【完結】わるいこと

さか様

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忙しない日々が、少しだけ落ち着いた頃だった。

パン屋の中は、いつも通りの匂いがしていた。
焼きたての生地と、砂糖と、ほんのり焦げたバター。

ユイは作業台の前に立ち、生地を成形していた。
手は覚えている動き。
気になることと言えば頭が少しぼーっとするという点。

(……ちょっと、あつい)

そう思った次の瞬間、足元がぐらりと揺れた。
視界が、ふっと白くなる。

「……あ、」

声にならない音が喉から漏れて、そのままユイは床に倒れた。

――

目を覚ましたとき、目に映る天井は白く眩しかった。

消毒薬の匂いが鼻の奥でツンとして、まばたきをすると、光が滲む。

「……ユイ」

すぐそばで、名前を呼ばれた。

視線を向けると、鷹臣がいた。
椅子に座り、前屈みになって両手を組んでいる。

その顔を見ただけで、胸の奥が、いやな予感で満ちる。

「……たかおみ、さん」

声は、思ったより掠れていた。

「大丈夫だよ。ここ、病院」

鷹臣は、ゆっくり言葉を選んでいた。

「パン屋で倒れて……救急車で運ばれたんだ」

ユイは、ぼんやりと天井を見つめる。
下腹部に重たい痛みがあった。

「……あかちゃんは?」

その問いは確認というより、ただ、浮かんでしまった言葉だった。

鷹臣の返事は、少し遅れた。
でも、それで全部分かってしまう。

「……身体が、耐えられなかったって」

静かな声。

「先生が言ってた。
ユイの身体には、負担が大きすぎたって」

流産、という言葉は使わなかった。
それでも、意味は十分すぎるほど伝わる。

ユイは、しばらく何も言わなかった。

お腹に手を当てる。
鈍く痛むそこは、からっぽだった。

「……そっか」

小さな声。
ただ、事実を一生懸命に受け入れようとする。

「……だめだったんだ」

鷹臣は、何も言えなかった。
そっと握ったユイの手は小さく震えていた。

「……ごめんね」

ユイが、ぽつりと言った。

「かんがえようって……いってたのに」

その言葉が、鷹臣の胸を強く締めつける。

当たり前に続くと思っていた日常。
時間さえあれば、選べると思っていた未来。

「……俺が、」
 
そう口にした瞬間、それが責任でも答えでもないと分かって鷹臣は言葉を飲み込んだ。

後悔はどこを切り取っても、自己嫌悪とともに生まれてくる。
それを口にしても、何も戻らない。
ただ、ユイが悪いわけではないから、再び口を開く。

「……俺が、甘く、考えてた」

ユイは首を横に振った。

「ゆいね、だいじょうぶだとおもってた。
こわいけど……たかおみさんがゆるしてくれるならって、」

ベッドのシーツを、指で掴む。

「……でも、なくなっちゃった」

その瞬間、ユイの目から静かに涙がこぼれた。

鷹臣は、ユイの手を今度は力強く握り直した。

「……ユイ」

気の利いた言葉は出てこず、名前を呼ぶだけで精一杯だった。

「……ごめんね」

ユイは、同じ言葉をもう一度言った。
謝る相手が、誰なのかも分からないまま。

鷹臣は、そっとユイの手を握る。

「でも、ユイが悪いわけじゃない。誰も悪くない、」

ユイは、目を閉じたまま、首を振った。

「……わかんない」

正直な言葉だった。

「ゆい、ちゃんと……えらべなかったから」

それは、自分を責める言葉であり、戸惑いでもあった。

病室の外で、カートが静かに転がる音がする。
看護師の足音。
遠くのアナウンス。

世界は、また何事もなかったように動いている。

鷹臣は、ユイの額にそっと触れた。

「……今日は、休もう」

この痛みごと、一緒に抱える今日。
ユイは、ゆっくり頷いた。

「……いっしょに、いて」

その言葉だけが、今のユイに出せる精一杯の願いだった。

鷹臣は、迷わず答えた。

「いるよ」

その言葉だけが、二人の心を静かに繋ぎとめていた。
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