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仕事(1)
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その日は、拍子抜けするほど何も起きなかった。
朝から夕方まで、仕事は淡々と進み、道も静かだった。
人の流れは穏やかで、荒い声が上がることもない。
恒一は歩きながら、ふと考える。
(……映画で見たヤクザって、もっと派手じゃなかったっけ)
怒鳴り声も、銃声もない。
張り詰めた空気は確かにあるが、破裂する気配がない。
平和だな、と心の中で呟く。
視線が、前を歩く燈の背中に落ちる。
半歩前。いつもの距離だ。
今日は、肩の力が少し抜けている。
歩幅も、ほんのわずかに小さい。
(……ちっさ)
気づいた瞬間、恒一は首を振った。
(仕事、仕事)
そう言い聞かせる。
だが、考えを切ったはずなのに、視線は簡単に戻ってしまう。
燈は前を向いたまま、何も言わない。
それが、余計に意識を引っ張った。
――
昼過ぎ、通り沿いで風が吹いた。
春先特有の、少し冷たい風。
街路樹の桜が一斉に揺れ、音もなく花びらが舞う。
燈は、気に留めず歩いている。
色素の薄い栗色の髪に、淡い色が一枚、引っかかった。
恒一はすぐに気づいた。
(……ついてる)
声をかけるほどのことでもない。
そう判断して、見なかったことにしようとして――
視線が、離れなかった。
花びらは、耳の少し後ろ。
風に煽られて、かすかに揺れている。
(……いや、取ったほうがいいな)
理由は分からない。
見すぎてしまう。ただ、そう思った。
恒一は、少しだけ距離を詰める。
指先だけを伸ばした、その瞬間、また風が吹いた。
花びらが、ふわりと浮いて恒一の指先に落ちる。
恒一はそれを掴み、すぐに一歩引いた。
燈は歩いたままだ。
何も知らない。
恒一は花びらを見下ろす。
薄い。
軽い。
触れただけで壊れそうな色。
(……似てるな)
意味のない感想が頭をよぎる。
燈が、ふいに足を止めた。
「……なんだよ」
振り返らずに言う。
恒一は反射的に花びらをポケットに入れた。
「いや」
燈は少しだけ首を傾げたが、深追いしない。
また歩き出す。
半歩前を行く背中が、さっきよりわずかに軽く見えた。
恒一は、ポケットの中の感触を確かめてから、意識を切り替える。
(仕事だ)
そう言い聞かせる回数が、今日はやけに多かった。
――
屋敷に戻ると、縁側に宣親がいた。
普段は木下の屋敷にいるがよくこちらにも来ている。
煙草を咥え、庭をぼんやり眺めている。
夕方の光が、ゆっくりと影を伸ばしていた。
「なあ」
軽い調子で、宣親が言う。
恒一は足を止める。
「お前、最近…燈のこと、無意識に見すぎ」
「?。見てない」
即答だった。
「はいはい」
宣親は笑う。
「でもさ、雰囲気、柔らかいよ。燈も」
恒一は首を傾げる。
「……そうか?うるせぇとかふざけんなしか言ってない、」
「ははっ」
煙を吐いて、宣親は続ける。
「猫みたいだろ」
「あー……猫、わかる」
「小さい頃はもっと可愛かったよ。ほんとに猫みたいでさ」
少し懐かしむ声になる。
「初対面で、“燈ちゃーん、何歳なの?”って聞いたんだ」
恒一は思わず口角を上げた。
「それは……」
なんだか想像できるやり取りに恒一は少し笑った。
「先代も浩哉も燈も、全員固まってた」
宣親が肩をすくめる。
「だろうね。聞かれたら殺されそう」
恒一は頷いた。
結局今日も、燈は前を歩いて、恒一は半歩後ろを歩いた。
距離は、変わらない。
だが、同じ距離のはずなのに、桜の花びらがポケットの中にある今日は、その距離が少しだけ近く感じられた。
――
最初は、たまたまだった。
仕事帰りに、甘いものと煙草を持って行っただけ。
疲れているように見えたから、それだけの理由だった。
それが、いつからか習慣になった。
週に何度か。
燈の肩が落ちている日。
言葉が少ない日。
恒一は、何も言わずに袋を下げて、燈の部屋を叩く。
「……なんだよ」
不機嫌そうな声でも、障子は開く。
「差し入れ」
それだけで、燈は袋を受け取る。
「甘味と煙草」
「……分かってんな」
そのやりとりも、決まり文句になっていた。
この夜も、そうだった。
燈はすでに酒を入れていて、頬にうっすら赤みがある。
目の奥が、昼間より柔らかい。
部屋に入ると、畳の匂いと、ほのかな酒の匂いが混じる。
二人で並んで座る。
距離は近いが、触れない。
燈は酒を飲み、恒一は付き合う程度に口をつける。
仕事の愚痴。
どうでもいい話。
意味のない沈黙。
その沈黙が、今日は長い。
燈が、ふいに煙草を咥えた。
「……火」
短い言い方。
次の瞬間、燈の手が恒一の上着に伸びる。
「兄貴、ちょっと、」
言うより早く、ポケットに指が突っ込まれた。
酔っているせいか、遠慮がない。
ごそごそと探る指先が、布越しに体温を拾う。
「どこだよ……」
苛立った声。
そのまま、何かを引き抜いた。
ひらり、と畳に落ちたのは——
薄い花びらだった。
淡い色。
少しだけ、乾いている。
燈の動きが止まる。
「……なんだ、これ」
眉を寄せて、花びらを拾い上げる。
「桜?」
恒一は、一瞬、言葉に詰まった。
胸の奥が、変に熱くなる。
「……風で、」
それだけ言う。
燈は、鼻で笑った。
「は?意味わかんねぇ」
花びらを畳に払い、何事もなかったみたいに煙草を咥える。
「……なあ、火」
今度は、短く。
恒一はライターを出して、火をつける。
燈が煙を吸い込む横顔を、見ないようにした。
(……何やってんだ、俺)
理由の分からない行動が、酔いの回った部屋で露わになった気がして妙に落ち着かない。
燈は、もう一口酒を飲む。
小さな肩が、恒一に触れた。
ほんの少し、偶然みたいな距離。
「……眠いな」
ぽつりと呟いて、そのまま布団に倒れ込む。
恒一は一瞬迷ってから、隣に腰を下ろした。
灯りを落とす。
夜の音が、部屋を満たす。
二人の呼吸が、同じ速さになる。
触れないように、少し距離を保ちながら。
燈は、いつの間にか眠っていた。
呼吸が、規則的だ。
恒一は、天井を見つめる。
(……近いな)
それだけ思う。
時間が、ゆっくり流れる。
どれくらい経った頃か。
突然、腹に衝撃が走った。
「……っ」
燈に蹴り出された。
「近ぇんだよ、バカ」
寝返りも打たずに、燈が言う。
声は眠そうで、棘がない。
酔いが覚めているのか、いないのか。
恒一は、静かに布団から出る。
「……悪い」
返事はない。
畳の上には、さっきの花びらが残っていた。
恒一は、それを拾わずに部屋を出た。
廊下に出ると、夜風が少し冷たい。
(……なにも起きなかったな。いや、何考えてんだ俺は)
そう思いながら、離れへ戻る。
だが、胸の奥に残った熱は、酒よりも長く消えなかった。
朝から夕方まで、仕事は淡々と進み、道も静かだった。
人の流れは穏やかで、荒い声が上がることもない。
恒一は歩きながら、ふと考える。
(……映画で見たヤクザって、もっと派手じゃなかったっけ)
怒鳴り声も、銃声もない。
張り詰めた空気は確かにあるが、破裂する気配がない。
平和だな、と心の中で呟く。
視線が、前を歩く燈の背中に落ちる。
半歩前。いつもの距離だ。
今日は、肩の力が少し抜けている。
歩幅も、ほんのわずかに小さい。
(……ちっさ)
気づいた瞬間、恒一は首を振った。
(仕事、仕事)
そう言い聞かせる。
だが、考えを切ったはずなのに、視線は簡単に戻ってしまう。
燈は前を向いたまま、何も言わない。
それが、余計に意識を引っ張った。
――
昼過ぎ、通り沿いで風が吹いた。
春先特有の、少し冷たい風。
街路樹の桜が一斉に揺れ、音もなく花びらが舞う。
燈は、気に留めず歩いている。
色素の薄い栗色の髪に、淡い色が一枚、引っかかった。
恒一はすぐに気づいた。
(……ついてる)
声をかけるほどのことでもない。
そう判断して、見なかったことにしようとして――
視線が、離れなかった。
花びらは、耳の少し後ろ。
風に煽られて、かすかに揺れている。
(……いや、取ったほうがいいな)
理由は分からない。
見すぎてしまう。ただ、そう思った。
恒一は、少しだけ距離を詰める。
指先だけを伸ばした、その瞬間、また風が吹いた。
花びらが、ふわりと浮いて恒一の指先に落ちる。
恒一はそれを掴み、すぐに一歩引いた。
燈は歩いたままだ。
何も知らない。
恒一は花びらを見下ろす。
薄い。
軽い。
触れただけで壊れそうな色。
(……似てるな)
意味のない感想が頭をよぎる。
燈が、ふいに足を止めた。
「……なんだよ」
振り返らずに言う。
恒一は反射的に花びらをポケットに入れた。
「いや」
燈は少しだけ首を傾げたが、深追いしない。
また歩き出す。
半歩前を行く背中が、さっきよりわずかに軽く見えた。
恒一は、ポケットの中の感触を確かめてから、意識を切り替える。
(仕事だ)
そう言い聞かせる回数が、今日はやけに多かった。
――
屋敷に戻ると、縁側に宣親がいた。
普段は木下の屋敷にいるがよくこちらにも来ている。
煙草を咥え、庭をぼんやり眺めている。
夕方の光が、ゆっくりと影を伸ばしていた。
「なあ」
軽い調子で、宣親が言う。
恒一は足を止める。
「お前、最近…燈のこと、無意識に見すぎ」
「?。見てない」
即答だった。
「はいはい」
宣親は笑う。
「でもさ、雰囲気、柔らかいよ。燈も」
恒一は首を傾げる。
「……そうか?うるせぇとかふざけんなしか言ってない、」
「ははっ」
煙を吐いて、宣親は続ける。
「猫みたいだろ」
「あー……猫、わかる」
「小さい頃はもっと可愛かったよ。ほんとに猫みたいでさ」
少し懐かしむ声になる。
「初対面で、“燈ちゃーん、何歳なの?”って聞いたんだ」
恒一は思わず口角を上げた。
「それは……」
なんだか想像できるやり取りに恒一は少し笑った。
「先代も浩哉も燈も、全員固まってた」
宣親が肩をすくめる。
「だろうね。聞かれたら殺されそう」
恒一は頷いた。
結局今日も、燈は前を歩いて、恒一は半歩後ろを歩いた。
距離は、変わらない。
だが、同じ距離のはずなのに、桜の花びらがポケットの中にある今日は、その距離が少しだけ近く感じられた。
――
最初は、たまたまだった。
仕事帰りに、甘いものと煙草を持って行っただけ。
疲れているように見えたから、それだけの理由だった。
それが、いつからか習慣になった。
週に何度か。
燈の肩が落ちている日。
言葉が少ない日。
恒一は、何も言わずに袋を下げて、燈の部屋を叩く。
「……なんだよ」
不機嫌そうな声でも、障子は開く。
「差し入れ」
それだけで、燈は袋を受け取る。
「甘味と煙草」
「……分かってんな」
そのやりとりも、決まり文句になっていた。
この夜も、そうだった。
燈はすでに酒を入れていて、頬にうっすら赤みがある。
目の奥が、昼間より柔らかい。
部屋に入ると、畳の匂いと、ほのかな酒の匂いが混じる。
二人で並んで座る。
距離は近いが、触れない。
燈は酒を飲み、恒一は付き合う程度に口をつける。
仕事の愚痴。
どうでもいい話。
意味のない沈黙。
その沈黙が、今日は長い。
燈が、ふいに煙草を咥えた。
「……火」
短い言い方。
次の瞬間、燈の手が恒一の上着に伸びる。
「兄貴、ちょっと、」
言うより早く、ポケットに指が突っ込まれた。
酔っているせいか、遠慮がない。
ごそごそと探る指先が、布越しに体温を拾う。
「どこだよ……」
苛立った声。
そのまま、何かを引き抜いた。
ひらり、と畳に落ちたのは——
薄い花びらだった。
淡い色。
少しだけ、乾いている。
燈の動きが止まる。
「……なんだ、これ」
眉を寄せて、花びらを拾い上げる。
「桜?」
恒一は、一瞬、言葉に詰まった。
胸の奥が、変に熱くなる。
「……風で、」
それだけ言う。
燈は、鼻で笑った。
「は?意味わかんねぇ」
花びらを畳に払い、何事もなかったみたいに煙草を咥える。
「……なあ、火」
今度は、短く。
恒一はライターを出して、火をつける。
燈が煙を吸い込む横顔を、見ないようにした。
(……何やってんだ、俺)
理由の分からない行動が、酔いの回った部屋で露わになった気がして妙に落ち着かない。
燈は、もう一口酒を飲む。
小さな肩が、恒一に触れた。
ほんの少し、偶然みたいな距離。
「……眠いな」
ぽつりと呟いて、そのまま布団に倒れ込む。
恒一は一瞬迷ってから、隣に腰を下ろした。
灯りを落とす。
夜の音が、部屋を満たす。
二人の呼吸が、同じ速さになる。
触れないように、少し距離を保ちながら。
燈は、いつの間にか眠っていた。
呼吸が、規則的だ。
恒一は、天井を見つめる。
(……近いな)
それだけ思う。
時間が、ゆっくり流れる。
どれくらい経った頃か。
突然、腹に衝撃が走った。
「……っ」
燈に蹴り出された。
「近ぇんだよ、バカ」
寝返りも打たずに、燈が言う。
声は眠そうで、棘がない。
酔いが覚めているのか、いないのか。
恒一は、静かに布団から出る。
「……悪い」
返事はない。
畳の上には、さっきの花びらが残っていた。
恒一は、それを拾わずに部屋を出た。
廊下に出ると、夜風が少し冷たい。
(……なにも起きなかったな。いや、何考えてんだ俺は)
そう思いながら、離れへ戻る。
だが、胸の奥に残った熱は、酒よりも長く消えなかった。
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