2 / 13
第2話
しおりを挟む
サーシャがその商店街に戻ってきたのは、それから一時間余り経ってからのことだった。
先刻まで降りしきっていた大雨はすっかり影を潜め、空は薄雲をまといながら、緩やかにその青をオレンジへと染めつつある。
「晴れるなら、もっと早く晴れてほしかったなあ……」
濡れた石畳の道を歩きながら、彼女は呟いた。そして空を見上げて歯噛みした。手に抱えたベージュのコートは、染みが広がって、すっかりグレーに染まってしまっている。全身に付いた水滴は、とうに滴り落ちきっていたものの、反面、彼女の心の中はずぶ濡れのままであった。
――当社は、人物重視なんでね。
先刻、面接官から投げられた言葉がリフレインした。
ずぶ濡れのままで面接室へ駆け込んだ彼女に対し、その男は苦々しい表情を浮かべた。そして口を開くや、そう告げた。その後は形式通りの質問を繰り返されただけで、そこは卒なく答えを返すことができたが、しかし最初に与えてしまった印象を覆すに足るものではなかった。男の苦々しい表情は消えることなく、その目は最初から最後まで、汚らしい濡れネズミを見るものだった。
何一つ手ごたえが無い、いや、それどころか、ここまで非採用を確信できる面接もなかっただろう。
そんな散々だった面接を思い返すと、ふと目頭が熱くなったが、彼女は溢れそうになる涙をぐっと堪えた。一度立ち止まり、右手をぎゅっと握りしめる。すると、手に持っていた傘の柄がそれを強く受け止め、その樫の素材が反発するように彼女の手に力を返した。
サーシャはその右手に持っているものをじっと見つめた。青色の傘だ。広げてみて分かったことだが、青色の生地には白抜きで大きく「ロッシュ商店」という文字が染め抜かれていた。文字の端が若干歪んでいることから、恐らくは傘職人の手によるものではないだろう。よく見ると、柄は手彫りで雑に彫刻されたもののようで、石突や露先に付けられている金具の意匠にも、どこかたどたどしいものを感じる。
「この傘、自分で作ったのかな」
あのぶっきらぼうな店員が作ったのであれば、なんだか納得できる。そう考えると、僅かに頬が緩んだ。
さて、この傘を返しに行かなければ。あの店員の誠意を活かせることはできなかったものの、それでも一言お礼を言いに行こう。そう思い、彼女はひとつ息を吐いた。まっすぐに前を見据え、再び足を踏み出した。
* * *
彼女が『ロッシュ商店』と書かれた店の手前まで来ると、若い長身の男の姿が目に入った。彼はロッシュ商店の前に立ち、上を見上げて、何やら唸っている。
「うーむ……」
年の頃は二十代後半くらいだろうか。腕組みし、なにやら考え込んでいるようで、彼の視線は商店の屋根の方へ固定されていた。
サーシャが店の前に差し掛かると、男は突然口を開いた。
「やあ、こんにちは」
「え……?」
サーシャが男を見るも、彼の視線は依然として店の屋根に向けられたままだ。誰に向かって挨拶したのだろうか、と思い、彼女もまた屋根へと視線を移したものの、そこには誰もいなかった。
再び彼女が男に視線を向けると、彼の視線はサーシャに向けられていた。男が静かに微笑んだので、彼女は先刻の挨拶は自身に向けられたのだと理解した。
「あ、こ、こんにちは……」
サーシャがおずおずと頭を下げると、男はまた微笑み、小さく会釈した。そしてまたその視線を店の屋根へと向けて言った。
「このヒサシが問題だったんですねえ……」
そして男は店の軒に付けられている布製の庇を指さした。
「ヒサシ……?」
サーシャがその庇を見つめる。ロッシュ商店の入り口の上に付けられている、茶色の布でできたオーニングだ。比較的新しいものに見えた。木製の枠に、木綿と思しき茶色の布がしっかりと張られている。
そして、男はサーシャに背を向けて、今度は街道の奥を指さした。
「見てくださいよ。この商店街」
「はあ……」
「あの角からここまでの間には十軒以上のお店があるのですが、庇があるのはここだけなんです」
「はあ」
よく分からないが、男は何やら楽し気である。そんな彼の意図が分からず、サーシャは困った様子で相槌を打った。男はさらに話を続けた。
「まあ、実際には四軒手前の喫茶店に庇があったのですが、先週の強風で壊れてしまっています。よって、ここは、北側から来る人にとって、商店街で最初の“庇がある店”だったわけなんですよ!」
男が腕を組み、得意げに微笑んだ。一体何の話をしているのだろうか、と、サーシャは困惑の色を隠せない。
「え、ええ、そうですね……??」
「道理で、ここに辿り着くわけです。これは盲点でした」
そして、男はまた視線をロッシュ商店の庇へと戻した。右手を顎に当て、その指先を口元へと這わせて呟く。
「ふうむ、庇はうちにしかなかったんですねえ。いや、うちにしかなくなった、と言うべきですか。うーむ、実に興味深い……」
(な、なんだろう、この人……? なんかおかしな人に捕まったぞ……??)
庇ひとつでよくここまで話ができるものだと感心しながらも、よく分からないことをブツブツと呟きだした男に、サーシャは戸惑った。
庇を見上げたまま、考えに耽ってしまった様子の男。もうこれ以上は付き合いきれないと、彼女は彼に一つ会釈をし、店の扉に手を掛けた。その時、男が再び口を開いた。
「そして反対側を見ると、今度は八軒先に行かないと庇は無い。これまた遠い」
彼はサーシャの歩いてきた方向の街並みを指さした。てっきり話が終わったものだと思っていたサーシャは、びくっと肩を震わせた。
「え、ええ、そうみたいですね……」
適当に相槌を打つ。この男は一体何が言いたいのだろうか。当然、そんな疑問を抱いたものの、そこで彼女はふと気づいた。この男の話していることは、もしや……。
と、男がさらに続けた。
「なるほど、皆さんがうちで雨宿りするわけですねえ。実に面白い現象ですよ、これは」
まさにそれであった。先刻、突然の大雨に振られたサーシャが、この店の軒先を借りようと判断した理由が、男の話している言葉のままなのだ。北側からここに訪れた彼女にとっては、この店の軒先以外に避難場所がなかったのである。恐らくは、彼女以外にもここで雨宿りする者がいたのだろう。彼女らがこの軒先に集う理由を、この男は懸命に分析していたのである。
サーシャが口を開いた。
「え、えと……、ここのお店の方ですか?」
「ん? そうですよ?」
男はきょとんとした顔で言葉を返した。サーシャは、右手の傘をすっと差しだした。
「あの、傘を返しに来ました」
先刻まで降りしきっていた大雨はすっかり影を潜め、空は薄雲をまといながら、緩やかにその青をオレンジへと染めつつある。
「晴れるなら、もっと早く晴れてほしかったなあ……」
濡れた石畳の道を歩きながら、彼女は呟いた。そして空を見上げて歯噛みした。手に抱えたベージュのコートは、染みが広がって、すっかりグレーに染まってしまっている。全身に付いた水滴は、とうに滴り落ちきっていたものの、反面、彼女の心の中はずぶ濡れのままであった。
――当社は、人物重視なんでね。
先刻、面接官から投げられた言葉がリフレインした。
ずぶ濡れのままで面接室へ駆け込んだ彼女に対し、その男は苦々しい表情を浮かべた。そして口を開くや、そう告げた。その後は形式通りの質問を繰り返されただけで、そこは卒なく答えを返すことができたが、しかし最初に与えてしまった印象を覆すに足るものではなかった。男の苦々しい表情は消えることなく、その目は最初から最後まで、汚らしい濡れネズミを見るものだった。
何一つ手ごたえが無い、いや、それどころか、ここまで非採用を確信できる面接もなかっただろう。
そんな散々だった面接を思い返すと、ふと目頭が熱くなったが、彼女は溢れそうになる涙をぐっと堪えた。一度立ち止まり、右手をぎゅっと握りしめる。すると、手に持っていた傘の柄がそれを強く受け止め、その樫の素材が反発するように彼女の手に力を返した。
サーシャはその右手に持っているものをじっと見つめた。青色の傘だ。広げてみて分かったことだが、青色の生地には白抜きで大きく「ロッシュ商店」という文字が染め抜かれていた。文字の端が若干歪んでいることから、恐らくは傘職人の手によるものではないだろう。よく見ると、柄は手彫りで雑に彫刻されたもののようで、石突や露先に付けられている金具の意匠にも、どこかたどたどしいものを感じる。
「この傘、自分で作ったのかな」
あのぶっきらぼうな店員が作ったのであれば、なんだか納得できる。そう考えると、僅かに頬が緩んだ。
さて、この傘を返しに行かなければ。あの店員の誠意を活かせることはできなかったものの、それでも一言お礼を言いに行こう。そう思い、彼女はひとつ息を吐いた。まっすぐに前を見据え、再び足を踏み出した。
* * *
彼女が『ロッシュ商店』と書かれた店の手前まで来ると、若い長身の男の姿が目に入った。彼はロッシュ商店の前に立ち、上を見上げて、何やら唸っている。
「うーむ……」
年の頃は二十代後半くらいだろうか。腕組みし、なにやら考え込んでいるようで、彼の視線は商店の屋根の方へ固定されていた。
サーシャが店の前に差し掛かると、男は突然口を開いた。
「やあ、こんにちは」
「え……?」
サーシャが男を見るも、彼の視線は依然として店の屋根に向けられたままだ。誰に向かって挨拶したのだろうか、と思い、彼女もまた屋根へと視線を移したものの、そこには誰もいなかった。
再び彼女が男に視線を向けると、彼の視線はサーシャに向けられていた。男が静かに微笑んだので、彼女は先刻の挨拶は自身に向けられたのだと理解した。
「あ、こ、こんにちは……」
サーシャがおずおずと頭を下げると、男はまた微笑み、小さく会釈した。そしてまたその視線を店の屋根へと向けて言った。
「このヒサシが問題だったんですねえ……」
そして男は店の軒に付けられている布製の庇を指さした。
「ヒサシ……?」
サーシャがその庇を見つめる。ロッシュ商店の入り口の上に付けられている、茶色の布でできたオーニングだ。比較的新しいものに見えた。木製の枠に、木綿と思しき茶色の布がしっかりと張られている。
そして、男はサーシャに背を向けて、今度は街道の奥を指さした。
「見てくださいよ。この商店街」
「はあ……」
「あの角からここまでの間には十軒以上のお店があるのですが、庇があるのはここだけなんです」
「はあ」
よく分からないが、男は何やら楽し気である。そんな彼の意図が分からず、サーシャは困った様子で相槌を打った。男はさらに話を続けた。
「まあ、実際には四軒手前の喫茶店に庇があったのですが、先週の強風で壊れてしまっています。よって、ここは、北側から来る人にとって、商店街で最初の“庇がある店”だったわけなんですよ!」
男が腕を組み、得意げに微笑んだ。一体何の話をしているのだろうか、と、サーシャは困惑の色を隠せない。
「え、ええ、そうですね……??」
「道理で、ここに辿り着くわけです。これは盲点でした」
そして、男はまた視線をロッシュ商店の庇へと戻した。右手を顎に当て、その指先を口元へと這わせて呟く。
「ふうむ、庇はうちにしかなかったんですねえ。いや、うちにしかなくなった、と言うべきですか。うーむ、実に興味深い……」
(な、なんだろう、この人……? なんかおかしな人に捕まったぞ……??)
庇ひとつでよくここまで話ができるものだと感心しながらも、よく分からないことをブツブツと呟きだした男に、サーシャは戸惑った。
庇を見上げたまま、考えに耽ってしまった様子の男。もうこれ以上は付き合いきれないと、彼女は彼に一つ会釈をし、店の扉に手を掛けた。その時、男が再び口を開いた。
「そして反対側を見ると、今度は八軒先に行かないと庇は無い。これまた遠い」
彼はサーシャの歩いてきた方向の街並みを指さした。てっきり話が終わったものだと思っていたサーシャは、びくっと肩を震わせた。
「え、ええ、そうみたいですね……」
適当に相槌を打つ。この男は一体何が言いたいのだろうか。当然、そんな疑問を抱いたものの、そこで彼女はふと気づいた。この男の話していることは、もしや……。
と、男がさらに続けた。
「なるほど、皆さんがうちで雨宿りするわけですねえ。実に面白い現象ですよ、これは」
まさにそれであった。先刻、突然の大雨に振られたサーシャが、この店の軒先を借りようと判断した理由が、男の話している言葉のままなのだ。北側からここに訪れた彼女にとっては、この店の軒先以外に避難場所がなかったのである。恐らくは、彼女以外にもここで雨宿りする者がいたのだろう。彼女らがこの軒先に集う理由を、この男は懸命に分析していたのである。
サーシャが口を開いた。
「え、えと……、ここのお店の方ですか?」
「ん? そうですよ?」
男はきょとんとした顔で言葉を返した。サーシャは、右手の傘をすっと差しだした。
「あの、傘を返しに来ました」
0
あなたにおすすめの小説
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
侯爵家の婚約者
やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。
7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。
その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。
カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。
家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。
だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。
17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。
そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。
全86話+番外編の予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる