【完結】わるいこと

さか様

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翌朝、まだカーテンの隙間が薄暗いころ、洗面所から小さな音がした。

「……っ」

短く、喉を押さえるような声。
鷹臣はすぐに目を覚まし、布団を抜けた。

「ユイ?」

洗面所のドアは半開きだった。
中では、ユイが前屈みになって流しに手をつき、肩を小刻みに揺らしている。

吐いた量は多くないが、胃液の匂いがはっきり残っていた。

「……大丈夫?戻しちゃった?」

背中に手を当てると、ユイは小さく頷く。

「……きもち、わるい」

声はかすれているが、意識ははっきりしている。

鷹臣は水をコップに溜め、ユイの口をゆすがせた。
タオルで口元を拭く間、ユイは何度も瞬きをしていた。

「……今日は、行けそう?」

ユイの顔を覗き込むと、ユイは少し考えてからこくりと頷く。

「……うん。いく」

鷹臣は身支度をしてユイの手を取った。

――

Ω外来の待合室は、静かで人もまばらだった。

淡い色の椅子と消毒液の匂い。
待合の人々の視線は交わらない。

ユイは鷹臣の隣に座り、両手を膝の上に置いている。
指先がわずかに震えているのが分かる。

「……寒い?」

「ううん……」

カラーに指先を伸ばしては離し、そして触れる。
無意識の動きだった。

「白河さん、どうぞ」

名前を呼ばれ、立ち上がる。

「付き添いの方ですね、どうぞ」

診察室のドアが閉まる音は、思ったよりも小さかった。

ユイは椅子に座ると、背中をぴんと伸ばし、膝の上で両手を組んだ。

医師はカルテを確認しながら、視線を上げる。

「今日は、体調不良の相談ですね」

「……はい」

答えたのは鷹臣だった。

「では、順に聞きますね」

声は淡々としている。

「ここ最近、吐き気はありましたか?」

ユイは小さく頷く。

「……あさ」

「朝ですね。頻度は?」

「……きょうだけ」

「食欲は?」

「……ある、けど……」

言葉が途中で止まる。
医師は急かさず、少し待ってから続きを促した。

「食べられない日も、ありますか?」

「……ある」

カルテにペンが走る。

「最後にヒートがあったのは、いつ頃か覚えていますか?」

ユイの視線が、ふっと宙に浮く。

「……わからない」

それは曖昧さではなく、記憶を辿れない感じだった。
医師は頷き、質問を変える。

「性行為は、ありましたか?」

ユイは一瞬だけ鷹臣を見る。
確認するような視線。

鷹臣は何も言わず、ただ静かに頷いた。

「……ある」

「避妊は、していましたか?」

「……してる」

その答えに、医師は一度ペンを止めた。
少し間を置いて、声の調子を変えずに続ける。

「では、少し大切なことを聞きます」

その言葉に、空気が変わった。

「望まない接触は、ありましたか」

言いかけたところで、ユイの肩が強張る。

それに気づいた瞬間、鷹臣は反射的にユイの手を握っていた。

その様子を見て、医師は一瞬、複雑そうに眉を寄せた。
事情を、察した顔だった。

「……無理に答えなくても大丈夫です」

それでも、ユイは小さく息を吸った。

「……あった」

声は、ほとんど聞き取れないほどだった。
医師はゆっくり頷き、次の問いを重ねる。

「その際、サプリメントのようなものを飲まされましたか?」

ユイは少し考えてから、言葉を選ぶように口を開いた。

「……くすり……」

「どんな薬か、わかりますか?」

「……あかちゃんの……って……」

その言葉に、医師の手が止まる。

「“赤ちゃんの”と説明されましたか?」

ユイは、目に涙を溜めたまま、小さく頷いた。

「……のんだら……ヒート、くる……」

医師は静かに、しかしはっきりと聞き返した。

「それは、飲まされた、という理解でいいですか?」

ユイの唇が震える。

「……うん……」

その瞬間、鷹臣の中で血の気が引いた。

薬のことまでは、知らなかった。
触れられたこと、奪われたこと――それだけでも十分に重いのに。

“誘発剤”。

言葉が頭の中で形を持つ前に、嫌な現実だけが突き刺さる。
医師は深く息を吸い、カルテに大きく書き込んだ。

「……分かりました。大切な情報です。
無認可の、フェロモン誘発剤を飲まされた可能性があります」

声は、専門職としての冷静さを保っている。

「念のため検査をしましょう」

ユイはもう何も言えず、ただ鷹臣の手を握り返していた。

その小さな力が、どれだけ必死かを鷹臣は痛いほど感じていた。

――

「付き添いの方は、そのままこちらに」

医師に促され、鷹臣は一歩だけ近づいた。
ユイの視界に入る位置。手を伸ばせば触れられる距離。

ユイはすでに、ぼんやりと天井を見つめていた。
瞬きが少なく、呼吸も浅い。

「……今から、超音波の検査をします」

医師は淡々と説明を続ける。

「経腹では、まだ分かりにくい時期なので……今回は、直腸側から確認しますね」

言い換えれば、体の内側を直接見る検査だった。

「…失礼します」

その一言で、ユイの肩がわずかに跳ねた。
だが、抵抗する力はもう残っていない。

「ユイ、大丈夫。ここにいるよ」

鷹臣はそう言って、そっと手を差し出した。
ユイは一瞬迷ってから、その手を握った。

指先が冷たい。
力は弱く、縋るというより、存在を確かめるような握り方だった。

医師は潤滑剤をつけたプローブを手に取り、慎重に位置を確認する。

「……力、抜いてくださいね」

ユイは頷いたが、緊張で筋肉が硬くなっている。

「……っ」

触れた瞬間、ユイの喉から小さな音が漏れた。
痛みというより、侵入される感覚そのものへの反応だった。

視線が泳ぎ、焦点が合わない。

(やだ、やだ……)

言葉にはならない拒否が、身体の奥で渦巻く。

「……見えてきました」

医師の声が、少しだけ低くなる。

モニターに映る、ぼんやりとした影。
黒い円に近い形。

医師はすぐに言葉を選ぶように間を置いた。

「……胎嚢が、確認できます」

その瞬間、検査室の空気が、目に見えるほど重くなった。

誰も、すぐには言葉を続けなかった。

鷹臣の呼吸が、ほんの一拍遅れる。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。

(……やっぱり)

数ヶ月の生活。
避妊。
ヒートの時期。

計算するまでもない。

ユイも、理解してしまっていた。

説明されなくても、名前を出されなくても。

「……あ」

喉から、かすれた声が漏れる。

目に溜まった涙が、堪えきれず零れ落ちた。

「……やだ……」

声が震え、呼吸が乱れる。

「ユイ、落ち着いて。呼吸、ゆっくり」

鷹臣が声をかけるが、ユイの意識は急速に内側へ沈んでいく。

(あのとき…くすり……あっくん…)

罪悪感と恐怖と嫌悪が、一気に押し寄せた。

「……いらない……」

突然、ユイが身をよじり、空いた手で自分の腹を殴ろうとした。

「ユイ!!駄目だ」

鷹臣は反射的に身体を乗り出し、その腕を掴んだ。

「いや、いや、いらない!!」

強く、しかし必死な声。

「それは……ユイが悪いわけじゃない!!」

ユイの腕は、鷹臣の手の中で震えている。

「……だって……」

息が詰まり、言葉が続かない。
医師はすぐに検査を中断し、器具を外した。

「……今日は、ここまでにしましょう」

声には、医療者としての冷静さと、人としての苦さが混じっていた。

「命に、罪はありません」

静かに、はっきりと。

「今後の選択肢や、支援については……ユイさんの気持ちが落ち着いてから、一緒に考えましょう」

それは慰めではなく、現実だった。

ユイは泣き続けていた。
身体全体が小刻みに揺れている。

鷹臣は、ただユイを抱き寄せることしかできなかった。
きっとどんな言葉も、今は何も届かない。

白い検査室の中で、命の存在だけが、重く確かにそこにあった。

残酷なほど静かな時間が、二人の上を、ゆっくりと流れていった。
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