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融氷
家族
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夕方、下りの電車。
季節は過ぎ、窓の外は金色の光に包まれて、稲穂の波が風に揺れていた。
「……ちょっと、本気なの?!」
座席に腰を落とすハルが小声で陸に詰め寄る。
「何がだ」
陸は当たり前のようにスマホで時刻表を確認している。
その落ち着きように、余計に心臓が跳ねる。
「なにがだ、じゃないわよ!あなたの実家に、私を連れて帰るだなんて……!」
「だって付き合ってるだろう?」
真面目な顔で、あっけらかんと言う。
「そ、それは……そうだけど!普通、もっとこう……心の準備とか…その、心の準備とか!!あるでしょう?!」
「準備なら、もうできてる。心配ない」
何の迷いもなく言い切られて、ハルは一瞬言葉を失った。
(……強引なのに嫌じゃないのよね…)
窓の外に視線を逸らす。
胸の奥にひんやりとした不安が広がっていく。
(……私、受け入れられるの?家族に紹介なんて……そんな資格、あるのかしら)
頭の片隅で過去の傷が疼く。
スポンサーの視線、冷たい言葉、商品みたいに扱われた日々。
「……」
窓に映った自分の横顔がひどく弱々しく見えて、ハルは唇を噛んだ。
――
ガチャ
「帰った」
玄関ドアを開け、陸はぶっきらぼうな挨拶をする。
鼻をくすぐる魚の焼けた香ばしい匂いや出汁の香りが心に沁み渡る。
すぐに温かい声が飛んできた。
「まぁ!ハルさん、よく来てくれたわねぇ…ゆめが色々いつもお話してくれるのよ。本物も、とても美人さんね!」
エプロン姿の陸の母が笑顔で立っていた。
その表情は柔らかくて、口元が陸に似ている。
「……は、初めまして。ありがとうございます、お邪魔します」
自然と背筋が伸びた。
しかし母はまるで旧知の友人を迎えるように肩に触れて、すっと中に招き入れてくれた。
「さぁさぁ、荷物はそこに置いて。遠慮なんかしないでね」
リビングに入ると、ちゃぶ台の上には湯気を立てる味噌汁と美味しそうに焼けた魚、ほくほくの煮物。
氷の入った麦茶のグラスが並べられ、カラン、と音を立てた。
ハルはその音に目を奪われた。
(……氷……私の胸の奥にも、こんな氷がずっと残っている気がする)
「わぁ…またハルだぁ…こんばんわ……きれい…ううう…本物のハルが家にいるよぉ~~ねぇお母さん!!!どうしよう!!!」
以前街出会ったときとはまた雰囲気の違うゆめが捲し立てる。
あらあら、と微笑む母の後ろに隠れて地団駄を踏んだ。
その姿はどこにでもいるあどけない女の子そのものだった。
陸の父も当たり前のように「いらっしゃい、楽にして」と笑って迎える。
その普通さが、かえってハルの緊張を煽った。
「どうぞ、召し上がって。好き嫌いはない?」
「……はい、ありがとうございます。美味しそうです!いただきます」
ハルは姿勢を正し、手を合わせた。
――
ちゃぶ台を囲んでの夕飯は、賑やかで温かかった。
母の作った味噌汁と煮物に、父が食べさせたいと自分で釣って焼いた魚。
どれも美味しく、幼い頃からどこかで求めていた安らぎがそこにはあった。
陸は相変わらず黙々と食べているが、その姿を見守る家族に安心感が滲む。
「お兄ちゃんは昔からこうなの。黙って食べて、黙って練習行って、また食べて寝るの。ゆめはご飯のときたくさん喋って怒られるけど!」
からりと笑ったのは妹のゆめだった。
改めて性格も見た目も、陸とは本当に似ていないのが可笑しくて、ハルは思わず微笑んだ。
「本当、正反対ね」
「でしょ?よく言われる!」
ゆめは得意げに胸を張る。
「あとで私のハルグッズにサインほしいんだけど、お願いしてもいい~?」
「ふふ、もちろんよ」
ゆめの名前も書いてほしい、タゴンムヨウ!とゆめは瞳を輝かせ喜んだ。
――
食後、ちゃぶ台の上には氷のグラスだけが残っていた。
カラン、と再び氷が溶けて鳴る。
その透明な響きが、ハルの胸の奥でまだ凍りついている何かを揺さぶった。
空気を割くように陸が真剣な声で言う。
「……言いたいことがある」
家族の視線が集まる中、陸は一拍置いて続けた。
「俺たちは付き合ってる。」
そしてそのまま続けた。
「大学を出たら一緒に暮らそうと考えている。パートナーシップ制度も申請したい。俺は、ずっとハルと一緒にいたい」
真っ直ぐと射抜くように。陸はいつもそうだった。
初めて耳にした自分との未来図に、ハルの心臓が跳ねた。
(……私と陸の、未来…)
嬉しさと同時に、背後から冷たいものが忍び寄る。
過去に自分がしてきたこと、舐め回すようなスポンサーの視線、体を売ってきた日々。
それは逃げても逃げても追いかけてくる影のようで。
今この場からも引きずり戻そうと、背中に爪を立ててくる。息が詰まった。
でも、ここで自分もしっかり伝えなければ後悔すると思った。
言えないことのほうが多いかもしれない。でも、自分のことだけでも、はっきりと。
ハルは両手をぎゅっと握りしめて、前を向いた。声は震えているが、その瞳は今と未来を映す。
「私からも伝えさせていただきたいことがあります」
覚悟を決める。
「……私は、トランスジェンダーです。この言葉は聞いたことがあるかもしれません。見ての通り体は男性です。でも…心は女性です。そして恋愛対象は男性です。」
(ここからは、陸にも伝えてないけど…)
ふぅ、詰まったと息を吐きハルは続ける。
「なので、ゆくゆくは性適合手術を考えていました。……でも、陸さんと一緒に過ごす中で、たくさんの返しきれないほどの優しさをもらいました。中身と見た目は違う、でも、今、私の心は、このままの姿で陸さんと生きていきたい、そう思ってます…」
(そう、これが私…。私も陸と未来を、生きたい…)
沈黙が落ちる。
途端、ハルの視界がぐらりと揺れ、世界が遠ざかる。こんなことをわざわざ口に出して困らせるのだろうか。
過去が、黒い影が心臓を掴み、ハルの口をこじ開け言葉を引きずり出した。
「……でも、私なんかが…」
影に引きずり込まれるように小さく呟いた瞬間、
「なんかじゃないよ、ハルだからだよ!」
ゆめの声が弾けた。
まっすぐなあどけない瞳には確信が宿っている。
「そういうハルだから!
お兄ちゃんは、ハルの全部が大好きなの!
私には想像もつかないくらい大変なことがいっぱいあったかもしれないけど……
でもこれだけはわかる!
ハルがハルとして生きてるから、今こうしてお兄ちゃんは隣にいるんだよ!
お兄ちゃんだけじゃない、好きの形は違うけど、ゆめも、ほかのハルファンのみんなも、まだゆめは会ったことないけどハルのお友達も!みんなハルだから大好きなの!!
ハル、言ってたよね?"世界はひとつじゃなくて人の数だけあるのよ"って。
じゃあそれって、お兄ちゃんとハルが一緒に生きていく世界もあるってことじゃん!」
ハルの胸の奥で、氷の塊が割れる。
『世界はひとつじゃなくて人の数だけある』
それはいつかの自分がインタビューで発した言葉だった。
母がそっとお茶を置き、柔らかく笑う。
「……ゆめの言うとおりね。ハルさんの中では、とても複雑な思いを抱えて生きてきて、本当に大変だったでしょう?
それだけじゃなくて陸は頑固で気難しいところがあるから……ハルさんのこと、困らせてない?」
父も頷いて、低く言った。
「……ハルさんにどんな背景があっても、こうして一緒に食べるご飯が美味しくて、過ごす時間が楽しいことは変わらない。違うかい?」
その言葉に包まれ、背後から追い立ててきた影が、すっと消えていく。
ハルは、初めて家族のあたたかさを感じた。
「……ありがとう、ございます…」
堰を切ったように涙が頬を伝った。
それは、氷が完全に溶けたあとに残る一番澄んだ雫のようで。
この世界で一番綺麗な涙だった。
――
場がやわらぎ、デザートのアイスが運ばれてきた頃、ゆめがはしゃぎながら立ち上がる。
「ハル!バニラと抹茶どっち食べる!?ねぇお兄ちゃんも!」
陸は照れ隠しに小さく咳払いして一言。
「……ゆめ。“さん”をつけろ、年上には敬語を使え」
「あらいいのよ、陸だって、年上の私にタメ口じゃないの」
ねー!とハルとゆめは言い合い、また笑い声が弾ける。
それを微笑ましく見ていた陸と視線がぶつかる。
「な、心配するなって言っただろう?」
ハルは微笑み頷いた。
季節は過ぎ、窓の外は金色の光に包まれて、稲穂の波が風に揺れていた。
「……ちょっと、本気なの?!」
座席に腰を落とすハルが小声で陸に詰め寄る。
「何がだ」
陸は当たり前のようにスマホで時刻表を確認している。
その落ち着きように、余計に心臓が跳ねる。
「なにがだ、じゃないわよ!あなたの実家に、私を連れて帰るだなんて……!」
「だって付き合ってるだろう?」
真面目な顔で、あっけらかんと言う。
「そ、それは……そうだけど!普通、もっとこう……心の準備とか…その、心の準備とか!!あるでしょう?!」
「準備なら、もうできてる。心配ない」
何の迷いもなく言い切られて、ハルは一瞬言葉を失った。
(……強引なのに嫌じゃないのよね…)
窓の外に視線を逸らす。
胸の奥にひんやりとした不安が広がっていく。
(……私、受け入れられるの?家族に紹介なんて……そんな資格、あるのかしら)
頭の片隅で過去の傷が疼く。
スポンサーの視線、冷たい言葉、商品みたいに扱われた日々。
「……」
窓に映った自分の横顔がひどく弱々しく見えて、ハルは唇を噛んだ。
――
ガチャ
「帰った」
玄関ドアを開け、陸はぶっきらぼうな挨拶をする。
鼻をくすぐる魚の焼けた香ばしい匂いや出汁の香りが心に沁み渡る。
すぐに温かい声が飛んできた。
「まぁ!ハルさん、よく来てくれたわねぇ…ゆめが色々いつもお話してくれるのよ。本物も、とても美人さんね!」
エプロン姿の陸の母が笑顔で立っていた。
その表情は柔らかくて、口元が陸に似ている。
「……は、初めまして。ありがとうございます、お邪魔します」
自然と背筋が伸びた。
しかし母はまるで旧知の友人を迎えるように肩に触れて、すっと中に招き入れてくれた。
「さぁさぁ、荷物はそこに置いて。遠慮なんかしないでね」
リビングに入ると、ちゃぶ台の上には湯気を立てる味噌汁と美味しそうに焼けた魚、ほくほくの煮物。
氷の入った麦茶のグラスが並べられ、カラン、と音を立てた。
ハルはその音に目を奪われた。
(……氷……私の胸の奥にも、こんな氷がずっと残っている気がする)
「わぁ…またハルだぁ…こんばんわ……きれい…ううう…本物のハルが家にいるよぉ~~ねぇお母さん!!!どうしよう!!!」
以前街出会ったときとはまた雰囲気の違うゆめが捲し立てる。
あらあら、と微笑む母の後ろに隠れて地団駄を踏んだ。
その姿はどこにでもいるあどけない女の子そのものだった。
陸の父も当たり前のように「いらっしゃい、楽にして」と笑って迎える。
その普通さが、かえってハルの緊張を煽った。
「どうぞ、召し上がって。好き嫌いはない?」
「……はい、ありがとうございます。美味しそうです!いただきます」
ハルは姿勢を正し、手を合わせた。
――
ちゃぶ台を囲んでの夕飯は、賑やかで温かかった。
母の作った味噌汁と煮物に、父が食べさせたいと自分で釣って焼いた魚。
どれも美味しく、幼い頃からどこかで求めていた安らぎがそこにはあった。
陸は相変わらず黙々と食べているが、その姿を見守る家族に安心感が滲む。
「お兄ちゃんは昔からこうなの。黙って食べて、黙って練習行って、また食べて寝るの。ゆめはご飯のときたくさん喋って怒られるけど!」
からりと笑ったのは妹のゆめだった。
改めて性格も見た目も、陸とは本当に似ていないのが可笑しくて、ハルは思わず微笑んだ。
「本当、正反対ね」
「でしょ?よく言われる!」
ゆめは得意げに胸を張る。
「あとで私のハルグッズにサインほしいんだけど、お願いしてもいい~?」
「ふふ、もちろんよ」
ゆめの名前も書いてほしい、タゴンムヨウ!とゆめは瞳を輝かせ喜んだ。
――
食後、ちゃぶ台の上には氷のグラスだけが残っていた。
カラン、と再び氷が溶けて鳴る。
その透明な響きが、ハルの胸の奥でまだ凍りついている何かを揺さぶった。
空気を割くように陸が真剣な声で言う。
「……言いたいことがある」
家族の視線が集まる中、陸は一拍置いて続けた。
「俺たちは付き合ってる。」
そしてそのまま続けた。
「大学を出たら一緒に暮らそうと考えている。パートナーシップ制度も申請したい。俺は、ずっとハルと一緒にいたい」
真っ直ぐと射抜くように。陸はいつもそうだった。
初めて耳にした自分との未来図に、ハルの心臓が跳ねた。
(……私と陸の、未来…)
嬉しさと同時に、背後から冷たいものが忍び寄る。
過去に自分がしてきたこと、舐め回すようなスポンサーの視線、体を売ってきた日々。
それは逃げても逃げても追いかけてくる影のようで。
今この場からも引きずり戻そうと、背中に爪を立ててくる。息が詰まった。
でも、ここで自分もしっかり伝えなければ後悔すると思った。
言えないことのほうが多いかもしれない。でも、自分のことだけでも、はっきりと。
ハルは両手をぎゅっと握りしめて、前を向いた。声は震えているが、その瞳は今と未来を映す。
「私からも伝えさせていただきたいことがあります」
覚悟を決める。
「……私は、トランスジェンダーです。この言葉は聞いたことがあるかもしれません。見ての通り体は男性です。でも…心は女性です。そして恋愛対象は男性です。」
(ここからは、陸にも伝えてないけど…)
ふぅ、詰まったと息を吐きハルは続ける。
「なので、ゆくゆくは性適合手術を考えていました。……でも、陸さんと一緒に過ごす中で、たくさんの返しきれないほどの優しさをもらいました。中身と見た目は違う、でも、今、私の心は、このままの姿で陸さんと生きていきたい、そう思ってます…」
(そう、これが私…。私も陸と未来を、生きたい…)
沈黙が落ちる。
途端、ハルの視界がぐらりと揺れ、世界が遠ざかる。こんなことをわざわざ口に出して困らせるのだろうか。
過去が、黒い影が心臓を掴み、ハルの口をこじ開け言葉を引きずり出した。
「……でも、私なんかが…」
影に引きずり込まれるように小さく呟いた瞬間、
「なんかじゃないよ、ハルだからだよ!」
ゆめの声が弾けた。
まっすぐなあどけない瞳には確信が宿っている。
「そういうハルだから!
お兄ちゃんは、ハルの全部が大好きなの!
私には想像もつかないくらい大変なことがいっぱいあったかもしれないけど……
でもこれだけはわかる!
ハルがハルとして生きてるから、今こうしてお兄ちゃんは隣にいるんだよ!
お兄ちゃんだけじゃない、好きの形は違うけど、ゆめも、ほかのハルファンのみんなも、まだゆめは会ったことないけどハルのお友達も!みんなハルだから大好きなの!!
ハル、言ってたよね?"世界はひとつじゃなくて人の数だけあるのよ"って。
じゃあそれって、お兄ちゃんとハルが一緒に生きていく世界もあるってことじゃん!」
ハルの胸の奥で、氷の塊が割れる。
『世界はひとつじゃなくて人の数だけある』
それはいつかの自分がインタビューで発した言葉だった。
母がそっとお茶を置き、柔らかく笑う。
「……ゆめの言うとおりね。ハルさんの中では、とても複雑な思いを抱えて生きてきて、本当に大変だったでしょう?
それだけじゃなくて陸は頑固で気難しいところがあるから……ハルさんのこと、困らせてない?」
父も頷いて、低く言った。
「……ハルさんにどんな背景があっても、こうして一緒に食べるご飯が美味しくて、過ごす時間が楽しいことは変わらない。違うかい?」
その言葉に包まれ、背後から追い立ててきた影が、すっと消えていく。
ハルは、初めて家族のあたたかさを感じた。
「……ありがとう、ございます…」
堰を切ったように涙が頬を伝った。
それは、氷が完全に溶けたあとに残る一番澄んだ雫のようで。
この世界で一番綺麗な涙だった。
――
場がやわらぎ、デザートのアイスが運ばれてきた頃、ゆめがはしゃぎながら立ち上がる。
「ハル!バニラと抹茶どっち食べる!?ねぇお兄ちゃんも!」
陸は照れ隠しに小さく咳払いして一言。
「……ゆめ。“さん”をつけろ、年上には敬語を使え」
「あらいいのよ、陸だって、年上の私にタメ口じゃないの」
ねー!とハルとゆめは言い合い、また笑い声が弾ける。
それを微笑ましく見ていた陸と視線がぶつかる。
「な、心配するなって言っただろう?」
ハルは微笑み頷いた。
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