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エリアスは、地面に引き倒されたまま、息ができずにいた。
背中に押し付けられた土の冷たさと、
肩を押さえつける重たい腕。
「……動くなよ」
低い声が、すぐ耳元で落ちる。
抵抗しようとしても、身体が言うことを聞かない。
さっきまで走っていた脚は震え、指先は冷えていた。
「っ…」
(ガレン、)
名前を呼ぼうとして、喉が詰まる。
崖の下へ落ちていった、あのすがた。
最後に合った、視線。
(……生きろ、って……)
その意味が、今になって分かる。
「ほら、縛れ」
縄がかけられる。
手首が引き寄せられ、荒っぽく結ばれる。
痛みより先に、屈辱が来た。
「……やめろ……」
声は、思ったよりも弱かった。
誰かが、鼻で笑う。
「まだ王様のつもりか?」
「今はただの人間だろ」
服の端を掴まれ、乱暴に引き上げられる。
裂けた布が、冷たい風に晒される。
視線が、集まる。
値踏みする目。
敵意と好奇心が混じった目。
「……よく見ると、可愛らしいな」
誰かが言った。
「そりゃ、熊も骨抜きになるわけだ」
「おい、盛りがついてたのは、どっちだ?」
笑い声。
エリアスは、歯を食いしばった。
「……黙れ」
声は震えていたが、目は逸らさない。
「私は……誰のものでもない」
一瞬、空気が止まる。
だが、すぐに誰かが肩を掴んだ。
「まだ言うか」
「人間のくせに」
「獣人を侮辱してる」
地面に、再び押し倒される。
その瞬間、エリアスの頭に浮かんだのは、
城で聞いた、追放の宣告だった。
――お前は、ここにはいられない。
あのときと、同じだ。
理由は違う。
だが、結論は同じ。
「……人間は……」
誰かが吐き捨てる。
「どこに行っても、厄介だ」
縄がきつく締め直される。
「村へ連れていく」
「ガレンが戻ってきたら、見せてやれ。生きていたらだけどな」
その言葉で、エリアスの胸が凍った。
生きていたら。
(……来ないで、)
心の中で、必死に願う。
もう、十分だった。
ガレンは、最後まで守った。
これ以上、傷つかなくていい。
引き起こされ、歩かされる。
足がもつれ、何度も転びそうになるが、
そのたびに乱暴に引き上げられる。
森を抜ける途中、エリアスは一度だけ、振り返った。
霧の向こう。
もう見えない崖。
『ガレン』
その名を、声に出さずに呼んだ。
村へ続く道は、追放されたときよりもずっと遠く感じられた。
そしてエリアスは、理解していた。
これは、見せしめだ。
獣人の村が出した答えを、自分の身体に刻むための。
だが――
誰もまだ知らない。
谷の底で、熊が生きていることを。
執念だけで、呼吸を続けていることを。
――
熊は、執念深く生きる。
一度「獲物」と定めたものを、誰にも渡さない。
そして――
手負いの熊は、もはや制御できない。
それは、理性や感情話ではない。
生き残るために、そうできているという話だ。
谷底に落ちた熊は、すぐには動かなかった。
土と石が崩れ、衝撃が全身を打った。
骨が折れた感触がある。
だが、どこかは分からない。
痛みは、あとから来る。
最初に感じたのは、重さだった。
身体が、言うことを聞かないほどの重さ。
それでも、熊は息をした。
胸が上下する。
喉の奥で、空気が鳴る。
(――生きている)
それだけで、十分だった。
視界は暗い。
霧と土埃が、まだ舞っている。
熊は、伏せたまま、しばらく動かない。
無駄な力を使わない。
それが、本来の獣のやり方だ。
だが――
傷を負った熊は、そのやり方すら、選ばなくなる。
頭の奥に、ひとつだけ、残っているものがあった。
――エリアス。
名前ではない。
匂いでもない。
奪われた、という事実。
それだけで、身体の奥に、熱が残った。
熊は、前脚を、ゆっくりと動かす。
爪が、石を引っかく。
音が、谷に響く。
痛みが、はっきり形を持って現れた。
肩。
脇腹。
後脚。
踏ん張ると、骨が軋む。
それでも、熊は止まらない。
理性で止まる獣は、ここにはいない。
あるのは、奪われたものを取り戻すための衝動だけだった。
立ち上がる必要はない。
今は、動ければいい。
這う。
腹を地面に擦りつけながら、熊は、わずかに身体を引きずった。
その動きは、遅い。
だが、確実だ。
途中で、低い唸り声が漏れる。
警告ではない。
威嚇でもない。
制御を失ったことを、世界に知らせる音だった。
自分の生き方は慎重に選んできたつもりだった。
傷付けないよう、誤解がないようやってきた。
守り手を自ら引き受け、関わりも最小限にしていた。
それを奪われた。
人間にも獣人にも生き方がある。
どちらか一方に憎しみを押し付けても進まないのに、半分流れた人間の血を呪う。
人間は、獣を恐れる。
――まだ、いける。
熊は、谷壁を見上げた。
高い。
霧で、上は見えない。
だが、匂いは、残っている。
獣人たちの匂い。
血。
恐怖。
そして、その奥に、微かに――
一瞬、熊の喉が鳴った。
吠えない。
今は、吠える時ではない。
時間を、味方につける。
血は、止まり始めている。
呼吸も、少しずつ落ち着いてきた。
――
夜が来て谷は、暗くなる。
(……待っていろ)
言葉はない。
だが、確かに、そう思った。
たとえ、二度と人に戻れなくなったとしても。
守ると決めたものを、最後まで、離さない。
絶壁の途中に空いた穴の中で、熊は、目を閉じた。
背中に押し付けられた土の冷たさと、
肩を押さえつける重たい腕。
「……動くなよ」
低い声が、すぐ耳元で落ちる。
抵抗しようとしても、身体が言うことを聞かない。
さっきまで走っていた脚は震え、指先は冷えていた。
「っ…」
(ガレン、)
名前を呼ぼうとして、喉が詰まる。
崖の下へ落ちていった、あのすがた。
最後に合った、視線。
(……生きろ、って……)
その意味が、今になって分かる。
「ほら、縛れ」
縄がかけられる。
手首が引き寄せられ、荒っぽく結ばれる。
痛みより先に、屈辱が来た。
「……やめろ……」
声は、思ったよりも弱かった。
誰かが、鼻で笑う。
「まだ王様のつもりか?」
「今はただの人間だろ」
服の端を掴まれ、乱暴に引き上げられる。
裂けた布が、冷たい風に晒される。
視線が、集まる。
値踏みする目。
敵意と好奇心が混じった目。
「……よく見ると、可愛らしいな」
誰かが言った。
「そりゃ、熊も骨抜きになるわけだ」
「おい、盛りがついてたのは、どっちだ?」
笑い声。
エリアスは、歯を食いしばった。
「……黙れ」
声は震えていたが、目は逸らさない。
「私は……誰のものでもない」
一瞬、空気が止まる。
だが、すぐに誰かが肩を掴んだ。
「まだ言うか」
「人間のくせに」
「獣人を侮辱してる」
地面に、再び押し倒される。
その瞬間、エリアスの頭に浮かんだのは、
城で聞いた、追放の宣告だった。
――お前は、ここにはいられない。
あのときと、同じだ。
理由は違う。
だが、結論は同じ。
「……人間は……」
誰かが吐き捨てる。
「どこに行っても、厄介だ」
縄がきつく締め直される。
「村へ連れていく」
「ガレンが戻ってきたら、見せてやれ。生きていたらだけどな」
その言葉で、エリアスの胸が凍った。
生きていたら。
(……来ないで、)
心の中で、必死に願う。
もう、十分だった。
ガレンは、最後まで守った。
これ以上、傷つかなくていい。
引き起こされ、歩かされる。
足がもつれ、何度も転びそうになるが、
そのたびに乱暴に引き上げられる。
森を抜ける途中、エリアスは一度だけ、振り返った。
霧の向こう。
もう見えない崖。
『ガレン』
その名を、声に出さずに呼んだ。
村へ続く道は、追放されたときよりもずっと遠く感じられた。
そしてエリアスは、理解していた。
これは、見せしめだ。
獣人の村が出した答えを、自分の身体に刻むための。
だが――
誰もまだ知らない。
谷の底で、熊が生きていることを。
執念だけで、呼吸を続けていることを。
――
熊は、執念深く生きる。
一度「獲物」と定めたものを、誰にも渡さない。
そして――
手負いの熊は、もはや制御できない。
それは、理性や感情話ではない。
生き残るために、そうできているという話だ。
谷底に落ちた熊は、すぐには動かなかった。
土と石が崩れ、衝撃が全身を打った。
骨が折れた感触がある。
だが、どこかは分からない。
痛みは、あとから来る。
最初に感じたのは、重さだった。
身体が、言うことを聞かないほどの重さ。
それでも、熊は息をした。
胸が上下する。
喉の奥で、空気が鳴る。
(――生きている)
それだけで、十分だった。
視界は暗い。
霧と土埃が、まだ舞っている。
熊は、伏せたまま、しばらく動かない。
無駄な力を使わない。
それが、本来の獣のやり方だ。
だが――
傷を負った熊は、そのやり方すら、選ばなくなる。
頭の奥に、ひとつだけ、残っているものがあった。
――エリアス。
名前ではない。
匂いでもない。
奪われた、という事実。
それだけで、身体の奥に、熱が残った。
熊は、前脚を、ゆっくりと動かす。
爪が、石を引っかく。
音が、谷に響く。
痛みが、はっきり形を持って現れた。
肩。
脇腹。
後脚。
踏ん張ると、骨が軋む。
それでも、熊は止まらない。
理性で止まる獣は、ここにはいない。
あるのは、奪われたものを取り戻すための衝動だけだった。
立ち上がる必要はない。
今は、動ければいい。
這う。
腹を地面に擦りつけながら、熊は、わずかに身体を引きずった。
その動きは、遅い。
だが、確実だ。
途中で、低い唸り声が漏れる。
警告ではない。
威嚇でもない。
制御を失ったことを、世界に知らせる音だった。
自分の生き方は慎重に選んできたつもりだった。
傷付けないよう、誤解がないようやってきた。
守り手を自ら引き受け、関わりも最小限にしていた。
それを奪われた。
人間にも獣人にも生き方がある。
どちらか一方に憎しみを押し付けても進まないのに、半分流れた人間の血を呪う。
人間は、獣を恐れる。
――まだ、いける。
熊は、谷壁を見上げた。
高い。
霧で、上は見えない。
だが、匂いは、残っている。
獣人たちの匂い。
血。
恐怖。
そして、その奥に、微かに――
一瞬、熊の喉が鳴った。
吠えない。
今は、吠える時ではない。
時間を、味方につける。
血は、止まり始めている。
呼吸も、少しずつ落ち着いてきた。
――
夜が来て谷は、暗くなる。
(……待っていろ)
言葉はない。
だが、確かに、そう思った。
たとえ、二度と人に戻れなくなったとしても。
守ると決めたものを、最後まで、離さない。
絶壁の途中に空いた穴の中で、熊は、目を閉じた。
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