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鷹臣が席を立ったのは、コーヒーを飲み終えたタイミングだった。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
「……うん」
ユイは、いちごのパフェのスプーンを口に運びながら頷いた。
その返事は軽く、さっきまでの泣きそうな顔が嘘みたいだった。
鷹臣は店内を横切り、トイレへ向かう。
その背中が視界から消えた瞬間だった。
ガラス越しに、人影が立った。
ユイは最初、それを“誰か”だと思わなかった。
ただ、外が少し暗くなった気がしただけだった。
次の瞬間、その影が、はっきりとした輪郭を持つ。
「…あ、」
喉が、ひゅっと鳴る。
立っていたのは明也だった。
カフェの窓の外から、ユイだけを見ている。
目が合った。
明也は、何も言わない。ガラス越しに、ただ、おいでという仕草で指を動かした。
ユイはひどい罪悪感を覚えた。
連絡を無視した。
返事をしなかった。
心配させた。
(あっくん、おこってる、かも…)
その考えが浮かんだ瞬間、いつもどおりに戻った。
――呼ばれたら、行く。
それはΩとしての身体に染みついた反射だった。
ユイは、スプーンをテーブルに置いた。
椅子の脚が、小さく音を立てる。
誰も、見ていない。
みんな、各自の会話に夢中だった。
ドアに向かう手は少し震えていたが、それは自分のせいだと思った。
外に出ると、明也はすぐ近くにいた。
「……遅かったね」
低い声。
責める調子じゃないのに、胸の奥が冷えた。
「……ごめんなさい」
自然に、そう言っていた。
「連絡、無視すんな」
「……ごめん」
短いやり取り。説明は、求められない。
明也は、ユイの肩越しにカフェの中を一度だけ見た。
すぐに視線を戻す。鷹臣とやらは、まだ戻ってない。
「行くぞ」
「……うん」
ユイは、一瞬だけ振り返った。
ガラス越しに、自分が座っていた席が見える。
テーブル。
コーヒーカップ。
紙ナプキン。
鷹臣。
戻らなきゃ、と思う。
でも、足はもうカフェには向かなかった。
明也が歩き出す。
ユイは、その半歩後ろについた。
――
その頃、鷹臣は手を洗い、タオルで手を拭いていた。
鏡に映る自分の顔は、少し硬い。
嫌な予感、というほどではない。
ただ、胸の奥が、わずかにざわつく。
やっぱり明也もユイにひどいことをしていた。
異常だ。何がαだ、何がΩだ。
意味があって、選ばれ与えられた性別を、欲のために消費されるなんてことがあっていい訳がなかった。
トイレを出ると、ユイがいた椅子は引かれたまま。
パフェは、半分残っている。
「……?」
周囲を見回す。
店内。入口。
いない。
スマートフォンを取り出し、発信する。
呼び出し音は鳴るものの、出ない。
もう一度発信する。それでも、出ない。
テーブルに目を落としたとき、それが見えた。
紙ナプキン。
そこに、たどたどしい字で書かれている。
――たかおみさん、ごめんなさい
鷹臣は、しばらく動けなかった。
カフェの中は、相変わらず賑やかだった。
笑い声。
カップの触れ合う音。
プレートに当たるカトラリーの音。
誰も、何も見ていない、知らない。
「ユイ…」
鷹臣は、手早く会計を済ませてカフェを出た。
――
ユイは、歩きながら明也の袖をぎゅっと掴んでいた。
布の端が指に食い込み、指先が白くなる。
「……あっくん、ごめんね……ゆるして……」
声は、泣き声になる手前で擦れていた。
誰と、何を、どうしたか――それを伝える余裕はない。
明也は振り返らず、歩く速度も変えないままだった。
「どうしよっかなぁ」
独り言みたいな声。
考えている“間”が、いちばん怖いのをユイは知っている。
通りから一歩外れるた光の少ない路地裏。
明也からの赦しは貰えないまま、人の声が遠のいていった。
「最近さ、ユイ。ちょっと反抗的じゃない?」
足が止まる。
ぶつかるみたいに、ユイも止まる。
「だから――友だちも呼んどいた。ユイ、自分がΩだって自覚ある?」
影が、増える。
お友だち1、2、3と知らない人。
ユイの呼吸は浅くなり、吸えなかった息の中に名前が勝手に浮かぶ。
(たかおみさん、)
さっきまで、あんなに近くにいたのに。
コーヒーの匂い。
テーブルの上の紙ナプキン。
たかおみさんの字。
(パンケーキ、おいしかった。
いちごのパフェ、まだはんぶんだったなぁ…)
思い出は、甘くて、遠い。
今の空気と、あまりにも違う。
「ねぇ」
低く絡みつく明也の声で現実に戻された。
「ホテルで、何してた?」
答えを考える前に、距離が詰まる。
背中が、冷たい壁に当たって思考がばらばらになった。
「えっと…えっと…、なんだっけ」
思い出せない。
抱っこしてもらって寝て、何もなかったと思う。
そう思ってる間に、ユイの視界が狭くなる。
肩に、腕に、触れられている感覚だけが増えていく。
「……んっ、ぅ…」
声を出そうとして、喉が鳴るだけ。
誰かの手が、口元に重なった。
息が苦しくなる。
「じゃあさ、確認しないと」
遠くで、明也の声。
(ちがう。たかおみさんは、わるいこと、しない)
でも、その言葉は外に出ない。
胸の奥で、ぐしゃっと潰れる。
影が近づき、触れられているという事実だけが積み重なる。
シャツの中、ズボンの中に手が入り込む。
ユイの柔らかい前を揉みしだき、後ろの穴を弄られる。
(わかんない…ごめんなさい、ごめんなさい。)
謝る相手が、増えていく。
時間の感覚がほどけて、どこからがどこまでがいつものことか分からなくなる。
(Ωだから、やっぱりこうなんだ)
ただ一つわかった答えは、結局いつもと同じだった。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
「……うん」
ユイは、いちごのパフェのスプーンを口に運びながら頷いた。
その返事は軽く、さっきまでの泣きそうな顔が嘘みたいだった。
鷹臣は店内を横切り、トイレへ向かう。
その背中が視界から消えた瞬間だった。
ガラス越しに、人影が立った。
ユイは最初、それを“誰か”だと思わなかった。
ただ、外が少し暗くなった気がしただけだった。
次の瞬間、その影が、はっきりとした輪郭を持つ。
「…あ、」
喉が、ひゅっと鳴る。
立っていたのは明也だった。
カフェの窓の外から、ユイだけを見ている。
目が合った。
明也は、何も言わない。ガラス越しに、ただ、おいでという仕草で指を動かした。
ユイはひどい罪悪感を覚えた。
連絡を無視した。
返事をしなかった。
心配させた。
(あっくん、おこってる、かも…)
その考えが浮かんだ瞬間、いつもどおりに戻った。
――呼ばれたら、行く。
それはΩとしての身体に染みついた反射だった。
ユイは、スプーンをテーブルに置いた。
椅子の脚が、小さく音を立てる。
誰も、見ていない。
みんな、各自の会話に夢中だった。
ドアに向かう手は少し震えていたが、それは自分のせいだと思った。
外に出ると、明也はすぐ近くにいた。
「……遅かったね」
低い声。
責める調子じゃないのに、胸の奥が冷えた。
「……ごめんなさい」
自然に、そう言っていた。
「連絡、無視すんな」
「……ごめん」
短いやり取り。説明は、求められない。
明也は、ユイの肩越しにカフェの中を一度だけ見た。
すぐに視線を戻す。鷹臣とやらは、まだ戻ってない。
「行くぞ」
「……うん」
ユイは、一瞬だけ振り返った。
ガラス越しに、自分が座っていた席が見える。
テーブル。
コーヒーカップ。
紙ナプキン。
鷹臣。
戻らなきゃ、と思う。
でも、足はもうカフェには向かなかった。
明也が歩き出す。
ユイは、その半歩後ろについた。
――
その頃、鷹臣は手を洗い、タオルで手を拭いていた。
鏡に映る自分の顔は、少し硬い。
嫌な予感、というほどではない。
ただ、胸の奥が、わずかにざわつく。
やっぱり明也もユイにひどいことをしていた。
異常だ。何がαだ、何がΩだ。
意味があって、選ばれ与えられた性別を、欲のために消費されるなんてことがあっていい訳がなかった。
トイレを出ると、ユイがいた椅子は引かれたまま。
パフェは、半分残っている。
「……?」
周囲を見回す。
店内。入口。
いない。
スマートフォンを取り出し、発信する。
呼び出し音は鳴るものの、出ない。
もう一度発信する。それでも、出ない。
テーブルに目を落としたとき、それが見えた。
紙ナプキン。
そこに、たどたどしい字で書かれている。
――たかおみさん、ごめんなさい
鷹臣は、しばらく動けなかった。
カフェの中は、相変わらず賑やかだった。
笑い声。
カップの触れ合う音。
プレートに当たるカトラリーの音。
誰も、何も見ていない、知らない。
「ユイ…」
鷹臣は、手早く会計を済ませてカフェを出た。
――
ユイは、歩きながら明也の袖をぎゅっと掴んでいた。
布の端が指に食い込み、指先が白くなる。
「……あっくん、ごめんね……ゆるして……」
声は、泣き声になる手前で擦れていた。
誰と、何を、どうしたか――それを伝える余裕はない。
明也は振り返らず、歩く速度も変えないままだった。
「どうしよっかなぁ」
独り言みたいな声。
考えている“間”が、いちばん怖いのをユイは知っている。
通りから一歩外れるた光の少ない路地裏。
明也からの赦しは貰えないまま、人の声が遠のいていった。
「最近さ、ユイ。ちょっと反抗的じゃない?」
足が止まる。
ぶつかるみたいに、ユイも止まる。
「だから――友だちも呼んどいた。ユイ、自分がΩだって自覚ある?」
影が、増える。
お友だち1、2、3と知らない人。
ユイの呼吸は浅くなり、吸えなかった息の中に名前が勝手に浮かぶ。
(たかおみさん、)
さっきまで、あんなに近くにいたのに。
コーヒーの匂い。
テーブルの上の紙ナプキン。
たかおみさんの字。
(パンケーキ、おいしかった。
いちごのパフェ、まだはんぶんだったなぁ…)
思い出は、甘くて、遠い。
今の空気と、あまりにも違う。
「ねぇ」
低く絡みつく明也の声で現実に戻された。
「ホテルで、何してた?」
答えを考える前に、距離が詰まる。
背中が、冷たい壁に当たって思考がばらばらになった。
「えっと…えっと…、なんだっけ」
思い出せない。
抱っこしてもらって寝て、何もなかったと思う。
そう思ってる間に、ユイの視界が狭くなる。
肩に、腕に、触れられている感覚だけが増えていく。
「……んっ、ぅ…」
声を出そうとして、喉が鳴るだけ。
誰かの手が、口元に重なった。
息が苦しくなる。
「じゃあさ、確認しないと」
遠くで、明也の声。
(ちがう。たかおみさんは、わるいこと、しない)
でも、その言葉は外に出ない。
胸の奥で、ぐしゃっと潰れる。
影が近づき、触れられているという事実だけが積み重なる。
シャツの中、ズボンの中に手が入り込む。
ユイの柔らかい前を揉みしだき、後ろの穴を弄られる。
(わかんない…ごめんなさい、ごめんなさい。)
謝る相手が、増えていく。
時間の感覚がほどけて、どこからがどこまでがいつものことか分からなくなる。
(Ωだから、やっぱりこうなんだ)
ただ一つわかった答えは、結局いつもと同じだった。
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