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踏込み
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恒一が退院して、数日が過ぎていた。
表向きは、何も変わらない。
仕事は回り、屋敷は動き、人の配置も同じだ。
――ただひとつを除いて。
燈が、妙に忙しい。
会議が入った。
顔出しだけだ。
今日は別件がある。
理由はいつもそれらしく、どれも嘘ではない。
だが、重なりすぎている。
恒一は、距離を測りかねていた。
退院前までは、半歩後ろが当たり前だった。
気づけばそこにいて、気づけば視線を向けていた。
今は違う。
燈が歩き出すと、恒一が一歩出る前に、別の若い衆が前に入る。
「……怪我人は部屋にいろ」
そう言って、燈は振り返らない。
今日も、別の若い衆を連れて出ていった。
恒一は、その背中を見送るしかなかった。
胸の奥が、静かにざわつく。
(……ああ、そういうことか)
理由は分からない。
だが、避けられていることだけは、はっきり分かる。
その様子を、若い衆たちは割と呑気に見ていた。
「最近、兄貴たちどうしたんすかね?」
恒一の下についている若い衆が、小声で言う。
「さあ?」
燈の下の若い衆が首を傾げる。
「喧嘩って感じでもねぇし」
「むしろ、避けてません?」
「そう見える?」
「見えますよね?」
二人で顔を見合わせて、肩をすくめる。
「まぁ、そのうち戻るっしょ」
その「そのうち」が、恒一には一番遠い。
――
燈は、分かってやっていた。
恒一の部屋の前を通るとき、無意識に歩調が速くなる。気配を感じると、息が浅くなる。
(……見るな)
そう思うほど、視線は逸らせない。
あの日の言葉、病室での約束。
車内で自分が何を考えていたか。
全部、まだ生々しい。
逃げている自覚はある。
だが、どう踏み出していいか分からない。
だから、早足で恒一の部屋の前を通り過ぎようとした、その瞬間。
「兄貴」
通る声で呼び止められ、燈の足が止まる。
次の瞬間、腕を掴まれた。
力は強くない。
しかし、燈が逃げないと確信のある掴み方だった。
「……離せ」
燈が言うより早く、恒一が一歩踏み出す。
「話、ある」
「今忙しいんだよ」
「ずっと、忙しいって言ってる」
恒一の視線が、燈を逃がさない。
「逃げる理由、聞いてない」
そのまま、恒一は燈を自分の部屋に引き入れた。
襖が閉まり、音が遮断される。
――
部屋の中は、静かだった。
カーテン越しの光が、床に落ちている。
病院の白とは違う、生活の匂い。
燈は無言で立っていた。
そこに恒一が一歩近づく。
「……何だよ」
燈のいつもの威勢はなくなっていた。
返事がない代わりに、恒一の手が燈の襟元に触れた。
一瞬、ためらいがあって――それでも、指がかかる。
燈の身体が、強張った。
「おい」
その声は揺れていた。
違うのに、嫌でも思い出す感覚。
恒一は答えないまま。
顔を近づけ、唇が触れた。
最初は探るように、そしてすぐに深くなる。
舌が絡み、燈の呼吸が乱れる。
燈の背中が壁に押し付けられた。
シャツの中、燈の腹に恒一の体温が伝わる。
大きな手は背中に回り、指が下着の中を探ろうとした、その瞬間。
ぱん、と乾いた音が響く。
燈が恒一の頬を打った。
その力は強くないが、迷いはなかった。
「……っ」
恒一が、完全に固まる。
燈は、肩で息をしていた。
目が潤んでいる。
歯を食いしばって、必死に感情を抑えている顔。
「……調子、乗るなよ」
声が震えている。
「そういうの……言ったからって、簡単にできると思うな」
恒一は、何も言えなかった。
驚きと、理解と、後悔が一気に押し寄せてる。
燈は視線を逸らした。
「……部屋、戻る」
そう言って襖に手をかける。
開ける前に少しだけ立ち止まって、小さな声で続けた。
「約束は、覚えてっから」
襖が閉まり、部屋に残された恒一はその場に立ち尽くした。
打たれた頬が、じんと熱い。
(……逃げてはいない、か)
ただ、踏み出す覚悟がまだ足りないだけだ。
頬に残る熱が、それを教えているように思えた。
恒一は、静かに息を吐く。
どんな燈の態度を見ても、もう、離れるつもりはなかった。
表向きは、何も変わらない。
仕事は回り、屋敷は動き、人の配置も同じだ。
――ただひとつを除いて。
燈が、妙に忙しい。
会議が入った。
顔出しだけだ。
今日は別件がある。
理由はいつもそれらしく、どれも嘘ではない。
だが、重なりすぎている。
恒一は、距離を測りかねていた。
退院前までは、半歩後ろが当たり前だった。
気づけばそこにいて、気づけば視線を向けていた。
今は違う。
燈が歩き出すと、恒一が一歩出る前に、別の若い衆が前に入る。
「……怪我人は部屋にいろ」
そう言って、燈は振り返らない。
今日も、別の若い衆を連れて出ていった。
恒一は、その背中を見送るしかなかった。
胸の奥が、静かにざわつく。
(……ああ、そういうことか)
理由は分からない。
だが、避けられていることだけは、はっきり分かる。
その様子を、若い衆たちは割と呑気に見ていた。
「最近、兄貴たちどうしたんすかね?」
恒一の下についている若い衆が、小声で言う。
「さあ?」
燈の下の若い衆が首を傾げる。
「喧嘩って感じでもねぇし」
「むしろ、避けてません?」
「そう見える?」
「見えますよね?」
二人で顔を見合わせて、肩をすくめる。
「まぁ、そのうち戻るっしょ」
その「そのうち」が、恒一には一番遠い。
――
燈は、分かってやっていた。
恒一の部屋の前を通るとき、無意識に歩調が速くなる。気配を感じると、息が浅くなる。
(……見るな)
そう思うほど、視線は逸らせない。
あの日の言葉、病室での約束。
車内で自分が何を考えていたか。
全部、まだ生々しい。
逃げている自覚はある。
だが、どう踏み出していいか分からない。
だから、早足で恒一の部屋の前を通り過ぎようとした、その瞬間。
「兄貴」
通る声で呼び止められ、燈の足が止まる。
次の瞬間、腕を掴まれた。
力は強くない。
しかし、燈が逃げないと確信のある掴み方だった。
「……離せ」
燈が言うより早く、恒一が一歩踏み出す。
「話、ある」
「今忙しいんだよ」
「ずっと、忙しいって言ってる」
恒一の視線が、燈を逃がさない。
「逃げる理由、聞いてない」
そのまま、恒一は燈を自分の部屋に引き入れた。
襖が閉まり、音が遮断される。
――
部屋の中は、静かだった。
カーテン越しの光が、床に落ちている。
病院の白とは違う、生活の匂い。
燈は無言で立っていた。
そこに恒一が一歩近づく。
「……何だよ」
燈のいつもの威勢はなくなっていた。
返事がない代わりに、恒一の手が燈の襟元に触れた。
一瞬、ためらいがあって――それでも、指がかかる。
燈の身体が、強張った。
「おい」
その声は揺れていた。
違うのに、嫌でも思い出す感覚。
恒一は答えないまま。
顔を近づけ、唇が触れた。
最初は探るように、そしてすぐに深くなる。
舌が絡み、燈の呼吸が乱れる。
燈の背中が壁に押し付けられた。
シャツの中、燈の腹に恒一の体温が伝わる。
大きな手は背中に回り、指が下着の中を探ろうとした、その瞬間。
ぱん、と乾いた音が響く。
燈が恒一の頬を打った。
その力は強くないが、迷いはなかった。
「……っ」
恒一が、完全に固まる。
燈は、肩で息をしていた。
目が潤んでいる。
歯を食いしばって、必死に感情を抑えている顔。
「……調子、乗るなよ」
声が震えている。
「そういうの……言ったからって、簡単にできると思うな」
恒一は、何も言えなかった。
驚きと、理解と、後悔が一気に押し寄せてる。
燈は視線を逸らした。
「……部屋、戻る」
そう言って襖に手をかける。
開ける前に少しだけ立ち止まって、小さな声で続けた。
「約束は、覚えてっから」
襖が閉まり、部屋に残された恒一はその場に立ち尽くした。
打たれた頬が、じんと熱い。
(……逃げてはいない、か)
ただ、踏み出す覚悟がまだ足りないだけだ。
頬に残る熱が、それを教えているように思えた。
恒一は、静かに息を吐く。
どんな燈の態度を見ても、もう、離れるつもりはなかった。
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