【完結】わるいこと

さか様

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何度目かの季節が巡り、桜はもう散っていた。

枝先の緑はすっかり濃くなり、風の中には、春の名残のような甘い匂いがわずかに残っている。

午後遅くの道は、どこか緩やかで、車の音も人の声も急いでいない。

保育園の迎えの時間を少し過ぎた頃、ユイは門の前で立ち止まる。

掲示板の端に貼られた色あせたお知らせを眺めながら、靴先で地面を軽くこすった。

「……あゆくん」

そう言った直後、小さな影――あゆむが視界に飛び込んでくる。

「まま!」

胸にぶつかるような勢いで抱きつかれ、ユイは一歩よろけた。
反射的に腕を伸ばし、受け止める。

「……あぶない」

「ごめん」

そう言いながら、歩はもう笑っている。
息が少し上がって、頬が赤い。

四歳。
背はまだ低いが、目線は落ち着いていて、言葉の選び方も妙にしっかりしている。
眉の形と、何かを確かめるような視線は、鷹臣によく似ていた。

「かえろっか」

ユイが言うと、歩は即座に頷く。

「うん。て、つなぐ」

小さな手が、迷いなく差し出される。
ユイはそれを取り、指を絡める。

歩き出すと、自然と歩幅は揃った。
毎日通る、変わらない帰り道。

就労支援施設――パン屋での仕事を終えたばかりで、
ユイの服には、焼き上がった生地の匂いがまだ残っている。

今日は忙しかった。
注文も多く、途中で手順を間違えかけた。
それでも、最後まで仕事ができた。

公園の脇を通りかかったとき、視界を横切るものがあった。

「……あ」

ユイの声が、少しだけ弾む。

白い蝶が、低い位置をふわりと飛んでいる。
花壇の上を旋回し、遊具の影へ向かっていく。

ユイの足が、無意識にそちらへ向きかけた。
ほんの半歩だけ。

その瞬間、手を引く力がきゅっと強くなる。

「だめだよ、いま、行かないよ」

しっかりとした歩の声。
鷹臣の声に聞こえた気がして、ユイは驚いて足を止める。

「……え?」

歩はユイを見上げ、少しだけ眉を寄せる。
理由を分かっているように、前を指さす。

「だって、パパ、あっちで待ってるよ」

ユイは、その先を見る。
まだ姿は見えないか、思い出した。

「……あ、そうだった」

少し考えてから、ユイは笑った。

「じゃあ、ちょっとだけ。ここで、みていい?」

「うん、それならいいよ」

二人は並んで立ち、蝶を目で追う。
蝶は風に乗り、ゆっくりと遠ざかっていった。

追おうと思えば、追えた。
昔なら、追っていただろう。

でも、ユイは動かなかった。

「いっちゃったねぇ」

代わりに、歩の手をぎゅっと握る。
そのとき。

「あー、ここにいたか」

聞き慣れた声がした。

振り向くと、鷹臣が立っていた。
仕事帰りの服装で、ネクタイを少し緩めて微笑む。

「……たかおみさん」

ユイの声が、自然に柔らぐ。
鷹臣は二人の前で立ち止まり、歩の頭に手を置いた。

「待たせちゃった?」

「ううん」

歩は首を振る。

「ままとね、ちょうちょ、見てたの」

「ん、そうか」

鷹臣はそう言ってから、ユイを一度だけ見て、静かに笑った。

「ユイ。今日はパン屋さん、どうだった?」

「……ふふ、ちゃんとできたよ」

「そっか。歩も、保育園がんばった?」

「うん、いっぱい遊んできた!」

笑い合いながら、三人で歩き出す夕暮れの道。
長く伸びた影が、横並びにくっついては離れる。

ユイは歩きながら、ぽつりと言った。

「……ね。みんな、いいひだったね」

「……そうだな」

鷹臣は少し間を置いて、答える。
歩は一度だけ頷いて、握った手を少し強くする。

「うん。こうやってみんな一緒にさ、歩いてるね」

その言葉に、ユイは一瞬きょとんとしてから、ふふっと笑った。

「ねー!」

鷹臣はそのやりとりを黙って見ながら、微笑む。

なんでも同じじゃなくていい。
一緒にいる場所があることを、ユイはもう知っていた。

「はい、」

夕焼けに照らされたユイが微笑みながら鷹臣へ手を伸ばす。

「たかおみさんも、て、つなご?」

鷹臣は小さな手を握るユイの姿を愛おしげに見つめながら、ユイの手を取った。

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