題はない。
 しかし、そこに男女としての感情があるか、と問われれば、僕は即座に否定することが出来た。

 確かに兄さんの王女を見る瞳には好意以外は映っていない。端から見ても王女を庇護欲をそそる可愛い物と捉えているのがよくわかる。だがそれは、誰もが子供や年下の者を可愛がる時の目と何ら変わない。恋情の欠片もないひたすら愛しむ目だ。

 だが、エリィの目にはそう映ってはいなかったようだ。

 しばらくの間耐えるように目を閉じて、その後ゆっくりと瞼を開けた。

「お兄さまは、やっぱり王女殿下とご一緒の時の方が楽しそうね。私も元気だったらああいう風に楽しめたのかしら」

 それは意識して言った言葉ではなかったのだろう。ただ事実を淡々と述べたつもり、そんな雰囲気があった。しかし、その瞳は燻った嫉妬と行き場のない悲しみや羨望を湛えているようで、酷く僕の胸を締め付けた。

「兄さんは王女殿下を本当の妹みたいに思っているからね。気安くもなるよ」

 兄さんをフォローするように僕は言う。エリィと会うよりも小さな頃から兄さんは王女と婚約をしていた。時にそれは弟である僕が羨むほど仲が良く、知らない人が見れば仲の良い兄妹だと言っても誰も疑わない程だ。付き合いの長さで言えば、エリィよりも王女の方が付き合いが長かったのは事実だ。でも、それだけなのだ。王女の気持ちがどうであれ、兄さんは王女を異性としては見ていない。それは昔から何ら変わっていない。

「妹は、私だわ」

 悲しそうな瞳で2人を見下ろしながらエリィは言う。その言葉に僕は何も答えることが出来なかった。兄さんがエリィをとっくに妹として見ていないのは知っていた。一人の女の子として、兄さんはエリィを見ている。妹に向けるよそれよりもずっと深い気持ちを、エリィに向けていたのを僕は知っていた。だからエリィにそれを告げるのは簡単だったはずだ。だが、言えなかった。

 僕だってエリィを姉としてではなく、一人の女の子として見ていたのだから。

 あの時の僕は小狡い子供だった。
 いや、それは今も変わらないのだろう。今だって、兄さんが見ているのはエリィであって、王女ではないと告げられずにいる。エリィが兄さんを恋しく思って苦しんでいると言うのに、僕はその間のエリィを独占できることの方が大事なのだから。兄さんと王女の事を考えて、傷ついて、そして兄さんの事を諦めるエリィを心待ちにしているのだ。それを小狡いと言わずしてなんと言うのだろう。

 兄さんは、懐に入った者には甘すぎるほどに甘い。たとえ婚約していたとしても、エリィが好きならば王女と距離を取る位簡単にできる筈だ。それでも兄さんはそれを出来ない。王女を傷つける事に躊躇するからだ。その躊躇がエリィを酷く傷つけている事に兄さんは気づいていない。それを、いやそれもわかっていて、僕は何も言わずにいる。何も言わずに送り出す。


―― ねぇ、君は何時兄さんを諦めるの?


 それから何回もそうやって目を伏せるエリィに心の中で問いかけた。それでも、エリィは縋る様な視線をずっと兄さんに向けていることが、とても腹立たしい。あんなにも恋い慕う顔をしていながら、その気持ちに気付ききれていないエリィは、気付いていないからいつまでもいつまでも諦めない。だから僕はやり方を変えた。


 エリィの目を塞いで独り占めする為に。


 兄さんが王女と会うのを後押しして、エリィには知らせない。終わった後で、それを知らない兄さんが、王女を話題にしてエリィを傷つけるの待つのだ。
 エリィが兄さんと王女の話を聞いて胸を痛め、悲しむ姿を見るたびに、僕の心も酷く傷つくのを知っていながら。僕はその方法を選んだ。これは代償なのだ。


 エリィが傷つけば傷つくほど、エリィの心が僕に向いていない事に、僕は馬鹿みたいに傷つく。

 それでも僕の心は血を流しながら、エリィを独り占めできる時間を得て歓喜に震えるのだ。
 

「帰ろっか」

 小さくため息をついてエリィが言う。話題を変えるために、何故城に来たのかと問えば、王子の悪戯の仕返しに来たと、少しだけ楽しそうにエリィは言った。その言葉に僕は思わず眉間に皺を寄せる。
 兄さんに少しも勝てないくせに、こうやっていつの間にか王子はエリィの心にいつもスルリと入り込む。それにイライラとした感情が沸き上がる。

「殿下の話は禁止って約束したじゃないか」

 一昨日の夜会の日に交わした約束を思い出して、僕は少しだけ顔をしかめてそう言ってみる。そうすればエリィは一瞬だけしまったと言った様な顔をしてから、小さく笑った。

「ヨシュアから聞いてきたんだから、これは除外でしょ」

 少しだけ元気を取り戻したエリィの笑顔に僕は小さく笑みを浮かべる。

「少し元気になったね」

 わざと僕はそう言った。そう言えば、エリィは兄さんと王女の事を思い出したのか表情を強張らせる。

 僕の言葉がエリィを傷つける。エリィの表情が僕を傷つける。
 この連鎖に僕の心は泣きながら喜びを感じる。

 まるで狂っているようだと自分でも思う。それでも、これを続ければエリィがいつか僕の腕の中に落ちてくるのではないかと淡い期待を抱いてしまうのだ。


―― ねぇ、早く僕の元に落ちておいでよ。


 僕はそれまで、真綿で囲うようにエリィの視界を塞ぐ。じわりじわりとその幅を狭めて、柔らかく優しい真綿の様な言葉でエリィを追い詰める。

「兄さんの事、気にしない方が良いよ」

―― ほら、またエリィは傷ついた顔をした。


 慰めの言葉と態度で、僕はエリィを傷つける。ゆっくり、ゆっくり、真綿で締め付けるように。


―― 早く兄さんを諦めないと窒息しちゃうよ?


 早く落ちておいでと何度も心の中で呼びかけながら、エリィの小さな背にそっと手を添え僕は歩き始める。

「気にすることなんて、何もないよ。変な事言うのね」

 傷ついた顔をしながら、エリィはぎこちない笑みを浮かべる。その歪な笑顔がとても愛おしい。

「ごめん。余計な事言った」
「ううん」

 エリィの歪な笑顔に僕の心が歓喜の声を上げ、血を流し、痛みにのたうちまわる。

 こんなのは間違っている。
 そんなのは重々承知だ。

 だが、兄さんがエリィを解放するつもりがないから、こんな方法しか取れないのだ。王女を拒絶することもせず、エリィを手放すこともしない。

 王女は強かだ。

 王女はとっくにエリィの気持ちも、兄さんの気持ちもわかっている。わかっていて、あえて知らない振りをするのだ。兄さんが王女を拒絶できないのを知っているから。そして知らない振りをしながら、王女も僕と同じように傷ついているのだろう。

 自分の愛する者を引き留めているのが、恋情ではないと知りながら。

 ゆっくりと自分の腕の中に落ちてくるのを、ただひたすらに待つのだ。何も気づかない振りをして。王女のその願いはきっと叶う。僕は知っている。エリィから聞かされたから。

――死ぬの。6月22日に、死ぬんだよ

 エリィには時間が無い。それは僕にも時間が無いことを表している。
 最期まで兄さんはエリィを縛り付けておくつもりなのかと、怒鳴り散らしたい気分だった。だけど、こんな事、兄さんに言えるわけが無い。あんなに辛そうに泣いたエリィを傷つける一番の原因に教えてやる義理もない。いっその事、エリィを傷つける全ての者からエリィを隔離してしまえば、僕の事を愛してくれるのだろうか。

 他に選択肢が無くなれば、僕だけのものになってくれるのだろうか。
 僕しか選べなくなったら、僕の物になってくれるのかな。

 ねぇ、エリィ。
 僕は代わりでもいいんだよ。

 兄さんの代わりでも、王子の代わりでも。君が愛してくれるなら。

 幼いあの日、君が僕にくれた優しさは、今も忘れてない。
 あの日から僕は君の物なんだ。
 あの日から、僕は毎日毎日、どんどん君を好きになった。

 その好きの重さでもう押しつぶされそうなんだ。

 僕の心の中を君が知ったら君はどう思うだろう。
 泣くかな? 怒るかな?
 きっと、両方なんだろうね。
 優しい君だから。

 エリィ、僕は最期まで君の側に居たいよ。許されるなら。


 だから、エリィ。
 誰の代わりでもいいから――


 少し歩いたところで、不意にエリィが立ち止まった。そして少しだけ振り返る様に、イオルの消えて言った方を見つめる。その通路の先にある、居る者を思い出しているのだろうか。今にも泣き出してしまってもおかしくないその表情で、エリィは僕の隣にいる。
 背中に当てたままの手に少し力を入れれば、エリィはハッとした様に僕の顔を見上げた。兄さんを恋い慕う辛さを瞳に湛えたまま。
 その瞳を僕はうっかり覗き込んでしまい、心臓が握りつぶされた様な痛みを覚えた。痛みを誤魔化す様に薄く笑えば、エリィは少し戸惑った顔をした。

 今の僕、上手く笑えているよね?

 不安に思いながらエリィの瞳を再び覗き込めば、そこには何とも不格好で歪な笑顔の僕が居た。今にも壊れてしまいそうな、薄氷の上を渡る様な危うい脆さが前面に出てしまっている、情けない笑顔。 
 慌ててエリィから視線を反らす様に顔を前に向けて、再びエリィの背中を押して歩くように促した。

 きっともうすぐ僕はこの気持ちに押しつぶされしまう。

 それを感じて手が震えた。

 その時僕はどうなるんだろう。

――胸が、痛い。

 エリィを好きでいられるのだろうか。

――胸が痛い。

 エリィを恨んでしまうのだろうか。

――痛い。

 何も感じなくなるのだろうか。

 痛い。

 いっそ何も感じ無くなれば、楽なのに。

 エリィと歩きながら、そっと視線を後ろに投げる。
 あの通路の先に居るであろう兄さんと、その婚約者。その存在がエリィを傷つけ、僕を傷つける。わかっていながら、僕は何もしない。何もしない事でエリィを真綿で包む。そしてエリィを包んだ真綿で、僕自身も包まれるのだ。



 

  

しおりを挟む

処理中です...