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08 それから、一ヶ月
しおりを挟む「――あなた、そろそろ帰らないと。雨が降ってきているわ」
「おぉ、いつの間に」
そんな佐武夫婦の会話を聞きながら猫太朗は動く。そして予想どおり、伝票を持った江津子が歩いてきた。
「ご馳走さま。お会計をお願いするわ」
「はい、ありがとうございました」
にこやかな笑みで伝票を受け取り、会計を済ませる。釣り銭とレシートを渡したところで、猫太朗は優しい口調で声をかけた。
「まだ降り始めたばかりですが、お気をつけて」
「ありがとう。近所だから大丈夫よ。傘もちゃんと持ってきているからね」
「はぁ、参ったもんだなぁ。俺はてっきりいらないと思ってたが……」
「だから私の言ったとおりになったじゃありませんか」
「全くだ」
ため息をつく江津子に、義典は悪びれもなくニカッと笑う。しかし江津子はそれに対して怒ったりすることはない。仕方がない人ですねと言わんばかりに、苦笑を浮かべるだけであった。
「さ、早く帰るぞ」
「偉そうに言わないでくださいな――では、失礼します」
江津子がペコリと頭を下げると、猫太朗も改めてにこやかな笑みを見せる。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「にゃあっ」
「にぅっ」
そして猫太朗も頭を下げると同時に、足元から二匹の猫が鳴き声を上げた。
クロベエとマシロ――この店の看板猫である可愛らしい存在に、佐武夫婦は頬を緩めながら手を振り、カランコロンと音を立てながら店を出ていった。
「――ふぅ」
猫太朗は小さなため息をつき、空いた食器とカップを片付ける。店の中は再び、彼と二匹の猫のみとなった。
それ自体は別に珍しくもなんともないのだが、彼らは妙に寂しく思っていた。
「めいさん……なんかちっとも来なくなっちゃったな」
「にゃあ」
独り言のように呟く猫太朗に、クロベエが鳴き声を上げる。マシロはトコトコとガラス戸へと歩いていき、外を覗き見る。待ち人が来ないかどうかを、毎日のように確かめているのだ。
それがもう、一ヶ月も続いていた。
「相当仕事が忙しいってところか……無茶してなけりゃいいけど……」
脳裏に浮かぶのは、初めて会った彼女の顔。あれも相当に疲れ切っていた。本人曰く起きた『奇跡』によって笑顔を浮かべてはいたが、如何せんそれは表面上のものでしかない。
(いや……そもそも僕が、ここまで考える必要は、どこにもないんだけどな)
コーヒーカップを洗い終わったところで、猫太朗は改めて思う。
めいとはあくまで赤の他人同士。薄情かもしれないが、彼女がどんな目にあっていようが、それはめいの問題であって自分には一切関係のない話なのだ。
それ自体は決して間違ってはいないだろう。むしろ正しいとさえ言えるはずだ。
しかし――それでも猫太朗個人の中で、大いに彼女のことが気になってしまっていることは否定できなかった。
マシロを快く預かっていることがいい例だろう。
そうでなければ、他人の猫を呑気に店に置いておくなどするわけがない。
(自分で言うのもなんだけど、僕は基本的にお人好しなんかじゃないし)
これは全くもってそのとおりだと言える。
以前、近所で猫を飼っている常連客が引っ越すということで、最後に猫を連れ、別れの挨拶に来たことがあった。しかしその客は、猫がクロベエと遊んでいる隙を突いて帰ったのだ。
迷惑料と称して代金を多めに支払い、その猫を置き去りにした状態で。
その際、猫太朗はすぐに動いた。
とある『伝手』を利用し、客の引っ越し先を突き止め、またペットを飼っていたという証拠も込みで、丁重に届けたのだった。
あくまで『迷子の飼い猫をわざわざ送り届けた心優しいマスター』を装い、周りの人々に印象づかせる形を取った。それは大成功となり、その飼い主がやらかしたことも明らかとなり、新生活早々白い目を向けられることとなる。
その飼い主や猫がその後どうなったのかは、猫太朗も全く知らないままだ。
ついでに言うと知るつもりもない。
確かに猫は大好きだが、全ての猫に対して味方するわけでもない。クロベエ以外の飼い猫の面倒を見るつもりなんてなかったし、これからもその気持ちが変わることもないと思っていた。
そう――めいとマシロが現れるまでは。
(めいさんとマシロに関しては、何故か突っぱねる選択肢がなかった。気がついたら引き受けていた……ホントどうかしてるよなぁ、僕も)
思わず自虐的な笑みを浮かべてしまうも、全く嫌気がさしていないのも確かだ。その証拠に、しょんぼりとしているマシロを見て、まだ営業中だけど少し構ってやろうかなとさえ思えてくるほどだ。
幸い、今のところ客は来ていないし、少し遊んでも問題はないだろうと。
「マシロー、おいでー」
猫太朗がカウンターから歩いてくると、マシロが振り向く。しかしそのままそっぽを向き、彼とは違う方向へと歩き出してしまった。
「にゃ」
クロベエが猫太朗を見上げながら鳴き声を出す。傍から見れば、残念だったなと言っているようであった。
そんな見透かしてきている様子の黒猫に、猫太朗は苦笑しながら肩をすくめる。
お前には敵わないなと――そんな想いを乗せながら。
「――にぅっ!」
すると突然、マシロが鳴き声を上げた。同時に勢いよく駆け出し、一直線に入り口の扉へと突進していく。
そのまま突き破ろうとするような勢いだったが、寸前で綺麗に停止する。
見事なブレーキに思わず猫太朗が感心してしまう中、マシロは扉の外へ向けて鳴き声を上げ始めた。
「にぅっ、にぅーっ!」
「ん、どうした?」
あからさまに様子がおかしい――そう思いながら猫太朗も、入り口に近づいて外を見てみる。
するとそこには――
「……めいさん!」
ここ一ヶ月、まともに姿を見せなかった女性の姿が、そこにあった。
思わず驚きながら扉を開けると、相手もその音に気づいたのか、俯いていた顔をゆっくりと上げる。
「…………」
猫太朗は言葉が出なかった。
疲れ果てているなんてものではない。本当にこの人は生きているのだろうかと、そう尋ねたくなるくらいに、生気を失ったような表情をしていた。フラフラと体を揺らしている状態も、そう思わせる要因となっている。
一ヶ月ぶりとかそういう考えは、猫太朗もとうに吹き飛んでしまっていた。
「……まだ、やってますか?」
どんよりとしたか細い声が聞こえてきた。猫太朗は一瞬たじろぐも、すぐさま頷きを返す。
「えっと、はい……やってますけど……」
「良かった……」
戸惑いながら答えるめいに、ようやく小さな笑みが零れる。しかしそれは、あくまで今の時点で見せられる笑顔でしかなかった。
一ヶ月前に振りまいていた明るさは、欠片も見られない。
「にぅ?」
店に入ろうとするめいを、マシロがジッと見上げる。最初に見せていた勢いは、すっかり鳴りを潜めてしまっていた。それだけ、疲れ切った姿のめいに、驚いているのだろう。
「……マシロ」
めいも小さな白い子猫の存在に、ようやく気付いた。無意識に口から零れ出た呼び名に対し、マシロの目がしっかりと輝き出す。
「にぅっ!」
「マシロ……マシロっ!」
肩にかけていた鞄を放り捨て、めいがしゃがんだ瞬間、マシロがめいの胸元に勢いよく飛び込む。
ギュッと力強く抱きしめられる子猫は、彼女のスーツに顔を埋めていた。
「にぅ~」
「マシロ。久しぶりだね、来れなくてごめんね、元気そうだねっ!」
言いたいことが自然と口から連射の如く発せられる。そんなめいに苦笑しつつ、猫太朗は放り出された鞄を拾った。
「めいさん。ひとまず、カウンターの席へどうぞ」
「あ……はい。すみません、お見苦しいところをお見せしてしまって……」
「いえ、お気になさらないでください。あぁ、それから――」
何かを言いかける猫太朗に、めいは思わずコテンと首を傾げた。
すると――
「お帰りなさい、めいさん」
猫太朗が優しい笑顔で、そう言ってきたのだった。
店の暖かい雰囲気も相まってなのか、その光景が凄まじく、キラキラと輝いているように見えてならなかった。
抜け殻のような気持ちが満たされてゆく。
吹きすさぶ荒野のような肌寒さが、じんわりとした暖かさに包まれてゆく。
驚きを一気に飛び越し、心の奥から気持ちがこみ上げてきていた。
「――はい、ただいまですっ」
そのこみ上げた気持ちが雫となって目から浮かび上がっていたが、めいはそれを拭う余裕もなく、ただ嬉しさの笑顔を見せるのだった。
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