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第一章 氷の魔女

1-20 アイルの本気とその代償

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 広間の中の全ての空気が動き始めた。

『その詠唱は……』

「黙っていないと舌を噛みますよ。すぐに始まりますからね」

 ミュウの言葉通り、動き始めた空気は広間の中央に位置するゴーレムを中心に渦を巻き始め、アイルも傍の柱に掴まっていないと飛ばされそうなほどの勢いになる。

『く……こんな……まさか』

 魔女ダイアの声が信じられないといった様子で聞こえてくるが、恐らくは彼女もこの嵐の中にいるのだろう。

 ゴーレムの身体がフワリと浮いた。

 一体どれほどの重量なのか想像もつかないほどの巨体が宙に浮いたまま、ぐるぐると回転を始める。

 空気の渦は激しさを増し、嵐の中では時折雷光が走っているようだ。

『ぐうううう……だが、この程度の風で我が傑作を破壊できると……』

「Κντ εβερνθινγ!」

 ミュウの次なる詠唱が響いた。

 柱にしがみつくアイルは、ゴーレムの身体のあちこちが徐々に切り刻まれていくのを見ていた。

『詠唱に詠唱を重ねるだと……そんなことが……』

「あら、二流の魔女様でしたか。そんなことも出来ないなんて」

 ミュウだけは嵐の影響を受けないようで、涼しい声でダイアを揶揄する。

 そうしている間にもゴーレムの腕が、脚が、様々な方向に捻じれ、ちぎれ、胴体を形成する氷もみるみる剥がれてゆき、中にいた人々の身体が渦の中に放り出されていく。

 やがて手足を失い、ただの巨大な氷の塊となったゴーレムがくるくると氷を撒き散らしながら回転している状態になった。

「Λιγφτνινγ στρικε!」

 三度目となる詠唱が響いた。

 渦の上空、広間の天井辺りに雷光が集まる。

 バチバチと音を立てながらスパークする雷光が爆発した、と感じた瞬間にあまりの眩しさにアイルは視界を失い、巨大な爆音だけが耳に届いた。

 かろうじて左手を眼の前にかざしていたために直接その光を見ずには済んだが、それでも数秒間は視界が真っ白になった。

 その爆音の後は周囲は静かになり、気がつけば風も止んでいた。

 少しずつ視界が戻ってきたアイルは状況を確認する。

「アイルさんがプスっとしなくても大丈夫そうです。ゴーレムの中にいた人間は全て黒焦げになりましたよ」

 ボヤケた視界の中で、その小柄な少女は笑いながらその場に倒れていった。

 思わず駆け出したアイルだったが、ゴーレムの残骸やら焦げた何かが散らばる床の向こうにある豪華な椅子の上に伏せた誰かの姿を見つけた。

「そうです……私に構っている場合ではありません。後は……お願いしましたからね?」


 ミュウの事は心配だったが、彼女が全力で作り出してくれたチャンスをフイにするわけにはいかない。


 アイルはミュウが王都で買っておいてくれたという剣を抜くと、全力で奥の玉座に座る魔女ダイアに向けて駆け出した。

 ダイアも椅子にしがみついて嵐に耐えた後にあの爆発を見てしまったようで、まだ若干朦朧としているようだ。

『おのれ……、まさかこれほどの魔法を操る存在がいるとは……。だが、そこが限界であったか。ん? 剣士がまだいたか』

 自分に向かって剣を構えて駆け寄るアイルの姿を確認したダイアは、立ち上がり口元を歪ませる。

『舐められたものです。たかが剣士一人で何が出来るというのですか。そこの小娘ともども新しい氷像となって我が城を飾り立てるとよいでしょう』

 ダイアの口が早口で何かを詠唱している。

 恐らくは辺り一体を凍りつかせる魔法か何かなのだろう。
 ミュウがくれたローブだけで防ぎきれるものかも怪しいものだ。


 だから。


 アイルは約束通り、本気を出すことにした。

 ミュウの言うことが本当なのかはわからない。

 もし嘘、あるいはミュウの思っていた通りにならなければ二人ともこの場で死ぬだろう。

 だがアイルはミュウを信じることにした。

 例え、魔女を倒すために自分を利用しているだけだとしても、その目的は両の眼を取り戻すためだけだったとしても。

 それでもミュウはアイルの力を全面的に信じてくれている。

 アイルの過去を知っても、その信頼に揺るぎは無かった。

 恐らく、この先、もっと過去を知られたとしてもあの子は自分を裏切らない、そんな思いが根拠なくアイルを支配していた。

 だから。

 アイルは本気を出すことにした。


「ε・λ・ε・ν・ω・α」

『さようなら、勇ましい剣士さん』


 ダイアの胸の前あたりに青い光が集まり、その光が指向性を持ってアイルに向かう。指向性を持ちながらも徐々にその面積は広がっていき、とても回避が出来るような代物ではなかった。

 青く巨大な光線がアイルを包み込んだ。

 その光線が触れた床、壁、焦げた死体、それら全てがパキパキと音を立てて瞬時に凍っていく。

『ほほほ、凍ってしまいなさい。ここで新たなオブジェになるのです。そしてまたこのダイアに逆らおうという輩がここに来たときは、今度はお前がゴーレムの核となるのです』

 魔女ダイアの哄笑まじりの勝ち誇った声だけが広間に響き渡り、やがて数秒間放射された青い光がその輝きを失っていく。

『ははははは、所詮は剣士なんてこんなもの。あの小娘も……ん?』

 再び白一色に染め上げられた広間を見渡して、己の絶大な魔力に酔いしれようとするダイア、広間の中央にはその象徴となるべき新たな氷像が立っているはずだ。

 はずだった。

 確かに、広間の中央には男が立っていた。だが、それは氷像ではなかった。

 足元の手前あたりから床も凍らず、まるで光線がそこだけ避けていったかのように男を中心にその背後は全く凍っていなかった。
 倒れたままの少女も男の背後であったために、凍りつくのを免れていた。

『馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な……お前は一体……』

 ミュウの起こした嵐のせいで一旦暗くなっていた広間に、再び窓から陽光が差し込む。

「ふふ、思ったとおりです……計算通りです……やっぱり魔女を倒すのにあなたは絶対に必要な存在なのです」

 朦朧とする意識の中で、ぼやけた視界の中で、自分が想像した通りの姿を見つけたミュウは満足そうに笑う。


 そこには先程まで着ていた赤茶けたローブを脱ぎ捨て、手にはただただ無骨な大きめの剣をぶらさげ、黒く短い髪を持つ剣士がいた。
 それは間違いなくアイルのはずだが、その顔は人間とは思えなかった。

 通常の人間よりも切れ上がった大きな眼に、白目部分が一切見られない碧眼の瞳、細く長く尖った耳。

『その姿は、お前はまさか……』

「Οοοοοοοοοο!!」

 異形の剣士となったアイルは咆哮を上げる。
 ビリビリと広間の壁が振動し、先程凍りついた壁から氷が剥がれ落ちる。

『ひっ』

 魔女ダイアは慌てて逃げようと身を翻すが、アイルはそのまま大地を蹴り、信じられない速度でダイアに迫ってくる。

『Ικε βολτ!!』

 迫りくる剣士に向かって、複数の氷弾を発生させて打ち出すダイア。
 だが、その氷弾はすべて剣士に当たる寸前で砕け散る。

『そんな馬鹿な!!』

 思わずそんな言葉を放つ一瞬の間に、アイルはもうダイアの眼の前に立っていた。

 キィン!

 アイルが無造作に振るった剣が何かに当たって止まる。

 それは魔女ダイアが常に自己の周囲に張り巡らせている自動防御のための氷の盾だった。
 剣を弾きはしたものの、その瞬間に氷の盾も崩壊する。

 盾に剣が弾かれる隙きをついて、一旦距離を取るダイア。

『貴様……身体の周囲に魔法無効化の結界でも張っているのか!』

 ダイアの口調からは既に丁寧な調子が無くなっていた。


 アイルは改めて剣を構えつつ、ダイアを睨みつける。

 氷の魔女だからなのか元からなのか、ダイアの髪は濃い青色をしている。
 体型は普通だが、特徴的なのはその顔だ。

 やや垂れ下がった目と横に広がった大きな鼻、厚めの唇が常人よりはかなり横長に顔を占めている。
 アイルも人間と共に長く生きてきた中で、どんな顔が美人だと持て囃され、どんな顔が醜いと蔑まれるのかを見てきた。
 なるほど、魔女ダイアの顔は確かにミュウの言ったとおり醜いと評される造形ではあるのだろうが、もともと男女の美醜についてあまり興味がないアイルにはどうでもいいことだった。
 それに、ミュウが醜いと言ったのは顔の造りの話ではないのだろう。


『貴様も私を醜いと思うのか? この姿を見て、蔑むのだろう!』

 白目がなく、眉などもなくなっているアイルの顔からは感情が窺えず、ただじっと見られていることに耐えられなくなったダイアが叫ぶ。

「俺は、顔が綺麗だとかどうとか、そんなことには興味はない。それに人間の美しさとはその造形ではなく、内面の美しさのことを指すのだと思う。ミュウがお前を醜いと評したのも、お前の姿を見たからではなく、セルアンデの兵達やこの国の民の身体を使ってあのような人形を作り出した心根のことを言ったのだと思う。お前は我が身の醜さを呪うあまり、心まで醜くなってしまったのだろう」

 言ってからアイルは自分に驚いてしまった。

 恐らくこの世に生を受けてから、こんなに長く喋ったのは初めてではないだろうか、自分がこんなに饒舌に長く喋ることが出来るとは思わなかった。

 普段無口であまり他人とコミュニケーションを取らずに考え事ばかりしているような人種は、己の考えを述べる機会が訪れると異常に饒舌になるものである。
 アイルはそれをいま初めて身をもって体験したのである。

『この顔を何とも……思わないのか』

「ああ」

 その顔は驚きに代わり、次いでホッとした表情になる。

『ふ、ふふ、そうか。この世がお前のような人間ばかりなら、私もこうはならなかったであろうにな。ヘレン以外にもそんな風に思う者がいるのか』

 ダイアは両手を己の胸の前にかざす。

『私はこの容姿のためにずっと虐げられてきた。実の両親にさえな。ただ一人、ヘレンだけが私を醜いとは言わなかった。お前の言う通り、私は既に心までが醜く変貌してしまったのだろう。ヘレンが魔女になることを選んだ時、私もまた共に歩むことにしたのだ。共に、己を虐げてきた人間に復讐するために』


 アイルも剣を構え直した。

 ダイアの言葉によるならば、きっとその容姿のせいで辛い過去を送ってきたのであろう。それが元で魔女になどなったのかも知れない。
 だが、どんなに辛い境遇だったからといって無辜の民を蹂躙していい理由にはならない。

 そして、民を苦しめる魔女を討つ。それがエレノアとの約束である。

『いいだろう、お前が私を討つというならば、最大の魔法を以てここに葬り去ることにしよう』

 魔女ダイアが詠唱を終える前に間合いを詰めてしまえば倒すことも出来そうではあったが、アイルはなんとなくそれは彼女に対して誠実ではない気がした。

『Πονερ το στοπ τιμε』

 ダイアの詠唱が始まる。
 全ての時を、あらゆる物の活動を止める極低温魔法。
 それをアイルというただ一点に集約しようとしている。

 ミュウが解き放ってくれた『本来の力』。
 それがいつまで続くのかわからない以上は、ここで決着をつけねばならない。

「Λιγφτ βεσομε μν σφιελδ」

 ギフトが身体能力系統であったことが判明したせいか、魔法について詳しく教育されなかったアイルが唯一教えられた魔法。
 自らの内包魔力を身体に纏わせ、あらゆるものから身を護るという魔法。

 魔女ヘレンに言葉を封じられてからは、使うことが叶わなかった無用の長物。

 それが最初の魔女の魔法も、次の氷弾も防ぎきった。

 それに賭けるしかない。

『Ισισλε νινδ,στοπ εβερνθινγ』

 アイルが光を身に纏ったと同時に、ダイアの詠唱が終わる。

 ダイアがかざした両手には先程と同じように青い光が収束し、その光は今度は広がることなくアイルただ一人を目指して放たれた。

 同時にアイルは地面を蹴る。

 剣を眼前にかざし、魔女の放つ魔法を切り裂かんとただ前進した。

 カッ!と広間全体が青く光る。

 アイルに衝突した青い光が、アイルの張る結界と相克することでその輝きをましているのだ。

「おおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 その光に押し負けまいと、咆哮を上げて突き進まんとするアイル。



 その青い輝きが止んだ時、アイルの剣先はダイアの心臓の辺りを貫いていた。

『ごめんね……ヘレ……』

 最期の言葉を言い終わる間もなく、ダイアの首が宙に舞った。

 アイルがミュウにもらった剣はダイアに突き刺したままで、背中の剣で首を刎ねたのだ。

 空中をゆっくりと舞うダイアの表情は、何故か安らかだった。

 落下してきた頭部を剣で床に縫い付ける。


「さすがです……アイルさん」

 戦いの様子を見届けたミュウは、笑顔になりながら今度こそ意識を失った。


 トドメを刺されたダイアの身体からは黒い瘴気が漏れ始めた。

 やがてその瘴気は、アイルの身体に吸い込まれていく。


「ハァ……ハァ……」

 アイルは片膝をつく。
 なんとかダイアの頭部を床に縫い付けた剣を支えにして倒れないで済んでいる。

 気がつけばその姿は、いつもの傭兵アイルに戻っていた。


 アイルがミュウの様子を見ようと振り返った所で、周囲の時間が止まった。

「ふうむ、どういう手を使ったのかわかりませんが、契約違反が私に届くのを遅延させた……いや、一時的に契約の効力を無効化した? のですかね。まあ、ほんの短い時間ではありましたが、そんなことが出来るのは……」

 ふと見上げればいつぞやの紳士が宙空に現れていた。

 今日の出で立ちは先日とは全く違い、水色の生地にアイルが見たこともないような木々の絵が精巧に描かれた半袖のシャツに、下も黄土色の膝ぐらいまでしかないようなズボン。
 藁のような素材で編まれた帽子に、マレーダーがかけている眼鏡のガラス部分を真っ黒にしたような眼鏡。靴、というよりも草履のような履物。
 およそ、この氷に包まれた広間には似つかわしくない、見ているだけで寒くなってくるような姿だった。

「これですか? これは例の世界の南国、いわゆる暑い地域で過ごすような服なんですよ。私もビーチでトロピカルジュースを飲みながら、波打ち際のビキニの女性達を眺めてくつろいでいたんですがねえ。契約に異常を感知して着のみ着のまま飛んできたというわけです。が、これはどうしましょうかねえ」

 男は腕組みをして悩んでいる。

「実際記録上は、契約違反の記録が為されていないのですよ。ここで何が起こったのか証人はあなたとあの少女だけですが……ん? あの少女は……ああ、そういうことですか。確かにそれならば一時的な無効化もあり得るというものです」

 今度はうんうんと頷き始めた。

「記録に残るような契約違反でしたらペナルティ、という所ですが、実際のところどうですアイル様? 一時的な無効化の反動がそろそろ来ているのではありませんか? 人の身のままであの力を使えば、到底もつわけがありませんからねえ。ペナルティを与えるまでもなく、もうすぐ悶え苦しむような苦痛が襲ってくると思うのですよ。それはそれで面白いですから、このままということにしましょう」

 男は例の笑みを浮かべた。

「では、私はこれにて。あ、そうそう、魔女ヘレンの力を分け与えられた魔女を一人滅ぼしましたので、契約によって奪われた力の一部がアイル様に戻ってまいりました。残念ながらこの魔女はあの少女から奪った力を与えられていなかったようで、あの少女には変化はございませんね。なんとこれからはアイル様は『一度に二文字』も話すことが出来るんです! おめでとうございまーす!」

 去り際に何か派手な音がする道具を取り出し、男はその道具についていた紐を引いてパアン!と鳴らしながら男は消えていった。

「ぐっ……」

 そして男の予言通りに、前回のペナルティとやらとは比べ物にならないほどの苦痛が全身を襲い始めた。
 早くこの前のように意識を手放してしまいたいところだが、こんな氷のど真ん中で、既にミュウからもらったローブも来ていない状態では危険だ。
 何よりもミュウが心配である。

 だが、身体は思うように動かず、手を伸ばしただけで信じられないほどの激痛が全身を駆け巡る。

 視界にミュウを収めた時、そのミュウの傍らに赤茶けたローブを着た長身の男が立っているのを確認したところでアイルの意識は途切れた。
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