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鷹臣が異変に気づいたのは、カフェを出て数分も経たないうちだった。
胸の奥に、違和感が残っていた。
さっきまで、確かにそこにいた気配。
視界にはないのに、まだ消えきらない。
甘さに、微かな鉄のような苦みが混じる。
さっきまで気づかなかったはずのそれが、今は、はっきりと“道”になっている。
(…ユイの匂い…残ってる)
自分でも驚くほど、確信があった。
足が、迷わない。
人の流れを外れ、音の少ない方へ、光の届かない方へ。
路地に入った瞬間、空気が変わる。
人の声。
近すぎる距離。
鷹臣は、咄嗟にポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を起動し、カメラを向ける。
実際には、録画ボタンは押していない。
だが、必要であればいつでも撮る気ではいた。
「――なぁ、映像通報、知ってる?」
低く、はっきりした声。
「今、警察が見てる。
このまま続けるなら、すぐ駆けつける」
その一言で、空気が凍った。
「は?なんだよお前、」
数人の男が、振り返り視線を交わす。
動きが、止まる。
その中央に、ユイがいた。
壁際に追い詰められ、呼吸が浅く、目が大きく開いている。
「……いや!」
突然、甲高い声が上がった。
ユイが、暴れた。
手当たり次第に、近くの腕に噛みつく。
「っ…てめぇ…!」
驚きと痛みに、男が後ずさる。
その隙に、鷹臣は距離を詰めた。
「ユイ!」
名前を呼ぶ。
ユイの視線が、こちらに定まる。それだけで、胸が詰まった。
明也が舌打ちする。
「……やっぱこいつといたのかよ、鷹臣さんか?」
ユイの腕を掴み、引き寄せようとする。
「ユイ、帰るぞ」
しかし、ユイは動かなかった。
「……きらい」
小さく、でもはっきりした声が聞こえた。
明也の手が、止まる。
「……は?」
「……あっくん、きらい」
その言葉が、火をつけた。
明也の表情が歪む。次の瞬間、荒い動きでユイを突き放し、腹に蹴りを入れた。
「ぅっ……!」
鈍い音。
ユイが、壁に叩きつけられ、膝をつく。
「好きにしろよ。こいつとのガキ、産みたいなら、勝手に産んどけ」
吐き捨てた言葉だけが、地面に落ちた。
明也は踵を返す。
周囲の男たちも、目を逸らし、散っていく。
誰も、振り返らない。
昼下がりの静けさが、戻ってきた。
――
ユイは、その場に座り込んだまま、動かなかった。
鷹臣はスマートフォンを下ろし、すぐにユイの前にしゃがみ込む。
「大丈夫。……ここ、触らせて」
触れる前に、声をかける。
ユイは遅れて頷いた。
腹を見るために服を少し捲った。赤みが出ていて、少し痛そうに見える。
しばらくして、ぽろっと、涙が落ちた。
「…!痛い、よな?!」
鷹臣がユイの腹を撫でると、ユイは小さく呟いた。
「……ごめんなさい」
声が、震えている。
「ユイが謝ること…」
「パフェ、のこした……」
被せられた言葉に鷹臣は、一瞬、言葉を失った。
違う。そこじゃない。
でも、その一言の重さで分かってしまった。
ユイは、“怒られそうなこと”を探している。
本当に怖かったことを後回しにして、自ら罰せられに行く。
鷹臣は、深く息を吸った。
「……それは、いいから」
視線を合わせ、静かに言う。
「そんなことより、大きな怪我とかしてなくて、よかった」
ユイは、きょとんとしてから、言葉の意味をゆっくり噛み砕く。
そして、声を殺さずに泣いた。
昼下がりの路地には、もう、誰もいなかった。
――
ユイは、しばらくその場から動けなかった。
膝を抱えるように座り込み、呼吸が浅い。
さっきまでの騒ぎが引いたあと、逆に、身体の内側だけがざわざわと騒いでいた。
「……あつい」
ぽつりと漏れた声は、訴えというより独り言だった。
額に汗がにじみ、首筋が赤い。
鷹臣は、改めてユイを辿れた理由を確信する。
――ヒートが来ている
(……やっぱり、)
「ユイ、大丈夫?」
名前を呼ぶと、ユイはゆっくり顔を上げた。
瞳が潤んでいて、焦点が定まりにくい。
「……んー……」
返事は曖昧だった。
鷹臣は、さっきまでとは違う違和感に気づく。
空気が、少しだけ甘い。近づくほど、濃くなる。
「…あったよな、確か」
鷹臣は、すぐに自分のリュックを下ろした。
今まで必要ないと思っていたが、念のためだ。
α用の抑制剤を取り出し、ためらわずに飲む。
喉を通る苦みで、気持ちが少しだけ落ち着いた。
ユイは、その様子をじっと見ていた。
鷹臣は目を合わせないまま口を開く。なんとなく抑制剤を飲んだあとにユイを見れなかった。
「ごめん。
昨日……リュックの中、見ちゃった」
ユイの肩が、ぴくりと動く。
「中に、抑制剤入ってなかったっけ」
ユイは一瞬だけ考え、それから辛そうにしながらも微笑んだ。
「……みてもいいよ。きたないけど。
あれ、もうよわいの。のんでない」
その笑い方が、“困ったことを誤魔化すため”だと、鷹臣には分かった。
「じゃあ……今までは、どうしてた?」
問いは責めるためじゃなく、対処を知るためだった。
ユイの目が、泳ぐ。
「……おうち、から、でないで……あっくん、きて…」
そこまで言って、ユイは、はっとしたように両手で口を塞ぐ。
喉の奥で、何かを飲み込む音。
ユイは首を横に振った。
「……だめ。ないしょ」
「どうして」
「……しられたく、ない」
声は小さく理由は説明できない。
でも、感情だけははっきりしている。
今までのこれはきっと“わるいこと”。
それを、ここに持ち込みたくない。
(明也…、弟に好きにされてたのか、)
鷹臣はユイの気持ちを汲んで、それ以上訊かなかった。
代わりに、少し間を置いてから思い出したように口を開いた。
「……その、リュックの中に、ヘルプマークのタグもあったよな」
言葉を選びながら、慎重に。
「住所とか、書いてある?」
ユイは一瞬だけ考えてから、こくりと頷いた。
「……うん」
ユイはリュックを肩から下ろし、ぎこちない手つきで探す。
中から出てきたのは、くたびれた赤いタグだった。
擦れて、角が丸くなっている。
何度も触られた形跡。
鷹臣は、それを受け取る前に一言添えた。
「見ても大丈夫?嫌だったら、言って」
ユイは、微笑んだ。
「……いいよ」
タグには、住所が書いてあった。
見覚えのある地名。通ったことのある道。
何度か車で抜けた、あの辺り。
(……やっぱり、あの辺りか)
そして、その下。
しょうがいがあり
うまく はなせません
まいごのときは
ほご してください
少し歪んだ字ではあるが、丁寧に書かれている。
その下に、電話番号。
家族のものか支援員のものか、判断はつかない。
ただ――
鷹臣は、直感的に思った。
(……今、ここに繋ぐ番号じゃない)
助けを求めるための手段なのに、それを使った瞬間、ユイがまた“戻される”気がした。
鷹臣は、タグをそっとユイに返した。
「ありがとう」
それ以上、何も言わない。
「…ヒートのこと、話したくなかったら大丈夫だから。……家、帰ろう?」
ユイは、少し時間をかけてから頷いた。
「……ん、かえる」
立ち上がろうとして、よろける。
鷹臣は、反射的に半歩近づいて、止まった。
「触る前に訊くけど……手、繋ぐ?」
ユイは、しばらく考えてから、首を縦に振った。
年の割に小さな手は、まだ少し震えが残っている。
鷹臣は、ゆっくりとその手を取った。
昼下がりの街は、騒ぎが嘘みたいに、穏やかで少し不気味だった。
誰も何も、知らない。
ユイは、鷹臣の隣を歩きながら、小さく息を吐いた。
「……たかおみさん」
「ん」
「……ありがとう」
それ以上は、続かなかった。
鷹臣は答えなかった。
ただ、繋いだ手の温度が痛いほど、あたたかかった。
胸の奥に、違和感が残っていた。
さっきまで、確かにそこにいた気配。
視界にはないのに、まだ消えきらない。
甘さに、微かな鉄のような苦みが混じる。
さっきまで気づかなかったはずのそれが、今は、はっきりと“道”になっている。
(…ユイの匂い…残ってる)
自分でも驚くほど、確信があった。
足が、迷わない。
人の流れを外れ、音の少ない方へ、光の届かない方へ。
路地に入った瞬間、空気が変わる。
人の声。
近すぎる距離。
鷹臣は、咄嗟にポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を起動し、カメラを向ける。
実際には、録画ボタンは押していない。
だが、必要であればいつでも撮る気ではいた。
「――なぁ、映像通報、知ってる?」
低く、はっきりした声。
「今、警察が見てる。
このまま続けるなら、すぐ駆けつける」
その一言で、空気が凍った。
「は?なんだよお前、」
数人の男が、振り返り視線を交わす。
動きが、止まる。
その中央に、ユイがいた。
壁際に追い詰められ、呼吸が浅く、目が大きく開いている。
「……いや!」
突然、甲高い声が上がった。
ユイが、暴れた。
手当たり次第に、近くの腕に噛みつく。
「っ…てめぇ…!」
驚きと痛みに、男が後ずさる。
その隙に、鷹臣は距離を詰めた。
「ユイ!」
名前を呼ぶ。
ユイの視線が、こちらに定まる。それだけで、胸が詰まった。
明也が舌打ちする。
「……やっぱこいつといたのかよ、鷹臣さんか?」
ユイの腕を掴み、引き寄せようとする。
「ユイ、帰るぞ」
しかし、ユイは動かなかった。
「……きらい」
小さく、でもはっきりした声が聞こえた。
明也の手が、止まる。
「……は?」
「……あっくん、きらい」
その言葉が、火をつけた。
明也の表情が歪む。次の瞬間、荒い動きでユイを突き放し、腹に蹴りを入れた。
「ぅっ……!」
鈍い音。
ユイが、壁に叩きつけられ、膝をつく。
「好きにしろよ。こいつとのガキ、産みたいなら、勝手に産んどけ」
吐き捨てた言葉だけが、地面に落ちた。
明也は踵を返す。
周囲の男たちも、目を逸らし、散っていく。
誰も、振り返らない。
昼下がりの静けさが、戻ってきた。
――
ユイは、その場に座り込んだまま、動かなかった。
鷹臣はスマートフォンを下ろし、すぐにユイの前にしゃがみ込む。
「大丈夫。……ここ、触らせて」
触れる前に、声をかける。
ユイは遅れて頷いた。
腹を見るために服を少し捲った。赤みが出ていて、少し痛そうに見える。
しばらくして、ぽろっと、涙が落ちた。
「…!痛い、よな?!」
鷹臣がユイの腹を撫でると、ユイは小さく呟いた。
「……ごめんなさい」
声が、震えている。
「ユイが謝ること…」
「パフェ、のこした……」
被せられた言葉に鷹臣は、一瞬、言葉を失った。
違う。そこじゃない。
でも、その一言の重さで分かってしまった。
ユイは、“怒られそうなこと”を探している。
本当に怖かったことを後回しにして、自ら罰せられに行く。
鷹臣は、深く息を吸った。
「……それは、いいから」
視線を合わせ、静かに言う。
「そんなことより、大きな怪我とかしてなくて、よかった」
ユイは、きょとんとしてから、言葉の意味をゆっくり噛み砕く。
そして、声を殺さずに泣いた。
昼下がりの路地には、もう、誰もいなかった。
――
ユイは、しばらくその場から動けなかった。
膝を抱えるように座り込み、呼吸が浅い。
さっきまでの騒ぎが引いたあと、逆に、身体の内側だけがざわざわと騒いでいた。
「……あつい」
ぽつりと漏れた声は、訴えというより独り言だった。
額に汗がにじみ、首筋が赤い。
鷹臣は、改めてユイを辿れた理由を確信する。
――ヒートが来ている
(……やっぱり、)
「ユイ、大丈夫?」
名前を呼ぶと、ユイはゆっくり顔を上げた。
瞳が潤んでいて、焦点が定まりにくい。
「……んー……」
返事は曖昧だった。
鷹臣は、さっきまでとは違う違和感に気づく。
空気が、少しだけ甘い。近づくほど、濃くなる。
「…あったよな、確か」
鷹臣は、すぐに自分のリュックを下ろした。
今まで必要ないと思っていたが、念のためだ。
α用の抑制剤を取り出し、ためらわずに飲む。
喉を通る苦みで、気持ちが少しだけ落ち着いた。
ユイは、その様子をじっと見ていた。
鷹臣は目を合わせないまま口を開く。なんとなく抑制剤を飲んだあとにユイを見れなかった。
「ごめん。
昨日……リュックの中、見ちゃった」
ユイの肩が、ぴくりと動く。
「中に、抑制剤入ってなかったっけ」
ユイは一瞬だけ考え、それから辛そうにしながらも微笑んだ。
「……みてもいいよ。きたないけど。
あれ、もうよわいの。のんでない」
その笑い方が、“困ったことを誤魔化すため”だと、鷹臣には分かった。
「じゃあ……今までは、どうしてた?」
問いは責めるためじゃなく、対処を知るためだった。
ユイの目が、泳ぐ。
「……おうち、から、でないで……あっくん、きて…」
そこまで言って、ユイは、はっとしたように両手で口を塞ぐ。
喉の奥で、何かを飲み込む音。
ユイは首を横に振った。
「……だめ。ないしょ」
「どうして」
「……しられたく、ない」
声は小さく理由は説明できない。
でも、感情だけははっきりしている。
今までのこれはきっと“わるいこと”。
それを、ここに持ち込みたくない。
(明也…、弟に好きにされてたのか、)
鷹臣はユイの気持ちを汲んで、それ以上訊かなかった。
代わりに、少し間を置いてから思い出したように口を開いた。
「……その、リュックの中に、ヘルプマークのタグもあったよな」
言葉を選びながら、慎重に。
「住所とか、書いてある?」
ユイは一瞬だけ考えてから、こくりと頷いた。
「……うん」
ユイはリュックを肩から下ろし、ぎこちない手つきで探す。
中から出てきたのは、くたびれた赤いタグだった。
擦れて、角が丸くなっている。
何度も触られた形跡。
鷹臣は、それを受け取る前に一言添えた。
「見ても大丈夫?嫌だったら、言って」
ユイは、微笑んだ。
「……いいよ」
タグには、住所が書いてあった。
見覚えのある地名。通ったことのある道。
何度か車で抜けた、あの辺り。
(……やっぱり、あの辺りか)
そして、その下。
しょうがいがあり
うまく はなせません
まいごのときは
ほご してください
少し歪んだ字ではあるが、丁寧に書かれている。
その下に、電話番号。
家族のものか支援員のものか、判断はつかない。
ただ――
鷹臣は、直感的に思った。
(……今、ここに繋ぐ番号じゃない)
助けを求めるための手段なのに、それを使った瞬間、ユイがまた“戻される”気がした。
鷹臣は、タグをそっとユイに返した。
「ありがとう」
それ以上、何も言わない。
「…ヒートのこと、話したくなかったら大丈夫だから。……家、帰ろう?」
ユイは、少し時間をかけてから頷いた。
「……ん、かえる」
立ち上がろうとして、よろける。
鷹臣は、反射的に半歩近づいて、止まった。
「触る前に訊くけど……手、繋ぐ?」
ユイは、しばらく考えてから、首を縦に振った。
年の割に小さな手は、まだ少し震えが残っている。
鷹臣は、ゆっくりとその手を取った。
昼下がりの街は、騒ぎが嘘みたいに、穏やかで少し不気味だった。
誰も何も、知らない。
ユイは、鷹臣の隣を歩きながら、小さく息を吐いた。
「……たかおみさん」
「ん」
「……ありがとう」
それ以上は、続かなかった。
鷹臣は答えなかった。
ただ、繋いだ手の温度が痛いほど、あたたかかった。
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