【完結】わるいこと

さか様

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病院の窓から差し込む光は、もう春の色をしていた。
桜の季節は過ぎたはずなのに、廊下にはまだ柔らかい明るさが残っている。

診察室の前で、二人は並んで座っていた。

ユイはベンチに座り、足をぶらぶらさせている。
鷹臣の隣で、特に緊張した様子もなく、手元の紙を指でなぞっていた。

「……あ、はじっこやぶれてる」

小さな声で、確認するように言う。

「手、切らないでね」

鷹臣は短く答えた。
視線は前に向けたままだ。

同じ場所、同じ流れ。

それなのに、胸の奥だけが、妙に落ち着かなかった。

呼ばれるまでの時間は、長くも短くもない。
ただ、待つという行為だけが、静かに積み重なっていく。

「ユイさん」

優しい呼びかけに、ユイは顔を上げて素直に返事をする。

「はーい」

立ち上がるとき、確認するような仕草で鷹臣の袖を軽く引いた。

診察室に入ると、白いカーテンが静かに揺れていた。
窓はないはずなのに、どこか外の光を思わせる明るさがある。

機械の低い駆動音。
消毒薬の匂い。
何度も来た場所なのに、今日は少しだけ空気が違う。

ユイはベッドに腰掛け、診察の準備をする。
鷹臣はその隣の椅子に座り、膝の上で両手を組んだまま、動けずにいた。

医師の声は、いつも通り落ち着いていた。

「じゃあ、見ていきましょうか」

画面が切り替わる。
白と黒の粒が揺れ、輪郭の定まらない影が映し出される。

一瞬、それが何なのか分からない。
でも、確かに“そこにある”ものとして浮かび上がってくる。

医師は軽く頷き、穏やかに告げた。

「……確認できましたね」

ほんのわずかな間を置いて、続ける。

「妊娠しています。おめでとうございます」

声は静かで、余計な感情を乗せていない。
それが、かえって現実味を持って胸に落ちてきた。

ユイは画面を見つめたまま、少し首を傾げる。

「……ちいさい」

驚きでも、不安でもない。
目に入ったままの大きさを、そのまま受け取った声だった。

医師が操作を続け、画面が少し拡大される。

「今は、まだこのくらいですね」

その直後、別のボタンが押された。

――とく、とく、とく。

微かだけれど、はっきりした音。

規則正しく、途切れずに続く早い鼓動。
鷹臣の胸が、ぎゅっと締まった。

(……生きてる)

頭で考えるより先に、身体が理解してしまう。
避けようとしていた未来が、もう“結果”としてここにある。

欲。
選択。
合意。

それらが、この音に結びついている。

「……っ」

気づいたときには、視界が滲んでいた。
涙は音もなく落ち、頬を伝う。

ユイがそれに気づく。
椅子から少し身を乗り出し、鷹臣の顔を覗き込む。

「……たかおみさん?」

不思議そうな声。

「どこか、いたい?」

本気で心配している調子だった。
少し考えてから、くすっと笑う。

「たかおみさんも、あかちゃんみたい」

その言葉に、鷹臣の肩がわずかに揺れた。

「……ごめん。泣くつもり、なかったんだけど」


かすれた声でようやく言うと、ユイは首を横に振った。

「だいじょうぶだよ。ゆい、ここにいるし」

ユイは、ふうっと短く息を吐く。
それから、もう一度だけ言った。

「……たかおみさんと、ほしかった。
だから、だいじょうぶだからね」

その瞬間、鷹臣の中で、重なっていたものがすっとほどけた。

これは、奪った結果じゃない。
逃げた末の偶然でもない。

選ばれて、ここに来た。
その事実だけが、静かに残る。

医師は二人の様子を遮らず、必要な説明を淡々と続ける。

通院のこと。
身体の変化。
これからの注意点。

その一つ一つを聞きながら、鷹臣は深く息を吸った。
自分の中で、初めてはっきりと形になった感覚だった。

診察室を出ると、廊下の空気は少しだけ軽い。

ユイは歩きながら、唐突に言う。

「ねえ、たかおみさん」

「ん?」

「……パン、かってかえろ。おっきいやつ。ゆい、あかちゃんのぶんもたーくさんたべるから!」

鷹臣は小さく笑い、頷いた。

「そうだな」

二人は並んで歩く。
同じ速さで同じ床を踏みしめながら、小さな鼓動を、胸の奥に残したまま。

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