【完結】獣王

さか様

文字の大きさ
25 / 50

24

しおりを挟む
森は、逃げる者に優しくない。

それでも、夜明け前の空気だけは、まだ味方だった。
湿り気を含んだ土の匂い。踏み荒らされていない草。
人の足跡は薄く、獣の気配のほうが濃い。

「……こっち」

エリアスが息を切らしながら言う。
無理をしているのは明らかだが、足は止めない。

ガレンは、その半歩後ろを覆うように進んでいた。
視線は前に、意識は背後に張りついている。

――見られている。

まだ姿はない。だが、いる。

「……来ている」

低く呟くと、エリアスは振り返らずに頷いた。

「……1人かな…」

その頃、狐の獣人は、風下の影に身を潜めていた。

(……人間、か)

初めて、はっきりと見る。

背は高くない。
細い。
骨格も、獣人基準では脆そうだ。

だが、ただの弱者ではない。

逃げながら、振り返らない。
足取りは重いのに、判断が早い。
何より――

熊のすぐそばにいることを、当然の顔で受け入れている。

(……なるほど)

狐は、心の中で笑った。

(よく見ると、可愛らしいな)

人間にしては、表情が柔らかい。
怯えよりも、覚悟が先に出る顔だ。

(あっちも、お盛んってことか)

下卑た考えが、自然に浮かぶ。
ガレンの濃い匂いが絡みついている理由も、容易に想像がついた。

(誑かされるわけだ)

だが、それだけではない。

守られているという前提で、そこにいる。
自分の立ち位置を、最初から理解している。

(……人間のくせに、位置取りがうまい)

弱さを武器にする人間は、何人も見てきた。
だが、これは違う。

(ガレンが選ぶはずだ。守りたいよな)

狐の口元が、歪む。

(だからこそ、危ない)

――逃がせば、物語になる。

追う側は、慎重だった。

狐は単独で動く。
集団は呼ばない。
必要なのは、確信だけだ。

森の奥、風下へ回る。
足取りは軽い。

(……やっぱりだ)

ふと、狐は立ち止まった。

「……はは」

思わず、笑いが漏れる。

「逃げたな。やっぱり」

その瞬間、確信は完成した。

――地面が、鳴った。

低く、腹に響く音。
木々がざわめく。

狐が身を翻すより早く、影が前に落ちた。

「……それ以上、近づくな」

声は、もう半ば人のものではない。

半身が熊。
爪が地面を抉る。
だが、目には理性が残っている。

ガレンだった。

狐は、一瞬だけ息を呑む。

(……早い)

だが視線は、すぐにその背後へ滑る。

――人間。

青い顔。
だが、逃げ腰ではない。

狐は、にやりと笑った。

(……用は、済んだ)

「なあ、ガレン」

わざと軽く言う。

「逃げるってことはさ――
やっぱり、そいつ、特別なんだろ?」

次の瞬間、地面が爆ぜた。

熊の腕が振り抜かれ、
狐の身体は木へと叩きつけられる。

殺しではない。
だが、容赦もない。

「……それ以上、言うな」

唸り声が混じる。

「これは、俺の問題だ」

狐は、咳き込みながらも笑った。
血の混じる息が、地面に落ちる。

「はは……そう言うと思った」

歪んだ顔で、続ける。

「でもな、もう遅い。
村は……止まらねえ」

その言葉が、ガレンの背中に、決定的な重さを落とした。

――守るためなら、獣になる。

そう決めたのは、自分だ。
振り返る。

「……エリ」

エリアスが、そこにいた。
なれない道を長く歩いて顔色は悪い。呼吸も荒い。
それでも、逃げていない。

「……大丈夫」

息を整えながら、そう言う。

「……行こう」

その一言で、
ガレンの中の“線”が、はっきりと切れた。

骨が鳴る。
肉が軋む。
重さが、戻ってくる。

人の形が、剥がれ落ちていく。

熊の輪郭が、完全になる。
狐は、地面を這いながら後退った。

だが同時に、確信していた。

(……後からでも、追える)

守るものを得た獣は、必ず、戻ってくる。

熊の姿のガレンは、エリアスの前に膝をついた。

低く、短く、鳴く。
乗れという仕草だった。

エリアスは、一瞬だけ迷い、それから、ガレンの背にしがみついた。

毛は温かく、心臓の音が、はっきりと伝わる。

次の瞬間、ガレンは地を蹴った。

森が、後ろへ流れていく。
枝が裂け、土が跳ねる。

背後で、狐は笑った。

「……逃げろ、逃げ続けろよ、ガレン」

森は広い。
そして憎悪は、しつこい。

こうして、守るために獣になった熊と、その背にしがみつく人間の逃避行が始まった。

――

狐は、わざと足を引きずって村へ戻った。

夜明け前、見張りの獣人がそれに気づく。

「……おい、どうした」

狐はすぐには答えず、地面に膝をついた。
肩で息をし、腕を押さえる。
血は――少量だ。だが、十分だった。

「ガレンに……やられた……」

その一言で、周囲の空気が変わる。

「……は?」

「あのガレンに、か?」

狐は顔を歪め、苦笑する。

「信じねえよな。俺も、最初は信じられなかった」

ゆっくりと顔を上げる。
そこにあるのは、恐怖と、諦めと、少しの憐れみ。

「やっぱり、人間がいた」

ざわり、と波が立つ。

「ガレンの巣穴に。
しかも……親しげだった」

狐は言葉を選ばない。
選ばないことが、真実らしさを生むと知っている。

「誑かされてたよ。あれは骨抜きだ」

誰かが唸る。

「……ガレンは俺達を守っていたのでは?」

狐は、頷いた。

「あぁ、だが同時に人間を庇って、俺に牙を剥いた。
村を捨てて、逃げた」

少しだけ、声を落とす。

「……もう、戻れねえな」

その言葉は、断罪だった。

噂は、瞬く間に形を変える。

「やっぱりな」
「人間だ」
「獣を堕とす」

「熊の力ですら、人間に抗えないなら
…俺たちは、どうなる」

狐の“値踏み”は、完全に歪められた形で流通する。

「間抜けな熊だ」
「村を守ってきたくせに」
「人間側に寝返った」

笑いが混じる。
怒りが混じる。
軽蔑が、正義の顔をする。

そのときだった。

「――黙れ」

低い声がその場を切り裂き、人垣を割る。
ギルバートだった。

腕を組み鋭い目線で大衆を見回す。
それだけで、彼がどれほど怒っているか分かる。

「誰が、誰を裁いている」

一歩、前に出る。

「お前たちは、見たのか」
「現場を」
「意図を」
「本人の言葉を」

狐が、肩をすくめる。

「俺は、やられた。それが、事実だろ」

その瞬間――
ギルバートの喉が鳴った。

低く、獣の音。

足が、地面に食い込む。
獣化する前の緊迫感に、空気が張り詰める。

(……今、力を使えば、)

獅子の怒号一つで、黙らせられる。
力で、ねじ伏せられる。

だが――

「ギルバート」

静かな声が、背後から届いた。

村長だった。

「……ここで、それをすれば、お前も同じ側に立つ」

ギルバートが、ぴたりと止まる。

「……だが」

「分かっている」

村長は、目を伏せる。

「分かっているからこそだ。今は……耐えろ」

ギルバートの拳が、震える。

(……ガレン)

助けると言った。
だが、村はもう、理屈で止まらない。

狐は、それを見て内心で笑った。

人間に誑かされ、骨抜きにされ、村を捨てた、間抜けな熊。

それが、今日からのガレンとなった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました

よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、 前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。 獣人が支配する貴族社会。 魔力こそが価値とされ、 「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、 レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。 そんな彼を拾ったのは、 辺境を治める獣人公爵アルト。 寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。 溺愛され、守られ、育てられる日々。 だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。 学院での出会い。 貴族社会に潜む差別と陰謀。 そして「番」という、深く重い絆。 レオンは学び、考え、 自分にしかできない魔法理論を武器に、 少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。 獣人と人族。 価値観も、立場も、すべてが違う二人が、 それでも選び合い、家族になるまでの物語。 溺愛×成長×異世界BL。 読後に残るのは、 「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *不定期連載です。

【本編完結】最強魔導騎士は、騎士団長に頭を撫でて欲しい【番外編あり】

ゆらり
BL
 帝国の侵略から国境を守る、レゲムアーク皇国第一魔導騎士団の駐屯地に派遣された、新人の魔導騎士ネウクレア。  着任当日に勃発した砲撃防衛戦で、彼は敵の砲撃部隊を単独で壊滅に追いやった。  凄まじい能力を持つ彼を部下として迎え入れた騎士団長セディウスは、研究機関育ちであるネウクレアの独特な言動に戸惑いながらも、全身鎧の下に隠された……どこか歪ではあるが、純粋無垢であどけない姿に触れたことで、彼に対して強い庇護欲を抱いてしまう。  撫でて、抱きしめて、甘やかしたい。  帝国との全面戦争が迫るなか、ネウクレアへの深い想いと、皇国の守護者たる騎士としての責務の間で、セディウスは葛藤する。  独身なのに父性強めな騎士団長×不憫な生い立ちで情緒薄めな甘えたがり魔導騎士+仲が良すぎる副官コンビ。  甘いだけじゃない、骨太文体でお送りする軍記物BL小説です。番外は日常エピソード中心。ややダーク・ファンタジー寄り。  ※ぼかしなし、本当の意味で全年齢向け。 ★お気に入りやいいね、エールをありがとうございます! お気に召しましたらぜひポチリとお願いします。凄く励みになります!

出戻り勇者の求婚

木原あざみ
BL
「ただいま、師匠。俺と結婚してください」 五年前、見事魔王を打ち倒し、ニホンに戻ったはずの勇者が、なぜか再びエリアスの前に現れた。 こちらの都合で勝手に召喚された、かわいそうな子ども。黒い髪に黒い瞳の伝説の勇者。魔王の討伐が終わったのだから、せめて元の世界で幸せになってほしい。そう願ってニホンに送り返した勇者に求婚目的で出戻られ、「??」となっている受けの話です。 太陽みたいに明るい(けど、ちょっと粘着質な)元勇者×人生休憩中の元エリート魔術師。 なにもかも討伐済みの平和になった世界なので、魔法も剣もほとんど出てきません。ファンタジー世界を舞台にした再生譚のようななにかです。

紳士オークの保護的な溺愛

flour7g
BL
■ 世界と舞台の概要 ここはオークの国「トールキン」。 魔法、冒険者、ギルド、ダンジョン、獣人やドラゴンが存在する、いわゆる“典型的な異世界”だが、この国の特徴はオークが長命で、理知的な文明社会を築いていることにある。 トールキンのオークたちは、 灰色がかった緑や青の肌 鋭く澄んだ眼差し 鍛え上げられた筋骨隆々の体躯 を持ち、外見こそ威圧的だが、礼節と合理性を重んじる国民性をしている。 異世界から来る存在は非常に珍しい。 しかしオークは千年を生きる種族ゆえ、**長い歴史の中で「時折起こる出来事」**として、記録にも記憶にも残されてきた。 ⸻ ■ ガスパールというオーク ガスパールは、この国でも名の知れた貴族家系の三男として生まれた。 薄く灰を帯びた緑の肌、 赤い虹彩に金色の瞳孔という、どこか神話的な目。 分厚い肩と胸板、鍛え抜かれた腹筋は鎧に覆われずとも堅牢で、 銀色に輝く胸当てと腰当てには、代々受け継がれてきた宝石が嵌め込まれている。 ざらついた低音の声だが、語調は穏やかで、 貴族らしい品と、年齢を重ねた余裕がにじむ話し方をする。 ● 彼の性格 • 極めて面倒見がよく、観察力が高い • 感情を声高に表に出さないが、内側は情に厚い • 責任を引き受けることを当然のように思っている • 自分が誰かに寄りかかることだけは、少し苦手 どこか「自分は脇役でいい」と思っている節があり、それが彼の誠実さと同時に、不器用さでもあった。 ⸻ ■ 過去と喪失 ――愛したオーク ガスパールはかつて、平民出身のオーク男性と結ばれていた。 家柄も立場も違う相手だったが、 彼はその伴侶の、 不器用な優しさ 朝食を焦がしてしまうところ 眠る前に必ず手を探してくる癖 を、何よりも大切にしていた。 しかし、その伴侶はすでにこの世を去っている。 現在ガスパールが暮らしているのは、 貴族街から少し離れた、二階建ての小さな屋敷。 華美ではないが、掃除が行き届き、静かな温もりのある家だ。 彼は今も毎日のように墓参りを欠かさない。 それは悲嘆というより、対話に近い行為だった。 ⸻ ■ 現在の生活 ガスパールは現在、 街の流通を取り仕切る代表的な役職に就いている。 多忙な職務の合間にも、 洗濯、掃除、料理 帳簿の整理 屋敷の修繕 をすべて自分でこなす。 仕事、家事、墓参り。 規則正しく、静かな日々。 ――あなたが現れるまでは。

異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!

めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

アルファ嫌いのヤンキーオメガ

キザキ ケイ
BL
にわか景気の商店街に建つペットショップで働く達真は、男性オメガだ。 オメガなのに美形でも小柄でもなく、金に染めた髪と尖った態度から不良だと敬遠されることが多い達真の首には、オメガであることを嫌でも知られてしまう白い首輪が嵌っている。 ある日、店にアルファの客がやってきた。 過去のトラウマからアルファが大嫌いな達真はぞんざいな態度で接客するが、そのアルファはあろうことか達真を「きれいだ」と称し、いきなりキスしてきて───!?

処理中です...