石の王冠は誰のもの

阿山ナガレ

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第2話

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 サーシャがその商店街に戻ってきたのは、それから一時間余り経ってからのことだった。

 先刻まで降りしきっていた大雨はすっかり影を潜め、空は薄雲をまといながら、緩やかにその青をオレンジへと染めつつある。

「晴れるなら、もっと早く晴れてほしかったなあ……」

 濡れた石畳の道を歩きながら、彼女は呟いた。そして空を見上げて歯噛みした。手に抱えたベージュのコートは、染みが広がって、すっかりグレーに染まってしまっている。全身に付いた水滴は、とうに滴り落ちきっていたものの、反面、彼女の心の中はずぶ濡れのままであった。


 ――当社は、人物重視なんでね。

 先刻、面接官から投げられた言葉がリフレインした。
 ずぶ濡れのままで面接室へ駆け込んだ彼女に対し、その男は苦々しい表情を浮かべた。そして口を開くや、そう告げた。その後は形式通りの質問を繰り返されただけで、そこは卒なく答えを返すことができたが、しかし最初に与えてしまった印象を覆すに足るものではなかった。男の苦々しい表情は消えることなく、その目は最初から最後まで、汚らしい濡れネズミを見るものだった。
 何一つ手ごたえが無い、いや、それどころか、ここまで非採用を確信できる面接もなかっただろう。

 そんな散々だった面接を思い返すと、ふと目頭が熱くなったが、彼女は溢れそうになる涙をぐっと堪えた。一度立ち止まり、右手をぎゅっと握りしめる。すると、手に持っていた傘の柄がそれを強く受け止め、その樫の素材が反発するように彼女の手に力を返した。

 サーシャはその右手に持っているものをじっと見つめた。青色の傘だ。広げてみて分かったことだが、青色の生地には白抜きで大きく「ロッシュ商店」という文字が染め抜かれていた。文字の端が若干歪んでいることから、恐らくは傘職人の手によるものではないだろう。よく見ると、柄は手彫りで雑に彫刻されたもののようで、石突や露先に付けられている金具の意匠にも、どこかたどたどしいものを感じる。

「この傘、自分で作ったのかな」

 あのぶっきらぼうな店員が作ったのであれば、なんだか納得できる。そう考えると、僅かに頬が緩んだ。

 さて、この傘を返しに行かなければ。あの店員の誠意を活かせることはできなかったものの、それでも一言お礼を言いに行こう。そう思い、彼女はひとつ息を吐いた。まっすぐに前を見据え、再び足を踏み出した。


* * *

 彼女が『ロッシュ商店』と書かれた店の手前まで来ると、若い長身の男の姿が目に入った。彼はロッシュ商店の前に立ち、上を見上げて、何やら唸っている。

「うーむ……」

 年の頃は二十代後半くらいだろうか。腕組みし、なにやら考え込んでいるようで、彼の視線は商店の屋根の方へ固定されていた。
 サーシャが店の前に差し掛かると、男は突然口を開いた。

「やあ、こんにちは」

「え……?」

 サーシャが男を見るも、彼の視線は依然として店の屋根に向けられたままだ。誰に向かって挨拶したのだろうか、と思い、彼女もまた屋根へと視線を移したものの、そこには誰もいなかった。
 再び彼女が男に視線を向けると、彼の視線はサーシャに向けられていた。男が静かに微笑んだので、彼女は先刻の挨拶は自身に向けられたのだと理解した。

「あ、こ、こんにちは……」

 サーシャがおずおずと頭を下げると、男はまた微笑み、小さく会釈した。そしてまたその視線を店の屋根へと向けて言った。

「このヒサシが問題だったんですねえ……」

 そして男は店の軒に付けられている布製のひさしを指さした。

「ヒサシ……?」

 サーシャがその庇を見つめる。ロッシュ商店の入り口の上に付けられている、茶色の布でできたオーニングだ。比較的新しいものに見えた。木製の枠に、木綿と思しき茶色の布がしっかりと張られている。

 そして、男はサーシャに背を向けて、今度は街道の奥を指さした。

「見てくださいよ。この商店街」

「はあ……」

「あの角からここまでの間には十軒以上のお店があるのですが、庇があるのはここだけなんです」

「はあ」

 よく分からないが、男は何やら楽し気である。そんな彼の意図が分からず、サーシャは困った様子で相槌を打った。男はさらに話を続けた。

「まあ、実際には四軒手前の喫茶店に庇があったのですが、先週の強風で壊れてしまっています。よって、ここは、北側から来る人にとって、商店街で最初の“庇がある店”だったわけなんですよ!」

 男が腕を組み、得意げに微笑んだ。一体何の話をしているのだろうか、と、サーシャは困惑の色を隠せない。

「え、ええ、そうですね……??」

「道理で、ここに辿り着くわけです。これは盲点でした」

 そして、男はまた視線をロッシュ商店の庇へと戻した。右手を顎に当て、その指先を口元へと這わせて呟く。

「ふうむ、庇はうちにしかなかったんですねえ。いや、、と言うべきですか。うーむ、実に興味深い……」

(な、なんだろう、この人……? なんかおかしな人に捕まったぞ……??)

 庇ひとつでよくここまで話ができるものだと感心しながらも、よく分からないことをブツブツと呟きだした男に、サーシャは戸惑った。



 庇を見上げたまま、考えに耽ってしまった様子の男。もうこれ以上は付き合いきれないと、彼女は彼に一つ会釈をし、店の扉に手を掛けた。その時、男が再び口を開いた。

「そして反対側を見ると、今度は八軒先に行かないと庇は無い。これまた遠い」

 彼はサーシャの歩いてきた方向の街並みを指さした。てっきり話が終わったものだと思っていたサーシャは、びくっと肩を震わせた。

「え、ええ、そうみたいですね……」

 適当に相槌を打つ。この男は一体何が言いたいのだろうか。当然、そんな疑問を抱いたものの、そこで彼女はふと気づいた。この男の話していることは、もしや……。

 と、男がさらに続けた。

「なるほど、皆さんがうちで雨宿りするわけですねえ。実に面白い現象ですよ、これは」

 まさにそれであった。先刻、突然の大雨に振られたサーシャが、この店の軒先を借りようと判断した理由が、男の話している言葉のままなのだ。北側からここに訪れた彼女にとっては、この店の軒先以外に避難場所がなかったのである。恐らくは、彼女以外にもここで雨宿りする者がいたのだろう。彼女らがこの軒先に集う理由を、この男は懸命に分析していたのである。

 サーシャが口を開いた。

「え、えと……、ここのお店の方ですか?」

「ん? そうですよ?」

 男はきょとんとした顔で言葉を返した。サーシャは、右手の傘をすっと差しだした。

「あの、傘を返しに来ました」
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