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春の午後の公園は、音が多かった。
ブランコの軋む金属音、砂場を撫でる風の音、遠くで鳴る救急車のサイレン。
それらの隙間を縫うように、白い蝶だけがすり抜けていく。
蝶はふわりと浮き、くるりと向きを変え、低い花壇の向こうへ消えた。
それを見た青年――白河 ユイは、何も考えずに追いかけた。
靴紐がほどけていることも、今日は就労支援施設へ行く日だったことも、蝶の羽ばたきに上書きされた。
ユイは二十歳。
背は低く、線は細い。切り揃えられた髪はところどころ跳ね、サイズの合っていない上着の袖を、無意識に握りしめている。
心と身体は、いつも少しだけ周囲から遅れている。そして、Ωであるがゆえに都合のいい存在として扱われてきた。
花壇を越え、遊具を抜け、気づけば見慣れない公園に着いた。
「あ」
蝶は、どこへ行ったのか。
ユイは立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回す。
知らない景色と空気。
胸の奥が、きゅっと縮む。
それが「不安」だと、彼はまだうまく言葉にできない。
「……ま、いっか」
そう呟いて、ユイは笑った。
笑えば、だいたいのことは大丈夫だった。
ベンチに腰掛け、両手を膝に置く。
背もたれにきちんと背をつける。
いつもの“だいじょうぶな座り方”。
ふと、思い出す。
迷ったら、電話する。
就労支援施設の番号は暗記している。
胸ポケットから、かんたんスマホを取り出し、
画面をタップしようとして――声がかけられる。
「迷子?」
低く、落ち着いた声がした。
影が、ベンチの前に落ちる。
ユイが顔を上げると、背の高い男が立っていた。
白いワイシャツに、きちんとした靴。
目は鋭いが、睨んでいるわけではない。
(あるふぁ、かな?このひと)
男は、少し警戒するユイを一目見て、声の調子を柔らかくした。
距離を保つ。
「名前、言える?」
「……ゆい」
「苗字は?」
ユイは少し考え、首を傾げる。
「……しらかわ」
「白河ユイ。歳は?」
「はたち、だれ?」
答えは遅いが、間違ってはいない。
「あ、ごめんね。 神崎鷹臣。
仕事の休み時間で外出てたら、見つけたんだ。君を」
「たかおみ、さん」
鷹臣は視線を落とした。迷子なんだろうが、雰囲気が違うと思った。
ほどけた靴紐。
擦れた袖口。
襟に残る、指で引っ張られたような小さな皺。
首筋から覗く肌の赤み。
「ここ、どこかわかる?」
(Ωか?カラーは、してないのか…)
「……しらない、こうえん」
「来る途中、誰と一緒だった?」
「……ひとり。パンやさん、いこうとしたら、ちょうちょがいたの」
嘘ではないのだろう。
支離滅裂で危うくて、放っておけない。
「喉かわいた?」
「……かわいた」
鷹臣は立ち上がり、自販機へ向かった。
適当に飲みそうなものを選ぶ。お茶がいいか、ジュースがいいか。どっちも買って選んでもらおうと小銭を入れ、ボタンを押した。
「はい」
ユイはリンゴジュースを受け取り、にこっと笑った。
「ありがとう。やさしいね」
その言い方が、鷹臣の胸に引っかかった。
“やさしい”の基準が、低すぎる。
ユイは自分のカバンの中から出したクッキーを食べながら、思い出したようにスマホを見せた。
「あのね、おともだち、いるの」
「友だち?」
連絡帳には、いくつかの名前が並んでいた。
『お友だち1』
『お友だち2』
『お友だち3』
『あっくん』
「……1、2、3?」
鷹臣が尋ねると、ユイは笑顔で答える。
「こうえんでね。ぬいだり、さわられたりする」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「それは……嫌じゃないのか?」
「……うーん、Ωだから、ふつう」
鷹臣は、深く息を吸った。
やっぱりΩだったし、その扱われ方は普通じゃない。
「ユイ」
名前を呼ぶ。
「それは、“わるいこと”だ」
ユイは瞬きをする。
「……わるいこと?」
「うん。していいことじゃない」
「……Ωでも?」
「うん、Ωでも」
きっぱり言う。
「“嫌だ”って言っていい」
ユイは、不思議そうな顔をした。
「……いまからでも?」
「もちろん」
沈黙。
風が、木の葉を揺らす。
ユイは、しばらく考えてから、別の名前を指さした。
「……あっくん、おとうと」
その名前を口にした瞬間、表情が曇ったような気がした。
「この人に、電話する?」
躊躇いながらも、ユイは頷いた。
鷹臣は少し迷ってから発信する。いつまでも付き添うのは、仕事の合間だから難しい。
スピーカー越しの声は、すぐに出た。
「迎えに行く」
短い言葉。
それだけで、通話は終わった。
「……くるって」
ユイは言った。
鷹臣は、止めなかった。
何も知らない自分がどこまで首を突っ込めるのか。
「じゃあ、これ」
別れ際、名刺を差し出す。
せめて何かできればと思った。
「連絡できる。何かあったら、番号にかけてくれれば」
ユイは名刺を受け取り、ぎゅっと握った。
「うん」
(……わるいこと、しないひと)
――
ベンチから少し離れた場所で、ユイは立ったまま待っていた。
特別会話はしなかった。
ユイは鷹臣から貰った名刺を胸のポケットに入れたあと、無意識に何度もポケットを撫でていた。
「……くる」
誰に言うでもなく、呟く。
鷹臣は、少し距離を取って立っていた。
「ユイ、迎えに来る人、怖い?」
ユイは、少し考えた。
「……こわい、じゃない」
「じゃあ?」
「……αで、おこる。ないしょね」
その答えで、十分だった。
遠くから、足音が近づいてくる。
人混みの中でも、迷いなくこちらに向かってくる影。
ユイの肩が、きゅっとすくむ。
「あっ」
声が、小さく漏れた。
「ユイ」
呼ばれた名前は、さっき鷹臣が呼んだものと、同じなのに、響く音が違った。
男はユイの前に立つと、視線を一度だけ鷹臣に向けた。値踏みするような、短い視線。
「……どちら様ですか?」
「通りすがりです」
鷹臣は、余計な説明をしなかった。
「あっくん」
「外では明也って呼んでよ。迷子になった?」
ユイが呼ぶと、男――明也は、すぐに表情を緩めた。
さっきと同じ言葉。
でも、声色はまるで違う。
「……うん」
「だめだろ、勝手にいなくなったら」
叱る口調なのに、手は自然にユイの肩に置かれる。
ユイは、抵抗しなかった。
その代わり、ちらりと鷹臣を見る。
「……このひと」
紹介しようとして、言葉に詰まる。
「……わるいこと、しないって」
明也の眉が、一瞬だけ動いた。
「あ?」
「……おともだち、わるいって」
ユイは、そう言ってから、慌てて付け足す。
沈黙が落ちる。
明也は、ゆっくり笑った。
「へえ」
その笑顔が、鷹臣の背中に嫌な予感を走らせる。
「ありがとうございます、すみません。面倒かけて」
礼を言う声は丁寧だったが、ユイの肩に置かれた明也の手が、ほんの少しだけ強くなる。
「帰るぞ」
「……うん」
ユイは、従った。
歩き出す直前、一瞬だけ振り返ると鷹臣と目が合う。
何か言いたそうで、でも、何を言えばいいかわからない顔。
鷹臣は、自分の胸ポケットを叩き、静かに口を動かした。
「……名刺、電話、して」
声には、出さない。
ユイは、理解できたのか、できなかったのか、
小さく頷いた。
二人は、人混みに紛れていく。
春の公園には、また、音だけが残った。
そして、白い蝶はいなくなっていた。
ブランコの軋む金属音、砂場を撫でる風の音、遠くで鳴る救急車のサイレン。
それらの隙間を縫うように、白い蝶だけがすり抜けていく。
蝶はふわりと浮き、くるりと向きを変え、低い花壇の向こうへ消えた。
それを見た青年――白河 ユイは、何も考えずに追いかけた。
靴紐がほどけていることも、今日は就労支援施設へ行く日だったことも、蝶の羽ばたきに上書きされた。
ユイは二十歳。
背は低く、線は細い。切り揃えられた髪はところどころ跳ね、サイズの合っていない上着の袖を、無意識に握りしめている。
心と身体は、いつも少しだけ周囲から遅れている。そして、Ωであるがゆえに都合のいい存在として扱われてきた。
花壇を越え、遊具を抜け、気づけば見慣れない公園に着いた。
「あ」
蝶は、どこへ行ったのか。
ユイは立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回す。
知らない景色と空気。
胸の奥が、きゅっと縮む。
それが「不安」だと、彼はまだうまく言葉にできない。
「……ま、いっか」
そう呟いて、ユイは笑った。
笑えば、だいたいのことは大丈夫だった。
ベンチに腰掛け、両手を膝に置く。
背もたれにきちんと背をつける。
いつもの“だいじょうぶな座り方”。
ふと、思い出す。
迷ったら、電話する。
就労支援施設の番号は暗記している。
胸ポケットから、かんたんスマホを取り出し、
画面をタップしようとして――声がかけられる。
「迷子?」
低く、落ち着いた声がした。
影が、ベンチの前に落ちる。
ユイが顔を上げると、背の高い男が立っていた。
白いワイシャツに、きちんとした靴。
目は鋭いが、睨んでいるわけではない。
(あるふぁ、かな?このひと)
男は、少し警戒するユイを一目見て、声の調子を柔らかくした。
距離を保つ。
「名前、言える?」
「……ゆい」
「苗字は?」
ユイは少し考え、首を傾げる。
「……しらかわ」
「白河ユイ。歳は?」
「はたち、だれ?」
答えは遅いが、間違ってはいない。
「あ、ごめんね。 神崎鷹臣。
仕事の休み時間で外出てたら、見つけたんだ。君を」
「たかおみ、さん」
鷹臣は視線を落とした。迷子なんだろうが、雰囲気が違うと思った。
ほどけた靴紐。
擦れた袖口。
襟に残る、指で引っ張られたような小さな皺。
首筋から覗く肌の赤み。
「ここ、どこかわかる?」
(Ωか?カラーは、してないのか…)
「……しらない、こうえん」
「来る途中、誰と一緒だった?」
「……ひとり。パンやさん、いこうとしたら、ちょうちょがいたの」
嘘ではないのだろう。
支離滅裂で危うくて、放っておけない。
「喉かわいた?」
「……かわいた」
鷹臣は立ち上がり、自販機へ向かった。
適当に飲みそうなものを選ぶ。お茶がいいか、ジュースがいいか。どっちも買って選んでもらおうと小銭を入れ、ボタンを押した。
「はい」
ユイはリンゴジュースを受け取り、にこっと笑った。
「ありがとう。やさしいね」
その言い方が、鷹臣の胸に引っかかった。
“やさしい”の基準が、低すぎる。
ユイは自分のカバンの中から出したクッキーを食べながら、思い出したようにスマホを見せた。
「あのね、おともだち、いるの」
「友だち?」
連絡帳には、いくつかの名前が並んでいた。
『お友だち1』
『お友だち2』
『お友だち3』
『あっくん』
「……1、2、3?」
鷹臣が尋ねると、ユイは笑顔で答える。
「こうえんでね。ぬいだり、さわられたりする」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「それは……嫌じゃないのか?」
「……うーん、Ωだから、ふつう」
鷹臣は、深く息を吸った。
やっぱりΩだったし、その扱われ方は普通じゃない。
「ユイ」
名前を呼ぶ。
「それは、“わるいこと”だ」
ユイは瞬きをする。
「……わるいこと?」
「うん。していいことじゃない」
「……Ωでも?」
「うん、Ωでも」
きっぱり言う。
「“嫌だ”って言っていい」
ユイは、不思議そうな顔をした。
「……いまからでも?」
「もちろん」
沈黙。
風が、木の葉を揺らす。
ユイは、しばらく考えてから、別の名前を指さした。
「……あっくん、おとうと」
その名前を口にした瞬間、表情が曇ったような気がした。
「この人に、電話する?」
躊躇いながらも、ユイは頷いた。
鷹臣は少し迷ってから発信する。いつまでも付き添うのは、仕事の合間だから難しい。
スピーカー越しの声は、すぐに出た。
「迎えに行く」
短い言葉。
それだけで、通話は終わった。
「……くるって」
ユイは言った。
鷹臣は、止めなかった。
何も知らない自分がどこまで首を突っ込めるのか。
「じゃあ、これ」
別れ際、名刺を差し出す。
せめて何かできればと思った。
「連絡できる。何かあったら、番号にかけてくれれば」
ユイは名刺を受け取り、ぎゅっと握った。
「うん」
(……わるいこと、しないひと)
――
ベンチから少し離れた場所で、ユイは立ったまま待っていた。
特別会話はしなかった。
ユイは鷹臣から貰った名刺を胸のポケットに入れたあと、無意識に何度もポケットを撫でていた。
「……くる」
誰に言うでもなく、呟く。
鷹臣は、少し距離を取って立っていた。
「ユイ、迎えに来る人、怖い?」
ユイは、少し考えた。
「……こわい、じゃない」
「じゃあ?」
「……αで、おこる。ないしょね」
その答えで、十分だった。
遠くから、足音が近づいてくる。
人混みの中でも、迷いなくこちらに向かってくる影。
ユイの肩が、きゅっとすくむ。
「あっ」
声が、小さく漏れた。
「ユイ」
呼ばれた名前は、さっき鷹臣が呼んだものと、同じなのに、響く音が違った。
男はユイの前に立つと、視線を一度だけ鷹臣に向けた。値踏みするような、短い視線。
「……どちら様ですか?」
「通りすがりです」
鷹臣は、余計な説明をしなかった。
「あっくん」
「外では明也って呼んでよ。迷子になった?」
ユイが呼ぶと、男――明也は、すぐに表情を緩めた。
さっきと同じ言葉。
でも、声色はまるで違う。
「……うん」
「だめだろ、勝手にいなくなったら」
叱る口調なのに、手は自然にユイの肩に置かれる。
ユイは、抵抗しなかった。
その代わり、ちらりと鷹臣を見る。
「……このひと」
紹介しようとして、言葉に詰まる。
「……わるいこと、しないって」
明也の眉が、一瞬だけ動いた。
「あ?」
「……おともだち、わるいって」
ユイは、そう言ってから、慌てて付け足す。
沈黙が落ちる。
明也は、ゆっくり笑った。
「へえ」
その笑顔が、鷹臣の背中に嫌な予感を走らせる。
「ありがとうございます、すみません。面倒かけて」
礼を言う声は丁寧だったが、ユイの肩に置かれた明也の手が、ほんの少しだけ強くなる。
「帰るぞ」
「……うん」
ユイは、従った。
歩き出す直前、一瞬だけ振り返ると鷹臣と目が合う。
何か言いたそうで、でも、何を言えばいいかわからない顔。
鷹臣は、自分の胸ポケットを叩き、静かに口を動かした。
「……名刺、電話、して」
声には、出さない。
ユイは、理解できたのか、できなかったのか、
小さく頷いた。
二人は、人混みに紛れていく。
春の公園には、また、音だけが残った。
そして、白い蝶はいなくなっていた。
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