32 / 41
28
しおりを挟む
朝の光は、今までと同じようにカーテンの隙間から差し込んでいた。
しかし、部屋の空気は少し違う。
音が少ない。
鷹臣はダイニングテーブルにノートパソコンを広げ、イヤホンを片耳だけにつけていた。
在宅勤務に切り替えて、もう一週間になる。
画面には会議資料。
指は淡々とキーボードを叩いている。
――その空間で、ユイはソファに座っていた。
膝を抱え、静かに音の小さいテレビを見ていた。
「……たかおみさん、もうおわる?」
「うん。もうすぐ一段落だよ」
声を落として答えると、ユイは小さく頷いた。
それだけで会話は終わるが、そこにあるのは不安な沈黙ではなかった。
鷹臣は、視線を画面に戻しながらも、意識の端でユイの気配を追っている。
ソファのきしむ音。
指先がソファの縫い目をなぞる癖。
ときどき、息が少し浅くなる瞬間。
(……眠そう?)
声をかけるほどでもない。
でも、目を離すほどでもない。
仕事の合間、マグカップを持って立ち上がる。
キッチンで湯を足し、戻りしなにソファを覗いた。
「……ココア、のむ?」
「あとで……」
その返事が、以前より少し遅い。
鷹臣はわかったよと頷き、テーブルに戻る。
“気にしない”を選ぶのも、今は大事だった。
――
昼前。
ユイは着替えて、パン屋に行く準備をしていた。
エプロンを畳み、バッグに入れる手つきは慣れている。
送迎はある日ユイが断った。
一人で行けると真剣な目で言うユイの決断を、鷹臣は却下できなかった。
「いってきます」
「いってらっしゃい。無理しないで」
「……うん」
ドアが閉まる音を聞いてから、鷹臣は一度だけ深く息を吐いた。
(ちゃんと、やってる)
以前なら、こっそりとついていったかもしれない。
でも今は、“できること”を奪わないということを優先している。
仕事に戻ろうとして、ふとゴミ箱に捨てられたメモが目に入る。
『こまったら あっくん よぶ』
ユイが以前お守りにしていたメモは、赤ペンで塗りつぶされ、そこにあった。
「…ユイ。」
鷹臣は目隠しをするようにその上にコーヒーフィルターを捨てた。
――
夕方。
ユイが帰ってきたとき、靴を脱ぐ音が少し大きかった。
「……っただいま」
「おかえり」
鷹臣が立ち上がると、勢いのまま玄関を抜けるユイを抱きとめようとした。
無事に帰ってきたことが、嬉しかった。
しかし、ユイは一瞬だけ躊躇してから目を伏せた。
触れたい気持ちと、身体が先に引く感覚が、まだ噛み合わない。
その距離は、手を伸ばせば触れられるほどではあったが以前のように甘える素振りはなかった。
「……ぁ、パン。きょうはね、くるみ」
「いい匂いすると思った」
ユイは小さく笑う。
その笑顔は、どこか力を入れて作っているように見えた。
夕食の準備を並んで進める。
鍋のお湯が湧く音、包丁がまな板を叩く音、換気扇の低い唸り。
日常。
それなのに、ふとした拍子に、ユイの手が止まる。
「……たかおみさん」
「ん?」
「……さわって、いい?」
その問いは、ユイなりの確認だった。
鷹臣は一瞬迷ってから、ユイの手を取る。
自分の指とユイの指を絡めて自分の頬へつける。
「…こわくない?」
「うん……」
ユイは、それで十分だというように、目を閉じた。
手の温度。鼓動。
呼吸が揃う感覚。
寝床の位置はいつしかまた鷹臣の寝室に戻ったが、まだ同じベッドではなかった。
ベッドの隣に少し離して敷いた布団で、ユイは背を向けて眠る。
鷹臣は背中を見ながら、ベッドで一人横になった。
「おやすみ、ユイ」
「たかおみさん、おやすみなさい」
距離をとることが、置き去りにすることじゃないと、今は分かっている。
ユイの寝息が安定するまで目を閉じないことが、いつしか鷹臣の習慣となった。
――
パン屋の開店準備は、朝の光より少し早い。
オーブンの予熱音。
粉の匂い。
金属トレーが触れ合う乾いた音。
ユイはエプロンを付け、いつもの位置に立っていた。
手はちゃんと動く。
分量も、工程も、頭に入っている慣れた動きだった。
「ユイくん、今日は無理しないでね」
声をかけてきたのは、年上のワーカーだった。
柔らかい声。気を遣っているのが分かる距離感。
「……うん、だいじょうぶ」
ユイはそう答えて、少しだけ笑う。
けれど、そのあとも続く言葉。
「重いのは持たなくていいよ」
「今日は成形、少なめでいこうか」
「顔色、さっきより白くない?」
――次々と、優しい言葉が降ってくる。
(……もう、だいじょうぶなのに)
そう思っても、口には出さない。
一度、パン屋の床に倒れたこと。
救急車の音。
誰も、理由は知らない。
妊娠のことも、流産のことも。
それでも、「何かあった」ということはみんな察していた。
優しさは、ときに感情の出口を塞ぎ、苦しみを生むこともある。
ユイは生地を丸めながら、無意識に呼吸を整えた。
深く、ゆっくり。
(……ちゃんと、できる。だいじょうぶ)
指先に伝わる感触は、いつもと同じだ。
粉のざらつき。
温度。
発酵の匂い。
焼き上がりの時間が近づくと、オーブンの前に立つ。
「ユイくん、そこ危ないから」
言われて、一歩下がる。
(……あ、でもやっぱり…)
前なら、言われず任されていたことまで。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……ごめんなさい」
そう言うと、別の支援員が慌てて首を振った。
「違うの、責めてるわけじゃなくてね」
理由を聞くのは、分かっているから余計に苦しかった。
――
休憩時間。
ユイは紙コップの水を持って、隅の椅子に座る。
パンの甘い匂いが、今日は少し遠い。
「ねえ」
隣に座った同年代のΩの女性ワーカーが、声を落とした。
「……もう、気持ち悪くならない?
おなか。いたんだよね?」
一瞬、何のことか分からなくて、瞬きをする。
「……ならないよ」
「そっか」
それ以上は踏み込まれないが、表情でわかるものがある。
(わかるのかな…Ωだもんね)
「わたしもなったの。だから、ユイのことが心配だよ」
「うん、ありがとう。たいへんだったよね」
ユイは作り笑いをして水を飲み干した。
――
帰り際、紙袋を渡される。
「これ、今日の余り。持って帰っていいよ」
「……ありがとう」
袋の中には、クリームパンとあんパンが入っていた。
家までの道。
袋を抱えながら、ユイは歩く。
(たかおみさん、よろこぶかな。クリームかな、あんこかな…)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が、少しだけ軽くなる。
誰かに気を遣われる場所と、ただ「おかえり」と言われる場所。
その違いを、ユイはもう知っていた。
玄関を開けると、パソコンのキーを打つ音が止まる。
「おかえり」
「……ただいま」
ユイは袋を差し出した。
「クリームパンと、あんパンだよ」
鷹臣は一瞬目を丸くしてから、笑う。
「いいタイミングだな。ちょうど休憩しようと思ってた」
その言葉だけで、今日一日の重さが、少し溶ける。
パン屋で気を遣われたことも、自分がちゃんと立っていられたことも。
ユイは鷹臣の向かいに座り、息を吐いた。
(……だいじょうぶ)
そう思える瞬間が、確かに増えてきていた。
しかし、部屋の空気は少し違う。
音が少ない。
鷹臣はダイニングテーブルにノートパソコンを広げ、イヤホンを片耳だけにつけていた。
在宅勤務に切り替えて、もう一週間になる。
画面には会議資料。
指は淡々とキーボードを叩いている。
――その空間で、ユイはソファに座っていた。
膝を抱え、静かに音の小さいテレビを見ていた。
「……たかおみさん、もうおわる?」
「うん。もうすぐ一段落だよ」
声を落として答えると、ユイは小さく頷いた。
それだけで会話は終わるが、そこにあるのは不安な沈黙ではなかった。
鷹臣は、視線を画面に戻しながらも、意識の端でユイの気配を追っている。
ソファのきしむ音。
指先がソファの縫い目をなぞる癖。
ときどき、息が少し浅くなる瞬間。
(……眠そう?)
声をかけるほどでもない。
でも、目を離すほどでもない。
仕事の合間、マグカップを持って立ち上がる。
キッチンで湯を足し、戻りしなにソファを覗いた。
「……ココア、のむ?」
「あとで……」
その返事が、以前より少し遅い。
鷹臣はわかったよと頷き、テーブルに戻る。
“気にしない”を選ぶのも、今は大事だった。
――
昼前。
ユイは着替えて、パン屋に行く準備をしていた。
エプロンを畳み、バッグに入れる手つきは慣れている。
送迎はある日ユイが断った。
一人で行けると真剣な目で言うユイの決断を、鷹臣は却下できなかった。
「いってきます」
「いってらっしゃい。無理しないで」
「……うん」
ドアが閉まる音を聞いてから、鷹臣は一度だけ深く息を吐いた。
(ちゃんと、やってる)
以前なら、こっそりとついていったかもしれない。
でも今は、“できること”を奪わないということを優先している。
仕事に戻ろうとして、ふとゴミ箱に捨てられたメモが目に入る。
『こまったら あっくん よぶ』
ユイが以前お守りにしていたメモは、赤ペンで塗りつぶされ、そこにあった。
「…ユイ。」
鷹臣は目隠しをするようにその上にコーヒーフィルターを捨てた。
――
夕方。
ユイが帰ってきたとき、靴を脱ぐ音が少し大きかった。
「……っただいま」
「おかえり」
鷹臣が立ち上がると、勢いのまま玄関を抜けるユイを抱きとめようとした。
無事に帰ってきたことが、嬉しかった。
しかし、ユイは一瞬だけ躊躇してから目を伏せた。
触れたい気持ちと、身体が先に引く感覚が、まだ噛み合わない。
その距離は、手を伸ばせば触れられるほどではあったが以前のように甘える素振りはなかった。
「……ぁ、パン。きょうはね、くるみ」
「いい匂いすると思った」
ユイは小さく笑う。
その笑顔は、どこか力を入れて作っているように見えた。
夕食の準備を並んで進める。
鍋のお湯が湧く音、包丁がまな板を叩く音、換気扇の低い唸り。
日常。
それなのに、ふとした拍子に、ユイの手が止まる。
「……たかおみさん」
「ん?」
「……さわって、いい?」
その問いは、ユイなりの確認だった。
鷹臣は一瞬迷ってから、ユイの手を取る。
自分の指とユイの指を絡めて自分の頬へつける。
「…こわくない?」
「うん……」
ユイは、それで十分だというように、目を閉じた。
手の温度。鼓動。
呼吸が揃う感覚。
寝床の位置はいつしかまた鷹臣の寝室に戻ったが、まだ同じベッドではなかった。
ベッドの隣に少し離して敷いた布団で、ユイは背を向けて眠る。
鷹臣は背中を見ながら、ベッドで一人横になった。
「おやすみ、ユイ」
「たかおみさん、おやすみなさい」
距離をとることが、置き去りにすることじゃないと、今は分かっている。
ユイの寝息が安定するまで目を閉じないことが、いつしか鷹臣の習慣となった。
――
パン屋の開店準備は、朝の光より少し早い。
オーブンの予熱音。
粉の匂い。
金属トレーが触れ合う乾いた音。
ユイはエプロンを付け、いつもの位置に立っていた。
手はちゃんと動く。
分量も、工程も、頭に入っている慣れた動きだった。
「ユイくん、今日は無理しないでね」
声をかけてきたのは、年上のワーカーだった。
柔らかい声。気を遣っているのが分かる距離感。
「……うん、だいじょうぶ」
ユイはそう答えて、少しだけ笑う。
けれど、そのあとも続く言葉。
「重いのは持たなくていいよ」
「今日は成形、少なめでいこうか」
「顔色、さっきより白くない?」
――次々と、優しい言葉が降ってくる。
(……もう、だいじょうぶなのに)
そう思っても、口には出さない。
一度、パン屋の床に倒れたこと。
救急車の音。
誰も、理由は知らない。
妊娠のことも、流産のことも。
それでも、「何かあった」ということはみんな察していた。
優しさは、ときに感情の出口を塞ぎ、苦しみを生むこともある。
ユイは生地を丸めながら、無意識に呼吸を整えた。
深く、ゆっくり。
(……ちゃんと、できる。だいじょうぶ)
指先に伝わる感触は、いつもと同じだ。
粉のざらつき。
温度。
発酵の匂い。
焼き上がりの時間が近づくと、オーブンの前に立つ。
「ユイくん、そこ危ないから」
言われて、一歩下がる。
(……あ、でもやっぱり…)
前なら、言われず任されていたことまで。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……ごめんなさい」
そう言うと、別の支援員が慌てて首を振った。
「違うの、責めてるわけじゃなくてね」
理由を聞くのは、分かっているから余計に苦しかった。
――
休憩時間。
ユイは紙コップの水を持って、隅の椅子に座る。
パンの甘い匂いが、今日は少し遠い。
「ねえ」
隣に座った同年代のΩの女性ワーカーが、声を落とした。
「……もう、気持ち悪くならない?
おなか。いたんだよね?」
一瞬、何のことか分からなくて、瞬きをする。
「……ならないよ」
「そっか」
それ以上は踏み込まれないが、表情でわかるものがある。
(わかるのかな…Ωだもんね)
「わたしもなったの。だから、ユイのことが心配だよ」
「うん、ありがとう。たいへんだったよね」
ユイは作り笑いをして水を飲み干した。
――
帰り際、紙袋を渡される。
「これ、今日の余り。持って帰っていいよ」
「……ありがとう」
袋の中には、クリームパンとあんパンが入っていた。
家までの道。
袋を抱えながら、ユイは歩く。
(たかおみさん、よろこぶかな。クリームかな、あんこかな…)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が、少しだけ軽くなる。
誰かに気を遣われる場所と、ただ「おかえり」と言われる場所。
その違いを、ユイはもう知っていた。
玄関を開けると、パソコンのキーを打つ音が止まる。
「おかえり」
「……ただいま」
ユイは袋を差し出した。
「クリームパンと、あんパンだよ」
鷹臣は一瞬目を丸くしてから、笑う。
「いいタイミングだな。ちょうど休憩しようと思ってた」
その言葉だけで、今日一日の重さが、少し溶ける。
パン屋で気を遣われたことも、自分がちゃんと立っていられたことも。
ユイは鷹臣の向かいに座り、息を吐いた。
(……だいじょうぶ)
そう思える瞬間が、確かに増えてきていた。
20
あなたにおすすめの小説
寂しいを分け与えた
こじらせた処女
BL
いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
さかなのみるゆめ
ruki
BL
発情期時の事故で子供を産むことが出来なくなったオメガの佐奈はその時のアルファの相手、智明と一緒に暮らすことになった。常に優しくて穏やかな智明のことを好きになってしまった佐奈は、その時初めて智明が自分を好きではないことに気づく。佐奈の身体を傷つけてしまった責任を取るために一緒にいる智明の優しさに佐奈はいつしか苦しみを覚えていく。
上手に啼いて
紺色橙
BL
■聡は10歳の初めての発情期の際、大輝に噛まれ番となった。それ以来関係を継続しているが、愛ではなく都合と情で続いている現状はそろそろ終わりが見えていた。
■注意*独自オメガバース設定。■『それは愛か本能か』と同じ世界設定です。関係は一切なし。
当たり前の幸せ
ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。
初投稿なので色々矛盾などご容赦を。
ゆっくり更新します。
すみません名前変えました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる