花胤の陰陽 〜花鳥風月奇譚・1〜

和泉 凛

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花胤の陰陽 〜花鳥風月奇譚・1〜

ー風嘉へー

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ガラガラと車輪の回る音が響く。
窓の外を流れ行く景色をボンヤリと眺めながら、鴻夏コウカはまるで魂が抜けたかのように静かに馬車の座席に座っていた。
頭からすっぽりと白い薄絹うすぎぬを被っているので、細かな表情までは読み取れないが、昨夜まで放っていた神々しいまでの輝きはなく、まるで別人のようである。
またそうしていると、なまじ容姿が美しいだけに、まるで人形のようだった。
それを横目にチラリと見て取りながら、牽蓮ヒレンは無言で書類に視線を落とす。
馬車の中は鴻夏コウカ牽蓮ヒレンの二人だけだったが、どちらも特に会話する気はないようで、終始無言のままであった。

 昨日まで馬車に同乗していたのは、弟の凛鵜リンウ皇子であった。
その時は馬車の中で、凛鵜リンウと尽きる事なく会話をしていたのに、今日から同乗しているのは湟 牽蓮コウ ヒレンで、その事が否応なく現実を突きつけてくる。
『私…本当に風嘉フウカへ行くのね…』
今更ながらにそう思いながら、鴻夏コウカは一人溜め息をついた。
 正直わかっていたようで、実は何もわかっていなかった事を改めて思い知らされる。
今日から凛鵜リンウが側に居らず、自分は一人なのだと思うと、心細くて堪らなかった。
そんな鴻夏コウカの気持ちを更に追い落とすかのように、窓の外には昨夜過ごした花胤カインの国境の城が、すでに遠く離れて見えている。
おそらくあと少しで実際の国境となり、いよいよ風嘉フウカ側へと入る事になるのだと思うと、憂鬱 ゆううつでしかなかった。
 しかしそれをどう思っているのか、牽蓮ヒレンは特に何も語らず、少し窓の外を見ただけで再び書類に視線を戻す。
揺れる馬車の中でも特に気にした風もなく、次々と書類に目を通してはサラサラと決裁の署名をしているようだった。

あっという間に処理されていく書類の山を見ながら、そう言えばこの人は風嘉フウカの高官だったなと改めて思う。
だが鴻夏コウカがもう少し冷静だったなら、他国から迎える皇帝の花嫁に対し、同じ馬車に同乗しながらも、目の前で堂々と自分の仕事をしているなんて、非常識極 ひじょうしききわまりない態度だと気づいたはずだった。
しかし良くも悪くもボンヤリしていた鴻夏コウカは、逆に無駄に話しかけられなくてちょうどいい程度にしか思わなかった。
 そして花胤カインの国境の城を出てから終始無言を貫いていた二人は、ふいに止まった馬車の歩みにほぼ同時に顔を上げた。
「止まれ!止まれ!」
次々と外から聞こえてくる声に、思わず窓の外へと目をやると、進行方向に巨大な石壁がそびえ立っている。
それを見た瞬間、鴻夏コウカはついに風嘉フウカとの国境に着いたのだと思い知らされた。


白虎門 びゃっこもん
西の風嘉フウカとの国境にそびえ立つこの門の事を、花胤カインの人々はそう呼ぶ。
それと言うのも、この門が花胤カインの西側に位置するため、四神になぞらえていつの間にかそう呼ばれるようになっていた。
 他にも北の鳥漣チョウレンとの国境の門は玄武門 げんぶもん、南の月鷲ゲッシュウとの国境の門は朱雀門 すざくもん、そして海に面した東門を青龍門 せいりゅうもんと言う。
これら四大皇国との国境にある門は、国のにとっても重要拠点となるため、それぞれの門は全て堅牢 けんろうな石壁で覆われていた。
 そして唯一の出入り口となる部分には、鋼鉄の分厚い扉が付いており、この西門にはその名の通り、見事な虎の意匠 いしょうが施されていた。
またその門前には常に多数の門番兵が見張りとして付いており、例え花胤カイン皇族 おうぞくと言えども正式な通行証なしには勝手に通れない事になっている。
そしてその扉の前に今、風嘉フウカ使節団長である伯 須嬰ハク シュエイが降り立っていた。

「我等はこの度、風嘉フウカ帝に輿入 こしいれされる事になった鴻夏コウカ姫を、お迎えする為に風嘉フウカより出向いた使節団である。これより国境を越え、姫を風嘉フウカの皇都へとお連れする。こちらが花胤カイン帝からいただいた通行証である。どうぞおあらためくださいますよう」
朗々とした声でハク将軍がそう告げると、門番兵の隊長と思われる男がハク将軍に近づいてきた。
そして丁寧に提示 ていじされた通行証を確認すると、スッとその場で一礼する。
「お疲れ様でございます。確かに通行証は本物とお見受けします。どうぞお通りくださいませ。…おい、開門!」
「開門!」
隊長の指示に他の門番兵らも続いて唱和し、ギギィッと大きく扉のきしむ音がして、ゆっくりと分厚い鋼鉄の扉が開かれた。
そして使節団の目の前に見渡す限りの白い砂原が現れる。
 そしてその中を不自然なほど綺麗に整備された一本の石畳 いしだたみの道が、緩やかにくねりながら遥か遠くまで続いているのが見えた。
これが花胤カインから風嘉フウカの皇都へと繋がる唯一の公道 こうどうであり、途中いくつかのオアシスを中継しながら砂漠を横断する生命線とも言える道である。
今日はこの道を夕暮れまで進み、最初のオアシスまで辿り着く予定であった。

『これが…風嘉フウカ…』
国境を越えた途端、ガラリと変わった風景に鴻夏コウカは思わず圧倒される。
始めて見る一面の白い砂原に、石畳の道以外、何もない風景。
緑豊かで公道沿いにも普通に樹木や建物が立ち並ぶ花胤カインと違い、あまりにも何もない殺風景 さっぷうけいな光景だった。
それをどう見てとったのか、本日始めて牽蓮ヒレン鴻夏コウカに向かって口を開く。
「…殺風景な光景でしょう?この辺りも昔は公道沿いに少しは樹木があったのですが、先の戦でそれも枯れ果てました。今はただ白い砂が広がるだけの砂漠です」
「…砂漠…」
無意識にポツリと同じ言葉を繰り返すと、牽蓮ヒレンがスッと窓の外を指差した。
つられて指差された方向に目をやると、公道沿いの遥か遠くに何か黒い山のようなものがボンヤリと見えた。
「…あの遥か遠くにうっすらと見えているのが、今夜泊まる予定のオアシスです。こうして見ると近いように思われるでしょうが、ここから半日以上はかかりますよ」
「え…っ?見えているのに⁈」
驚いて思わず聞き返すと、牽蓮ヒレンは事も無げにこう答える。
「周囲に何もない砂漠だからですよ。何もないからこそ、この距離でもボンヤリと見てとれますが、実はかなり離れた場所にあるのです。砂漠で人が迷って命を落とすのは、こうやって距離感や方角が掴めなくなるからです。近くにあると思っていたものは、実は遥か遠くにあった…というのは、砂漠ではよくある事なんですよ」

淡々とある意味彼らしくそう語ると、牽蓮ヒレンは窓の外から鴻夏コウカへと視線を戻した。
そして意味深にこう告げる。
「…鴻夏コウカ姫。間違ってもこれ以降はお一人で行動なさいませんよう…。砂漠に慣れていない者が単独行動をすると、命の保証はありませんよ」
「…わかっています。砂漠どころか、私は花胤カインの宮殿の外にも出た事がありません。そんな人間が、知らない国で一人でどこかに行けるわけはないでしょう」
咄嗟 とっさに無難な答えを返したものの、突然投げつけられた牽蓮ヒレンの言葉に、知らず鴻夏コウカは警戒の念を強めていた。
牽蓮ヒレンの言葉は、一見素人に砂漠の恐ろしさを語っただけのようにも取れるが、逆にすでに鴻夏コウカが逃走しようとしている事を見越して、何か行動を起こす前に先手を打って警告してきたようにも取れた。
『この人は危険だわ。何もかもわかっていて、敢えて警告してきたようにも思える』
そんなはずはないと思いながらも、何故か牽蓮ヒレンに自分の正体が気付かれている気がしてならなかった。
 元々彼は弟の凛鵜リンウとかなり親しい。
親しいからこそ、凛鵜リンウそっくりの自分の事も実は男なのではないか?と疑っていてもおかしくはなかった。
 しかし牽蓮ヒレンはのらりくらりと、どちらとも取れるような態度を崩さず、肝心な事は何一つ語らない。
政治的な駆け引きもあって、わざと曖昧 あいまいにしているのかもしれないが、それが余計に鴻夏コウカを落ち着かなくさせていた。

チラリと鴻夏コウカ牽蓮ヒレンに視線を送る。
今ほど自分が表情がよく見えない薄絹を被っていて良かったと思えた事はなかった。
そしてそんな鴻夏コウカの気持ちを余所 よそに、牽蓮ヒレンはひどく淡々とこう告げる。
「…それは大変失礼を致しました。ただ砂漠には さそりや毒蛇、狼など人間を襲う生き物がたくさんおります。またこういった国境付近は、どこも盗賊の巣窟 そうくつです。我々も注意はしておりますが、姫も警戒 けいかいを怠らないようご注意願います」
「わかりました。 きもに命じておきます」
何とかそれだけ答えると、鴻夏コウカはそのまま馬車の外へと視線を外した。
これ以上 牽蓮ヒレンと会話をしたら、何をどう勘付かれるかわからなかった。
彼が一体どこまで知っているのか、またどう考えているのかはわからなかったが、今は少しでも早く彼から離れたかった。

『早く隙を見て姿をくらまさなければ…。今日からは事情を知っている侍女も居ない。もし着替えを手伝うなどと言われて、風嘉フウカ側の侍女に身体を触られたりしたら…いつ男と気付かれるかわかったものではない』
気持ちは焦るが、まだ陽は高くしかも辺りは一面の砂漠で見晴らしが良すぎる。
また同じ馬車に牽蓮ヒレンが同乗している為、今のところまったく一人になる機会がない。
逃走の機会があるとすれば、最初のオアシスに着いた後だろうか…。
 そっと景色を伺いながら、溜め息をつく。
この石畳の道沿いに戻れば、花胤カインまで辿り着けるのは確実だが、それでは遠目でもどこに居るのかバレてしまう。
だからと言って、慣れない砂漠の道を自分一人で越えられるとはとても思えない。
考えられる方法としては、オアシスの外へ逃走した振りを装い、その実オアシス内に隠れて追手をやり過ごす。
そして出来れば、これから花胤カインに向かう隊商を見つけて一行に加えさせてもらい、怪しまれる事なく花胤カイン側へと戻る。
そんな都合良く事が運ぶとは思えなかったが、もはや一縷 いちるの望みに賭けるしかないように思えた。


 そして風嘉フウカに入って一日目の夕方、一行は予定通り最初のオアシスに到着した。
牽蓮ヒレンの言った通り、最初から見えていたはずのオアシスは予想よりかなり遠く、途中 鴻夏コウカはいつまで経っても距離が縮まらないのではないかと思ったほどだった。
 しかし何とか着いてみると、さすがに公道沿いの正規オアシスなだけあって、そこにはかなり立派な街が存在しており、その中心にはこのオアシスを治める領主の館がそびえ建っていた。
白い石造りの瀟洒 しょうしゃな建物は、華美 かびではないもののそれなりの風格を備えたものとなっており、鴻夏コウカは砂漠の中に突然現れたこの立派な館が別世界のようにも感じていた。
 そしてその美しい館に、一行は今晩一泊する事になったのである。



 サラサラと水の流れる音が響いていた。
ここが砂漠の中だという事を忘れるほど、館の中は涼しく、また露台バルコニーから見える街並には明るい橙色 だいだいいろの灯りがたくさん連なり、街のあちこちに濃い緑の葉を伸ばした椰子 やしの木が所狭 ところせましと茂っている。
 着替えなどの世話のために、領主によって寄越された侍女らを丁寧に断り、何とか一人で入浴と着替えを済ませた鴻夏コウカは、半ば呆然としながら目の前に広がる光景に目を奪われていた。
 まだ花胤カインを離れて一日と経っていないというのに、ここは何もかもが違っていて、その事実が否応 いやおうなしに自分が異国に来たのだという事を思い知らされる。
 そう言えばこの館に入る前に見かけた人々も、随分と国際色豊かだった。
もちろんこの街に住んでいるのは、風嘉フウカの者が一番多いが、浅黒い肌に黒い髪、金の瞳が特徴の月鷲ゲッシュウの者、薄い金髪に白い肌、淡い青い瞳の鳥漣チョウレンの者、そして黒髪に黒い瞳、真珠色の肌の花胤カインの者などもたくさん見かけた。
彼等は商品を仕入れに各国を旅をする隊商の者であったり、芸を見せながら祭りを渡り歩く技芸団だったり、武芸の腕を買われて隊商を護る傭兵だったりとそれぞれがそれぞれの理由でこの街に立ち寄ったようだった。
だから長くても数日過ごしたら、彼等はまた次の目的地を目指してここを旅立っていくのだろう。

『流れ行く人々とそれを迎える人々…ここはまるで夢現 ゆめうつつの街のようだ…』
そう鴻夏コウカは思った。
もちろん花胤カインの皇都にも常に他国の人々が溢れていたが、一面の白砂原に突如現れたこの街は、その存在自体がすでに非現実的でどうしても幻のような印象を受けてしまう。
そして白砂原を赤く染めながら、大きな夕陽がゆったりと沈んでいく様を見たのも、こうして一面の星空の下、蒼く輝く白砂原を見たのも初めてだった。
その時その時でガラリとその印象を変え、すべてがゆったりと移うつろっていくような街。
どうにも掴み所がなく、どこか懐かしいようなそれでいて厳しいような不思議な空間。
それがこのオアシスの印象だった。
その時ふと鴻夏コウカは、この街が彼に似ているなと思ってしまう。
 普段はその存在自体がボンヤリとしていて、さほど目立つ印象はないのに、時折何とも言えない強烈な気配を放つ男…湟 牽蓮コウ ヒレン
双子の弟の凛鵜リンウすらも、彼の不思議な魅力 みりょくに囚われているように見えた。
かくいう自分も、気がつくと彼の存在を意識し始めている。
するりと相手の心の隙間 すきまに入り込むように、気がつくとすでにその存在を受け入れてしまっているような不思議な雰囲気の男。
彼にだけは、何となく自分が密かに企んでいる事を見抜かれている気がしていた。
けれど例え勘付かれていたとしても、自分は今夜決行しなければならない。
これ以上 花胤カインから離れてしまうと、とても自力で故国に帰る事は不可能だ。
だからもう少し夜が更けたら決行しようと、改めてそう思った時だった。


 コンコンと突然 鴻夏コウカの部屋の扉が叩かれた。
ギクリとしながらも、落ち着いて返答すると扉の向こうから伯 須嬰ハク シュエイの声が聞こえてくる。
「お疲れのところ申し訳ありません、鴻夏コウカ姫。伯 須嬰ハク シュエイです。ご都合がよろしければ明日以降の旅程について、少しご説明させていただきたい内容があるのですが、今 お時間大丈夫でしょうか?」
その声に慌てて夜着 やぎの上に上掛 うわがけを羽織はおりながら、鴻夏コウカは努めて冷静にこう返す。
「…はい、大丈夫です。どうぞお入りになってください、ハク将軍」
「では失礼致します」
そう返答する声が聞こえ、部屋の扉が開かれるとハク将軍が部屋の中に入ってきた。
そしてハク将軍だけだと思っていたのに、その後に引き続き湟 牽蓮コウ ヒレンも入室してくる。
予想外の牽蓮ヒレンの登場に、思わず鴻夏コウカに緊張が走ったが、牽蓮ヒレンの方はニコリと微笑むと無言で部屋の扉を閉めた。
そしてそんな鴻夏コウカの耳に、改めてハク将軍の言葉が響いてくる。
「夜分に申し訳ありません、鴻夏コウカ姫」
「いえ、こちらこそこんな格好での出迎え、申し訳ありません。そろそろ休もうと思っていたものですから…」
「…それは重ねて失礼を…。それではなるべく手短に済ませさせていただきますね」
「よろしくお願いします、ハク将軍」
ニコッと接客用の笑みを浮かべると、鴻夏コウカはチラリとその横に控える牽蓮ヒレンに目をやった。

しかし彼は澄ました顔で控えるのみで、特に何も語らない。
ハク将軍が丁寧に何かを説明してくれていたが、鴻夏コウカ牽蓮ヒレンが気になって、その内容の半分も聞いていなかった。
『何を考えているの…?わざわざハク将軍に付いてきた割には、何もしようとしないし…。今夜あたりに私が行動を起こしそうと思ったから、ハク将軍をダシに私の様子伺いをしに来たのかしら…?』
そう思って牽蓮ヒレンの表情を探るが、正直何も読み取れそうにない。
一枚も二枚も上手の相手に、どう渡り歩こうかと思ったところで、ふと鴻夏コウカは自分の名前を呼ばれた事に気付いた。
鴻夏コウカ姫?」
「…はいっ?」
「私の説明は以上なのですが、何か疑問に思われた事などございましたでしょうか?」
気がつくとハク将軍が不思議そうに鴻夏コウカを見つめていた。
いつの間にか説明が終わっていたらしい。
「…あ、すみません。少しボンヤリしてました。大丈夫ですわ、ハク将軍。ご丁寧にありがとうございます」
「本当に大丈夫ですか?お疲れなのでは…」
「あ、ええ…少し。旅する事自体が初めてですので、緊張しているのかもしれません」
もっともらしい事を言いつつ、ニッコリと愛想笑いを浮かべると、人の良いハク将軍は心配そうに『無理なさらずに』と言ってくれる。
それを申し訳なく思いながらも、鴻夏コウカは早く彼等に部屋から退散願いたく、重ねて言葉を続けた。

「…申し訳ありません、ハク将軍。少し疲れているみたいです。もう休ませていただいてもよろしいでしょうか…?」
「それは気づかず大変失礼を致しました。では我々はこれにて失礼させていただきます」
「お気遣いありがとうございます、ハク将軍」
儀礼的に挨拶を交わすと、ハク将軍は牽蓮ヒレンを伴いそのまま素直に退室して行った。
結局 牽蓮ヒレンは一度も口を開く事なく、ただそこに居ただけである。
だが退室間際に彼の口唇が、少し笑みを刻んでいた事を鴻夏コウカは気づかなかった。
そして何も気づけなかった鴻夏コウカは、その日の深夜に、ついに計画を実行したのである。




 薄いガラス片を使い目立つ金の瞳を黒くし、髪もカツラで短くして、花胤カインの平民の男の子の服を着る。
肌も多少日焼けしたかのように茶色くし、頰ほおにはそばかすを散らして、鴻夏コウカはどこにでも居そうな下街の男の子に変装していた。
「まさかお忍び用の変装が、こんな形で役立つとは思わなかったな…」
自嘲気味 じちょうぎみにそう呟くと、鴻夏コウカは鏡で再度自らの姿を確認する。
『大丈夫。この姿を見て、鴻夏コウカ姫だと気付く者は居ないはず…』
そう思ったところで、鴻夏コウカは手早く持ち出す荷物をまとめ始めた。
水と食料、お金に着替え、そしてわずかばかりの薬といざという時のための換金用の小振りの装飾品もいくつか放り込む。
そしてそれらを布製の背嚢 はいのうに詰め込むと、鴻夏コウカは最後に護身用の剣を腰につけた。
 正直 ハク将軍と違い、体力的に考えても大人数と立ち回れるような腕前ではなかったが、それでも誰にも頼れない今は、自分の身を守るために必要不可欠なものだった。
それらを素早く装備すると、鴻夏コウカは部屋の露台バルコニーからそっと下の様子を確認し、誰も居ない事を確認してから軽々と飛び降りる。
途中側に生えている木の幹を中継しながら、スタッと綺麗に地上へと降り立つと、改めて周りを警戒しながら、鴻夏コウカは小走りでその場を後にした。

その時、鴻夏コウカはまったく気付いていなかったが、その様子を気配を消して物陰ものかげから確認している者達が居た。
言うまでもなく伯 須嬰ハク シュエイ湟 牽蓮コウ ヒレンである。
牽蓮ヒレンはクスクスと楽しそうに笑い、ハク将軍は呆れたようにこう呟く。
「…本当にあれは鴻夏コウカ姫なんですか…?」
「そうですよ。多分今夜あたりだろうとは思っていましたが、予想通りでしたね」
暗闇に走り去る鴻夏コウカの姿を捉えながら、牽蓮ヒレンが上に向かって命令を下す。
「そこに居ますか、嘉魄カハク鴻夏コウカ姫が館を出ます。悟られないように護衛ごえいしてください」
「…御意 ぎょい
スッとその場から一つの気配が動く。
それを感じながら、続けて牽蓮ヒレンはもう一つの名を呼んだ。
暁鴉ギョウア
「…お呼びでしょうか」
スッと目の前に黒づくめの装束 しょうぞくに身を包んだ二十代前半ぐらいの女が降り立つ。
顔半分を布で隠しているため、はっきりとはわからないが、長い金の髪を一つに束ねた、なかなかに美しい女だった。
特に目につくのはその豊満な肉体で、暗部の者として鍛え抜かれたしなやかな筋肉はもちろんの事、その身体の線はきちんと女性らしい丸みを帯びており、匂い立つような色気をかもし出している。
しかし牽蓮ヒレンの方はあまり相手に興味がないのか、淡々と彼女に向かって命令を下した。

「申し訳ありませんが、しばらく鴻夏コウカ姫の身代わりを務めてくれませんか?輿入 こしいれ中の姫君が行方 ゆくえを眩ましたとなると、大騒ぎするやからが出ますので…」
「…それは姫を連れ戻せばいいだけの話では…?」
実に効率の悪い内容の指示をする牽蓮ヒレンに、思わず暁鴉ギョウアがそう反論すると、牽蓮ヒレンは楽しそうにこう告げる。
「…姫にも色々と思うところがあるのですよ、暁鴉ギョウア皇都 おうとに入るまでにはお戻りいただきますので、二日ほど身代わりよろしくお願いしますね?」
なごやかに微笑みながらも、相手に有無を言わさぬ態度でそう告げると、牽蓮ヒレンはもう暁鴉ギョウアには目もくれずハク将軍に向き直った。

「さてそういうわけで、須嬰 シュエイ。しばらく私も留守にしますね」
ニコニコと満面の笑みでそう告げる牽蓮ヒレンに、ハク将軍が深い溜め息をつく。
「…レン、貴方ね。私がそれを許可するとでも思っているのですか?」
「まぁ…最終的に須嬰 シュエイは私に甘いからね。大丈夫、ちゃんと結婚式までには戻るよ」
「そういう問題では…っ」
そう叫びかかったところで、気がつくともう牽蓮ヒレンの姿が消えている。
レン⁉︎どこに…っ」
「じゃあ後は頼んだよ、須嬰 シュエイ。あ、黎鵞レイガから頼まれていた書類は全部処理しておいたから。じゃ、皇都で会おう」
何処からともなく暗闇から楽しげな牽蓮ヒレンの声が響き、言い終わるが早いか、スッとその場から完全に気配が消えた。
そして無言で頭を抱えるハク将軍に、暁鴉ギョウアが気の毒そうにこう尋ねる。
「どうします?今ならまだ追い付けますけど…」
「…連れ戻したところで無駄でしょう。言い出したら聞かないんだから…。こうなったら仕方ありません。暁鴉ギョウアはしばらくは鴻夏コウカ姫の身代わりを務めるように。姫の服を着て頭から薄絹 うすぎぬを被っていたら、早々バレる事はないでしょうから」
「はぁ…わかりました」
とりあえずそう答えながらも、本当にこの人も甘いよなぁ…と、暁鴉ギョウアは心底呆れたように溜め息をつく。
しかしこれも仕事とは言え、しばらくは深窓の姫君の身代わりである。
窮屈 きゅうくつそうな任務ではあるが、これも影の役割の一つかと暁鴉ギョウアは面倒くさそうにしながらも仕方なく諦めた。


一方そんな事になっているとは露知 つゆしらず、鴻夏コウカは誰にも見咎 みとがめられられる事なく、館を抜け出す事に成功していた。
もちろんそれは牽蓮ヒレンが手を回していたからに他ならないのだが、そんな事に気付くはずもない鴻夏コウカは、とりあえず厩舎 きゅうしゃから馬を一頭拝借 はいしゃくし、街に向かって走らせ始める。
心臓が今までないほどドキドキしていた。
不謹慎 ふきんしんだが、かつてないほど気分が高揚 こうようしているのがわかる。
 本当の意味で今、鴻夏コウカは自由の身だった。
女の振りも要らない、皇族ですらない、ただの一人の人間として誰に気を使う事もなく、行きたいところに自由に行ける。
ずっと密かに あこがれていた世界が今、目の前に開けていた。
『ああ…これでもう誰もだまさなくていいんだ。母上と凛鵜リンウ体面 たいめんも守れた。あとは鴻夏コウカ姫が事故で亡くなったように偽装 ぎそうして、このまま風嘉フウカ施節団に見つからないように花胤カインに戻れたら…』
そう思った時だった。
 シュッと風を切る音がして、鴻夏コウカは反射的に馬を竿立 さおだたせた。
ヒヒーンと馬は嫌がっていなないたが、一瞬後にドスッと足下に黒い矢羽 やばねが突き刺さる。
慌てて興奮する馬を宥めながら、素早く周囲に視線を走らせると、木陰こかげからわらわらと黒い影が出て来て、鴻夏コウカはあっという間に複数のガラの悪い男達に囲まれてしまった。
…明らかに普通の男達ではない。
武器を片手に鴻夏コウカを取り囲んだ男達は、どう見てもただの住人には見えず、ましてやこの街の兵士でもなかった。
『五人、いや六人か?こいつらは盗賊…?』
相手の正確な人数を確認しつつも、緊張で冷や汗が額を滑り降りる。
鴻夏コウカ姫ならまだしも、今は普通の下街の住人にしか見えない自分を襲うなんて、一体何が目的なのか?とそう思ったところで、ふいに男達の一人が重々しく口を開いた。

「おい、小僧。お前、今 領主の館から出てきたよな?」
「…見間違いじゃないかな?確かに近くは通ったけど、俺はそんなところに入れるような身分じゃないよ」
周囲の気配を探りつつ、鴻夏コウカが緊張で身体を固くする。
まださほど領主の館からは離れていなかったが、この姿で助けを求める事は出来ない。
万が一にも自分が鴻夏コウカ姫だとバレれば、風嘉フウカ帝との婚姻を嫌がって逃げたと勘違いされ、下手をすれば戦争にもなり兼ねない。
ここは自分一人で何とかするしかないと、 いさぎよく覚悟を決めた時だった。
「おやおや、誰かと思えばいつぞやの賭博師 とばくしくんじゃないですか」
突然この場にそぐわない、やたらとのんびりした声が響いた。
「誰だ⁉︎」
バッと一斉にその場に居た者達が振り返る。
まさか…と鴻夏コウカは信じられない思いで、その男を見つめ返した。
夜風に男の亜麻色 あまいろの髪が鮮やかにそよぐ。
そこに居たのは、馬に跨った湟 牽蓮コウ ヒレンだった。
数時間前に鴻夏コウカ姫として館で対峙 たいじしたばかりなのに、どうしてこんな深夜にこの場所で牽蓮ヒレンが現れるのか、まったく理解が出来ない。
 しかしそんな鴻夏コウカの疑問を余所 よそに、男達はあっという間に牽蓮ヒレンを危険人物とみなしたらしく、わらわらと武器を片手に取り囲む。
その途端スッと男の薄い みどりの瞳に、静かに危険な光がともった。
「お前…何者だ?」
「…ただの通りすがりの役人ですよ」
「役人⁉︎」
ギクリと男達に緊張が走る。
それを見てニコリと牽蓮ヒレンが微笑んだ。
「はい、今夜はそこの領主様の館にご厄介 やっかいになっております。今 騒ぎを起こせば、ここは館からさほど離れておりませんので、すぐにたくさんの兵士達が駆け付けて来ると思いますが、いかがなさいますか?」

ザワッと明らかに男達の間に動揺が走る。
それを見逃さなかった牽蓮ヒレンは、さらに たたみ掛けるようにこうささやいた。
「ここはお互いなかった事にするのが、 かしこいのではないでしょうかね?」
「ふん、助けを呼べれば…な。その前にあんたを殺やってしまえば済む話だ」
ふいにギラッと男達の雰囲気が変わった。
牽蓮ヒレン一人なら何とかなると判断したらしい。
確かにいかにも優男 やさおとこといった感じの牽蓮ヒレンが増えたところで、さして影響があるようには見えなかった。
それに対して、牽蓮ヒレンが実に面倒くさそうに溜め息をつく。
「…さて、私としてはこの場は穏便 おんびんに済ませたいところなんですがね。私のお願いは聞いてもらえそうにない感じですかね?」
「そうだな。まぁあんたがそこの坊やと一緒に、俺達の知りたい事を教えてくれれば、命までは取らないでやってもいいぜ」
ニヤニヤと数に物を言わせて、自分達の優位を確信している男達は、少しふざけた様子でそう答える。
しかしその返答を聞いた牽蓮ヒレンは、ニッコリと微笑むとしゃあしゃあとこう答えた。
「…それはそれは、ありがとうございます。では私もお礼にあなた方の命までは取らないとお約束しましょう」
「何だと⁈」
「聞こえましたよね、嘉魄カハク總糜ソウヒ?」
そう牽蓮ヒレンが呟いた途端、ザッと彼の前にその身を守るかのように二人の男が降り立った。

一人は鍛え抜かれた鋼のような肉体を持った、黒い短髪に陽に焼けた浅黒い肌が印象的な迫力のある壮年 そうねんの男であった。
鋭い銀の瞳が獲物を狙う鷹のようで、見据 みすえられた途端、思わず逃げ出したくなる。
そしてもう一方は、赤毛に青い瞳が印象的な『影』を務める者にしてはやたらと派手 はでな容姿の男で、年齢も二十代前半と思われる若い青年だった。
壮年の男に比べれば、明らかに迫力は落ちるものの、こちらはこちらで妙に人をった表情を浮かべており、それが逆に自分の腕前に自信がある事を物語っている。
そしてそんな彼等の登場に、その場に居た者達は完全に威圧され、無意識のうちにジリッと半歩ずつ下がり始めていた。
それを不敵な様子で伺いながら、若い方の影がスッと一歩前へ進み出る。
その時 青白く光る月が、流れてきた黒雲に隠され、その場にゆっくりと深い闇が降りた。
そしてそれが合図であったかのように、二人の影は同時に男達に向かって突進する。
特に何の会話もないまま、左右二手に分かれた影達は、あっという間にその場に居た者達の急所を突き、その意識を奪っていった。
そして視界の悪い中、ドサドサッと何かが倒れ込む音だけが響き、再び雲の隙間 すきまから月が顔を出す頃にはすべてがもう終わっていた。
地面に意識なく転がる男達を放置し、二人の影はすでに牽蓮ヒレンの足元に ひざまずいている。
その様子に思わず唖然 あぜんとする鴻夏コウカを尻目に、牽蓮ヒレンは二人の影に ねぎらいの言葉をかけた。
「…二人共、お疲れ様ですね」
「別にこのくらいはどうって事ありませんけど…こいつらどうします、 あるじ?」
二人のうち、赤毛の若い影がそう尋ねる。
それに対し牽蓮ヒレンは冷静に指示を下した。
「先程知らせをやったので、そろそろ館からお迎えが来るはずです。申し訳ありませんが、總糜ソウヒはしばらくこの場にとどまって後始末をお願いします」
「了解っす。 あるじはどうされます?」
「私がこの場に残ると何かと厄介な事になるので、一足先に嘉魄カハクと離れますよ」
楽しげにそう答えると、牽蓮ヒレンはまだ茫然 ぼうぜんとしている鴻夏コウカに馬を寄せこう告げた。
「さ、貴方も早くこの場を離れますよ」
「あ…、えっ?」
「早く!」
そう牽蓮ヒレンに急かされ、鴻夏コウカも訳もわからず馬を走らせ始める。

ひらひらと手を振って見送る總糜ソウヒを置いて、鴻夏コウカ牽蓮ヒレン嘉魄カハクは急いでその場を離れた。
正直何がなんだかわからないが、とりあえず牽蓮ヒレンが助けてくれた事だけは事実だった。
そして今更ながらに、彼が風嘉フウカの中でも最上位に位置する高官なのだと理解する。
何故なら四大皇国の中でも、『影』と呼ばれる暗部の者達が、常に警護に当たる要人 ようじんはそうは居ないのだ。
花胤カインでいうなら、皇帝である父とその皇后である母、そして凛鵜リンウを含む皇太子候補の皇子三人のみである。
正直、影の数自体が少なく、その存在が希少 きしょうであるが ゆえに、例え皇族と言えども替えの効く者にはいちいち影を付けてはいられないのが現状だった。
だからどうせ数が足りないのなら、貴重な影達には各国で諜報 ちょうほう活動をしてもらう方がいいと判断する国が多く、結果 大半の影は要人警護 ようじんけいごの任には当たらず各国を暗躍 あんやくしている。
しかしその常識を曲げてまで、牽蓮ヒレンには二人もの影が付いていた。
どちらかが、たまたま現地で合流した影だとしても、それでも二人体制で警護されるような要人など聞いた事がない。
『この人、一体何者なの?』
当然と言えば当然の疑問だが、その疑問に答えてくれそうな者はこの場には居なかった。
そしてそれだけではなく、この後 鴻夏コウカはさらに牽蓮ヒレンに対しての謎を深めていく事になるのである。



ホカホカと美味しそうな湯気を立てた料理が、目の前に並ぶ。
砂漠の中のオアシスだというのに、食料は充分過ぎるほどあるようで、卓の上には海の幸、山の幸をふんだんに使った各国の郷土料理が所狭 ところせましと並び、それぞれが食欲を刺激する香りを立てている。
それを目を丸くして眺めながら、鴻夏コウカは今の状況がまったく つかめず混乱していた。
 あの後 無事に街へと辿り着いた鴻夏コウカ牽蓮ヒレン嘉魄カハクの三人は、そのまま何故か牽蓮ヒレンに連れられこの店で食事を共にしていた。
そこに遅れて、先程一人現場に残ってくれた赤毛の影 總糜ソウヒも合流し、何故か今 四人で食卓を囲んでいる。
そして鴻夏コウカは今の状況がまったくわからずにいるのだが、残りの三人はそれをまったく気にしていないようで、それぞれが好みの料理を さかなに酒や茶をたしなみつつ、今後に向けての会話をし始めていた。
「しっかし出だしから、エライのに当たりましたね、 あるじ?まだこれから詳しく尋問 じんもんしてみなきゃなりませんが、あいつらもどうもただ雇われて探ってただけみたいで、黒幕は別に居るみたいっすよ」
モグモグと勢いよく料理を口に運びながら、けに總糜ソウヒがそう告げると、牽蓮ヒレンは酒杯を傾けながらあっさりとこう答える。
「まぁそんなとこでしょうね。どうせ依頼の真の目的もわからず動いてただけでしょうから、大した情報も取れないでしょう」
「私が一旦戻って、探りを入れてきた方がよろしいですか?」
ボソッと嘉魄カハクがそう尋ねると、牽蓮ヒレンは手にしていた酒杯を卓に置きながらこう答えた。

「…いえ、嘉魄カハクが戻るほどの事態ではないでしょう。あっちはあっちで、須嬰 シュエイ暁鴉ギョウアも居るのだから、何かあっても彼等の方で対処しますよ」
心配いらないとばかりにそう告げる牽蓮ヒレンに、鴻夏コウカは思わずポツリと呟く。
「信頼…してるんだ…?」
その何気ない呟きに、一斉に卓に着いていた面子 めんつの視線が鴻夏コウカに集まる。
言ってしまった後でしまった!と後悔したが、すぐにニコリと人の悪い笑顔を見せると牽蓮ヒレン鴻夏コウカに向かってこう答えた。
「…当然ですよ。彼等とも長い付き合いですから、お互いがどういう人間かもよく知ってますしね…。それにここに居る嘉魄カハク總糜ソウヒも含め、今の風嘉フウカ土台 どだい きずいてきた者達は皆優秀なんですよ。彼等が人並み外れて優秀だからこそ、風嘉フウカはたった三年でここまで復興 ふっこう出来たのです」
淡々とした口調ではあったが、そこには相手に対する揺るぎない信頼と愛情があった。
そしてそんな あるじの手放しの賛辞 さんじを、その場に居る嘉魄カハク總糜ソウヒも穏やかな顔で受け止める。
それを見て、鴻夏コウカは純粋にいいなと思った。
牽蓮ヒレンの言葉の節々に感じる彼等への深い愛情や、それを受けての嘉魄カハク總糜ソウヒの穏やかな気配を見ていれば、彼等がどれだけお互いを信頼し大事に思っているのかがよくわかる。
おそらくそれは自分が凛鵜リンウに感じるものと変わらないほど強い きずななのだろうと、鴻夏コウカは無意識に感じとった。

それにしても世間知らずの自分ですら、貴重な存在だと知っている影を二人も従え、彼等と同じ卓で親しげに食事を共にする湟 牽蓮コウ ヒレンとは一体何者なのか?
ただの高官ではないのはわかるが、まったくその正体が掴つかめない。
そして今の鴻夏コウカの最大の疑問は、どうして牽蓮ヒレンがここに居て、自分を助けた上に街で食事を共にしているのか?という事だった。
彼は風嘉フウカの高官で、本来ならは鴻夏コウカを領主の館に連れ戻すべき立場に居るはずだった。
それなのに牽蓮ヒレン鴻夏コウカを連れ戻すどころか、逆に街の方に連れてきて、今こうして食事を共にしている。
彼の警護をしている影達にしても、特にその事を責める気配もなく、のんびりと食事を楽しんでいるようだった。
正直こんな事をして、彼等に一体どんな利益があるというのだろう?
どう考えても今のこの状況は不自然としか言いようがなく、それだけに鴻夏コウカは戸惑いを隠せなかった。

『彼は私のこの姿を知っている。だから今ここに居るのは、館を抜け出してきた鴻夏コウカ姫だとわかっているはずなのに、どうして何も言わず連れ戻そうともしないの…?』
喉元まで出かかっている疑問は、どうしても言葉に出来なかった。
気まずくて、つい無言で視線を床に落とす。
その事に気付いているだろうに、牽蓮ヒレンは何も語らず穏やかに酒杯を傾けた。
「あー、食った、食った!じゃあそろそろ今日はお開きっすかね、 あるじ?」
そんな鴻夏コウカの気持ちを余所 よそに、実に呑気 のんきな口調で總糜ソウヒが尋ねる。
それに対し、さらりと牽蓮ヒレンはこう答えた。
「そうですね。明日からまた旅で一日移動ですし、身体は休めておくに越した事はないでしょう」
「ですよね~。で、 あるじの事だから、当然今夜の宿も押さえてあるんすよね?」
その有り得ない質問に、思わず鴻夏コウカが床から二人に視線を戻すと、牽蓮ヒレン ふところから何かを取り出しがてらこう答えた。
「…ああ、この店の上が宿屋も兼ねていましてね。とりあえず二部屋取ってあります」
チャリっという金属音と共に、牽蓮ヒレンの右手に少し くすんだ金色の鍵が二つぶら下がっていた。


「じゃあ、 あるじ。明日またな! 姫さんもおやすみ~!」
清々しいほど屈託 くったくのない笑顔で、總糜ソウヒがひらひらと手を振る。
その横で嘉魄カハクが無言でペコリと頭を下げた。
「ああ、明日また…。おやすみ」
そう言って二人を穏やかな表情で見送ると、牽蓮ヒレンは静かに部屋の扉を閉める。
影の二人が退出した事により、自然と部屋の中には鴻夏コウカ牽蓮ヒレンの二人が残された。
そして鴻夏コウカは素直にこう思う。
『何が、どうしてこうなった…?』
予想外の事態の連続に、鴻夏コウカはまったく頭が付いていかず、牽蓮ヒレンの用意した宿屋の一室で呆然と立ち尽くす。
牽蓮ヒレンの選んだ宿屋は、豪華 ごうかでこそないが綺麗 きれいに清掃された清潔感のあるところだった。
あの後用意した部屋へと先導する牽蓮ヒレンの後ろを、ぐいぐいと總糜ソウヒ うながされ、何だかよくわからないままここまで付いてきてしまったが、果たしてそれは正しい選択だったのかは疑問である。
そしてどう分かれて泊まるかで、今日初対面の自分達より、多少は面識のある牽蓮ヒレンの方がいいだろうと總糜ソウヒが主張した事により、いつの間にかこういう組み合わせで泊まる事が決定してしまった。
そして今、牽蓮ヒレン鴻夏コウカは二人っきり、寝台こそ二つあるものの、生まれてからずっと女性として育てられてきた鴻夏コウカカにとっては緊張する事この上ない状況となっていた。
先程から心臓が、あり得ないほど早鐘 はやがねを打っている。
そんなガッチガチに緊張している鴻夏コウカの様子を眺めながら、牽蓮ヒレンは人知れずクスリと笑みをこぼす。
そしてふいに鴻夏コウカに向かって、声を掛けた。
「…結構遅い時間になりましたけど、その変装は落とさなきゃならないですよね」
「え…っ?」
唐突過ぎて一瞬何を言われたのかも理解出来ず、鴻夏コウカは間抜けに聞き返す。
それを特に気にした風もなく、牽蓮ヒレンは続けてこう言った。
「とりあえず下でお湯をもらえないか聞いてきます。その間にどちらの寝台を使うか決めておいてください」
淡々とそう告げると、牽蓮ヒレン鴻夏コウカを一人部屋に残して出て行った。
それを視覚的に確認した途端、鴻夏コウカはへなへなとその場にへたり込む。
そして両手で木の床の感触を感じながら、鴻夏コウカは思わずこう呟いていた。
「…な、何なの、あの人…。何考えてんの?」
多分それが今の鴻夏コウカの気持ちを、一番よく表している言葉だった。


パシャ…ンと静かな室内に水音が響く。
あの後しばらくしてお湯を分けてもらった牽蓮ヒレンが戻り、鴻夏コウカ うながされるままにお湯で変装用の化粧を落としていた。
元々服から見える部分しか塗っていないので、全身ではないものの服が濡れてしまう事も考慮し、今は下着一枚の姿である。
一応部屋にあった衝立 ついたてを二つの寝台の間に立てて、その影で落としているとはいえ、いつ相手が覗くかもしれないこの状況に鴻夏コウカの心臓は口から飛び出しそうな勢いだった。
しかしそんな鴻夏コウカ懸念 けねん余所 よそに、牽蓮ヒレンはまったく覗く事もなく、気がつけば鴻夏コウカは綺麗に化粧を落とし終わり、さっぱりした状態で着替えまで済ませていた。
そしてその段階になってようやく、鴻夏コウカは先程から世話になりっぱなしでありながら、牽蓮ヒレンに対して何のお礼も言っていなかった事に気づく。
気づいた途端、急に自分で自分が恥ずかしくなって、鴻夏コウカは慌てて自らの非礼をびるため衝立 ついたての後ろから飛び出した。
『…お礼、言わなきゃ…』
そう思ったのだが、目の前に飛び込んできた映像に再び鴻夏コウカは凍りつく。
鴻夏コウカはまったく気付いていなかったが、実は牽蓮ヒレンの方も衝立 ついたての向こうで自らの汗を拭いていたらしく、彼にしては珍しく上半身がかなりはだけた状態でその場に立っていた。
しかも服の隙間から、驚くほど鍛え抜かれた肢体したいが覗き、そこに少し長めの髪が乱れがちに下りていてそれがまた壮絶 そうぜつに色っぽい。
今まで男の人に対して、色気など欠片 かけらも感じた事がなかった鴻夏コウカだったが、こんな事があるのかと自分でも驚くほど目が離せなかった。
それに対し、牽蓮ヒレンが少し苦笑しながらこう告げる。

「…姫。そんなにまじまじと見つめられると、さすがに私も恥ずかしいんですが…」
「ご、ごめんなさいっ⁉︎」
牽蓮ヒレンに言われた途端、ハッと我に返った鴻夏コウカは、慌てて衝立 ついたての向こうに再び消える。
それを目の端で捉えながら、牽蓮ヒレンはくすくすと笑いつつ乱れた服を手早く直した。
「もういいですよ、どうぞ」
そう声をかけると、おそるおそる鴻夏コウカ衝立 ついたての後ろから顔を出す。
変装を取り、いつもの容姿を取り戻した鴻夏コウカはやはり人並み外れて美しく、牽蓮ヒレンは思わず素直に感想を述べていた。
「やはり姫はその姿が一番ですね。変装も悪くはないですが、その姿の方が貴女らしい気がします」
「…何言ってるのよ。私だとバレるわけにはいかないから、変装してたんじゃない」
照れ隠しにそう言うと、『それもそうですね』と牽蓮ヒレンは気にした風もなくそう答える。
それを受けて、鴻夏コウカはしばらくモジモジしていたが、ふいに意を決したように視線を合わすと勢いよく牽蓮ヒレンに対して礼を述べた。
「あの…っ、先程は助けてくれてありがとう。あ、あと食事から泊まる部屋から、何から何まで世話になりっ放しで…その…」
「どういたしまして。別に気になさるほどの事でもありませんよ」
さらりとそう答えると、牽蓮ヒレンは自らの寝台を少し整えそのままそこに腰を下ろす。
もう寝るだけだからか、髪は無造作 むぞうさに下ろしたままで、その様子がいつもよりくだけた感じで鴻夏コウカは妙に落ち着かない。
何となく視線をあらぬ方向へと彷徨 さまよわせながら、鴻夏コウカはそのまま続けて核心となる質問をぶつけてみる事にした。

「で…でもその…よかったの?本当は私を連れ戻さないと、貴方の立場が悪くなるんじゃ…?」
「まぁ…確かに良くはないでしょうね。でも私としては、最終的に皇城 おうじょうにまで来ていただければ、別にその過程はどうでもいいんですよね」
予想外に軽い答えだったが、やはりこのまま見逃してはくれなさそうだ。
それを聞いて、鴻夏コウカが少し恨みがましく牽蓮ヒレンを見つめてこう呟く。
「う…やっぱり皇城 おうじょうまで行かないと駄目…?」
「それは私にも立場というものがあるので、困りますね…。事情はどうあれ、貴女には風嘉フウカ帝と結婚してもらわないと」
「で、でも私がこのまま風嘉フウカ帝と結婚すると、何かとまずい事態が起こるんだけど…」
まさか自ら男ですとも言えず、鴻夏コウカは実に歯切れの悪い答えを返す。
それを受けて、牽蓮ヒレン至極 しごくあっさりとこう答えた。
「…そのまずい事態が何かはわかりませんが、貴方を無事 皇城 おうじょうまでお連れし、風嘉フウカ帝と結婚していただくまでが私の仕事です。申し訳ありませんが、最後までお付き合いいただきますよ」
ニッコリと微笑みながら実に容赦のない事を言うと、牽蓮ヒレンは続けてこう言った。
「貴女をこのまま見逃すわけには行きませんが、代わりに普通では味わえない旅をお約束しましょう」
その時 目の前の男が、密かに見えない黒い翼を生やしていた事を、鴻夏コウカは後になって気が付いたのであった。
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