今日も振り向かない君の半歩後ろを歩く

さか様

文字の大きさ
6 / 10

仕事(2)

しおりを挟む
恒一が部屋を出たあと、燈はしばらくそのまま動かなかった。

布団の中で、背中を丸めたまま。
目は閉じているが、眠ってはいない。

廊下に足音が遠ざかって、完全に消える。
それを確認してから、燈は小さく息を吐いた。

(……やりすぎたか)

足に残る、微かな衝撃。
蹴った感触が、妙に生々しい。

だがすぐに、思考を切る。

(ちょっと寒かっただけだし)

夜明け前の空気は冷える。
酔いに任せて無意識に体を寄せたら、意外に心地よかっただけ。

(あいつ、無駄に体温高ぇし)

そう思って、舌打ちする。

言われた通り後ろを歩いているだけのただのガキ。
それなのに。

(……言い訳かよ、)

自嘲気味に、鼻で笑う。

焼きが回ったな、と燈は思った。
自分の頭を、雑に撫でるような感覚がくすぐったかった。

ふと、畳の上に、何かが張り付いているのが視界の端に入った。

淡い色。
薄くて、軽い。

桜の花びらだ。

夜のあいだに、湿気を吸って畳に貼りついている。
昨夜、煙草を探したときに落ちたものだ。

燈はそれを見て、眉を寄せる。

(……意味わかんねぇ)

それ以上考えるのが嫌で、布団を被り直した。

――

翌朝。

夜の余韻が完全に明けきらないうちに、
何事もなかった顔で、屋敷は静かに動き出していた。

廊下を行き交う足音。
台所から漂ってくる、味噌と出汁の匂い。

燈は、まだ布団の中にいた。

寝過ごしたわけではない。
正確には、起き上がる気にならなかった。

障子の向こうで、足音が止まる。

「……兄貴」

控えめな声。

間違いなく、恒一だ。

燈は一瞬眉をひそめたが、返事はしない。
そのまま、声が続く。

「朝だ」

急かすわけでも、踏み込むわけでもない。
いつも通りの距離を保った声に、燈は布団の中で小さく舌打ちした。

「……起きてる」

そう言って、ようやく体を起こす。

障子が、静かに開く。

恒一は、いつもと変わらない顔で立っていた。
背筋を伸ばし、視線は必要以上に部屋を見ない。

平然としている。
少なくとも、燈の目にはそう映る。

(……何も思ってねぇ顔だな)

それが、なぜか引っかかる。

燈は立ち上がり、適当に髪をかき上げる。

「昨日は……」

言いかけて、止めた。

何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。

恒一は、特に反応しない。

「朝飯、もうすぐだ」

事務的な報告。

それで終わりだと分かっているのに、燈は妙に居心地が悪くなる。

視線を逸らした先で、畳の花びらが目に入った。

昨夜のままだ。

燈は、気づかないふりをして言う。

「……いつまで立ってんだよ」

「窓開ける。換気しないと、」

恒一はそう言って一直線に窓へ向かう。

引き戸を開け、縁側から庭が見える。

戻り際にさりげなく畳に屈むと。指先が、桜の花びらに触れる。

ほんの一瞬。
燈が気づく前に、恒一はそれを拾い上げた。

燈からは見えない位置で、花びらをポケットに隠す。

「ゴミか?」

燈は、その動きの意味を知らない。

ただ、恒一が一拍遅れて部屋を出たことだけが、少し気になった。

障子が閉まる。

燈は、畳を見下ろす。

さっきまであった花びらが、消えている。

(……?)

首を傾げるが、深く考えない。

「……気のせいか」

そう呟いて、身支度を始める。

――

廊下を歩く恒一の歩調は、いつも通りだった。

背中は真っ直ぐ。
視線も前。

誰が見ても、平常運転だ。

離れに戻ると、恒一は立ち止まり、ポケットからハンカチを取り出した。

白い布を広げ、その中央に、桜の花びらをそっと置く。

湿った花弁を、包む。

理由は考えない。
説明もしない。

ただ、そうしたかった。

ハンカチを畳んで、ポケットに戻す。

その仕草一つで、恒一はまた「仕事」に戻った顔になる。

半歩後ろを歩く役目。
任された役割。

燈は知らない。

昨夜、蹴り出した相手が、
今朝、何を拾って、何を隠したのか。

距離は、変わらない。

だが、見えないところで、それぞれが持つものだけが少しずつ増えていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

強面若頭は、懐っこいナースの献身に抗えない ―極道、はじめての恋を処方される―

たら昆布
BL
ウブで堅物な極道若頭×明るいわんこ系看護師

兄弟カフェ 〜僕達の関係は誰にも邪魔できない〜

紅夜チャンプル
BL
ある街にイケメン兄弟が経営するお洒落なカフェ「セプタンブル」がある。真面目で優しい兄の碧人(あおと)、明るく爽やかな弟の健人(けんと)。2人は今日も多くの女性客に素敵なひとときを提供する。 ただし‥‥家に帰った2人の本当の姿はお互いを愛し、甘い時間を過ごす兄弟であった。お店では「兄貴」「健人」と呼び合うのに対し、家では「あお兄」「ケン」と呼んでぎゅっと抱き合って眠りにつく。 そんな2人の前に現れたのは、大学生の幸成(ゆきなり)。純粋そうな彼との出会いにより兄弟の関係は‥‥?

帰宅

pAp1Ko
BL
遊んでばかりいた養子の長男と実子の双子の次男たち。 双子を庇い、拐われた長男のその後のおはなし。 書きたいところだけ書いた。作者が読みたいだけです。

秘密

無理解
BL
好きな人に告白するために一緒に帰る約束をした、ある放課後

彼の理想に

いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。 人は違ってもそれだけは変わらなかった。 だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。 優しくする努力をした。 本当はそんな人間なんかじゃないのに。 俺はあの人の恋人になりたい。 だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。 心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。

塩対応だった旦那様が記憶喪失になった途端溺愛してくるのですが

詩河とんぼ
BL
 貧乏伯爵家の子息であったノアは家を救うことを条件に、援助をしてくれることとなったラインドール公爵家の若気当主のレオンに嫁ぐこととなった。  塩対応で愛人がいるという噂のレオンやノアを嫌う義母の前夫人を見て、ほとんどの使用人たちはノアに嫌がらせをしていた。  そんな中、レオンが階段から転落し、レオンは記憶を失ってしまう。すると――

あなたが好きでした

オゾン層
BL
 私はあなたが好きでした。  ずっとずっと前から、あなたのことをお慕いしておりました。  これからもずっと、このままだと、その時の私は信じて止まなかったのです。

【完】君に届かない声

未希かずは(Miki)
BL
 内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。  ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。 すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。 執着囲い込み☓健気。ハピエンです。

処理中です...