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ジェラートよりも甘いキス

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 瞬間、まるで霧が晴れるようにアンジェロの表情が明るくなった。
 そんなところまで順に似ていて、千晶は思わず目を見開く。
「実は僕もパーティーは得意じゃないんです。今夜は啓一さんとこのオープニングパーティーだからしかたないけど、騒がしいところは好きじゃないし、知らない人と話すのも苦手だし……ったく、子どもですよね」

 アンジェロは肩をすくめて、ため息をついた。

「パトリッツィオとジェンマにも、あ、僕の兄と姉ですけど、よく叱られました。ピアノばかり弾いていないで、いい加減ちゃんと成長しろって。だからイタリアを離れて、日本でひとり暮らしをすることにしたんです」

 自分はまだ大人になりきれていないのだと、アンジェロは苦笑した。
 きっとそれほどまでにすべてをピアノに捧げてきたのだろう。気難しいというより、アンジェロは他人と接することに慣れていないのだ。
 出会って以来いろいろ振り回されているが、千晶は少しだけ彼のことが理解できた気がした。
 その後も、会話は意外に弾んだ。
 イタリアにいる彼の家族のこと、通っていた音楽院のこと、来月から半年にわたって世界各地でリサイタルを行なうこと、そのためツァー前にひと月の休暇をもらっていること。
 千晶も口数が多い方ではないが、アンジェロとのおしゃべりは不思議に楽しかった。
 食事を終えて店を出た後も二人はまだ話し続けていて、やがて健診センターでのことも話題にのぼった。

「あの時、三嶋さんがいい看護師さんだってことはわかったんです。採血も上手だったし、ずっと僕に気を遣ってくれていたでしょ? あ、それに病院の前でも声もかけてくれたし。だから謝りたかったけど……できなくて、そんな自分にまた腹が立って……すみませんでした。本当に」
「もう謝らないでくださいってば。気にしていませんから」
「すみません。僕ばかりしゃべってますね。三嶋さん、聞き上手だから、すごく話しやすくて」

 千晶は苦笑しながらも、この状況になんとなく合点がいった。
 アンジェロは、自分が看護師だから安心しているのだ。人付き合いが苦手なのに故郷を離れて、きっととても心細かったのだろう。
 不機嫌になったのは不安だったからで、そんな時にも丁寧な対応をした千晶が味方に思えたのかもしれない。だから彼なりのお礼のつもりでパーティーに誘ったり、高価な洋服を揃えてくれたりしたのだ。

(……そういうことね)

 今夜のパーティーが終われば、アンジェロはまたスポットライトの当たる世界へ、そして千晶は慌ただしい日常に戻っていく。それは当然のことだし、千晶はもう十分満足していた。

(だって、あこがれのアンジェロとデートっぽいことができたんだもの)

 少し先の角を曲がれば、アンジェロの住むレジデンスの前に出る。彼は着替えのために家に帰り、千晶は『ジェラテリア・チャオチャオ』に戻って、パーティーが始まる前に合流することになっていた。
 今日はとても楽しかったが、こんなふうに彼とおしゃべりすることはもうないだろう。町角で偶然顔を合わせれば、もちろん挨拶くらいはしてくれるだろうけれど。

「じゃあ、私はチャオチャオで着替えさせていただきます。洋服はあちらに届けてくださるって、お店の方が言っていたので」

 千晶が頭を下げた時、「三嶋さん」と呼びかけられた。

「はい?」
「三嶋さんはえらいですね。すごくしっかりしてるし、ちゃんと順くんの面倒を見ている。彼、甥御さんなんでしょう?」
「そうですけど……どうしてご存じなんですか?」
「順くんから聞きました。彼のご両親が亡くなられたことも」
「え、ええ」

 順はアンジェロにすっかりなついた様子だったが、いつの間にそんな話までしたのだろう? チャオチャオを出る前に保育園のママ友から電話が入って、座を外して少しおしゃべりしたが、その時だろうか?

「僕とは全然違う。とてもあこがれます」
「そんな大げさですよ。アンジェロさんこそすばらしいピアニストじゃないですか」
「いいえ!」

 ただの社交辞令だと思ったのに、アンジェロは足を止め、たじろぐくらいまっすぐな視線を向けてきた。
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