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第17話 祭りの後
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「天はお前を選んだ。博占はお前を質にしろ、と出た。喜べ、お前は今から虜囚として生きる」
楚王が投げやりに言った後、挑むように笑んだ。それは獲物に襲いかかる虎のような怖ろしさをはらんでいた。荀罃は、息を飲む。己はまだ、虎に嬲られる羊であったか、と身をこわばらせた。
「始めに言った。俺はこの遊戯で負けたことが無かった。ここぞという時に良き出目が出る。が、お前は俺の運を越えた」
「……運があらば、私はあなたと遊戯などしなかった。ここにおりません」
炯々と光る目で貫かれながら、荀罃は絞り出すように応えた。楚王の運を己が越えたとは思わない。ただ、天が荀罃の思いに答えてくれた、そのような感慨があるだけである。
緊張の糸が切れれば、倒れてしまいそうな疲労と酔いが来る。遊戯に勝って気絶するなど、竜頭蛇尾も等しい。荀罃は必死に己の腿をつねりながら目を開き続けた。耳にざわめきが聞こえてくる。ゲーム中、集中しすぎて聞こえなかった、楚人のざわめきがうるさい。
「運は二通りある。常に持つものと、一瞬だけ引き寄せるものだ。お前の運は、俺に及ばぬ。しかし、己で天から引き寄せた。それを無駄にせぬこと、だ」
楚王が手を振り、壺だか箱だかを動かしたり運ぶような仕草をしながら講釈を垂れる。
「良い遊戯であった、酒を酌み交わそう」
いやもう、と荀罃は首を振りたかったが、すかさず杯が渡された。酒がこれでもか、となみなみと注がれている。すでに脳が酒精にどっぷり浸かるほど、呑んでいる。味の合わぬ酒をこれ以上呑みたくはない。はっきり言うが、晋の酒より雑味が多く、癖が強すぎて気持ち悪いほどなのだ。
そうして、楚王が、杯を持ったまま、ぶっ倒れた。
臣たちが駆け寄り、巫覡が体を見る。酔いつぶれています、という声に、荀罃はへたり込みそうになった。持っていた酒杯が滑り落ちる。気が抜けた瞬間に、意識も遠くなっていく。ダメだ、と思う前に目の前が暗くなっていった。
「とうさまに勝つなんて、すごい!」
子供の声とともに、何かが荀罃の腕を掴んだ。意識が急激に覚醒していく。見やると、幼児がぶら下がっていた。子のおらぬ荀罃には年がはかれず、十歳に到っていない、というていどしか分からない。実際、五歳前後の幼児であった。
「太子! 晋人は虎狼、人を騙し謀ることを平気でするものどもです。近づいてはいけません!」
世話係と思われる男が、幼児にかしづいて訴える。が、この幼児は、度胸があるのか、底抜けに無邪気であるのか、荀罃の腕にぶらさがったまま、すごい、勇士のようだ! とはしゃぎ、名前は? と問うてくる。たかが遊戯で勝ったのにこのはしゃぎようであるから、楚王はやはり負け知らずだったのだ。
「恐れいります、楚王の御子よ。名を問うのは私に臣を望むということでしょうか。それとも、なんとなくでしょうか。いずれにせよ、よろしくない。私は虜囚の晋人ですが、それ以外ではない。あなたのものにならない」
名を問うたからといって、臣に望むというわけではない。が、一線を引きたかった。この無邪気な幼児に懐かれたくもなく、己も好意を持ちたくはない。勝者と虜囚の間に情が通ってはいけない。荀罃の都合というより、この幼児のためでもある。このあたり、荀罃は元々教育者の性質を持っていたのであろう。
太子は、怖じたように腕を離した。が、逃げなかった。
「りょしゅう。……お客?」
舌っ足らずの言葉で世話係の男に聞く。男は下等な客です、とだけ返した。
「お客なら、我がつれてく!」
幼児が胸を張るように言った。これは荀罃に懐いているわけではなく、大人ぶりたいのであろう。世話係が、困惑をかくさず途方にくれた顔をした。荀罃は苦笑しながら口を開く。
「楚王がお眠りになられた。臣の方々はそちらのお世話があるだろう。あなたのお役目ではないだろうが、私の寝場所の案内を介添えいただけぬか」
幼児というより、世話係への助け船である。いまだ、酔いで世界が時折回る。この機会に己が幽閉される場所に向かわないと、失神しかねない。牢でも家畜小屋でもいいから、早く倒れ込みたかった。
幼児と、世話係と荀罃で王宮を歩く。思ったより時間が経っており、日が落ちかけていた。夕日に照らされた木々も、晋とは違う。黄砂に埋もれそうな河の北と、河のはるか南の楚では、温度も湿度も、そして空気も違うのだ。
「おしっこ」
いきなり呟くと、幼児が渡り廊下から庭に出て己の下衣をかきあげる。世話係が止めないところを見ると、便所以外でどうどうと用を足すのが日曜茶飯事らしい。晋を含めた中原の貴族ではありえない、行儀の悪さである。荀罃は、己も尿意を覚え、幼児を追いかけた。
「共に失礼」
幼児の隣で、同じように立ち小便をする。以前の己では考えられぬ蛮行である。しかしまあ、失神してそのまま漏らすよりはるかに良い。荀罃は体と心に妙な開放感を覚えながら笑った。
楚王が投げやりに言った後、挑むように笑んだ。それは獲物に襲いかかる虎のような怖ろしさをはらんでいた。荀罃は、息を飲む。己はまだ、虎に嬲られる羊であったか、と身をこわばらせた。
「始めに言った。俺はこの遊戯で負けたことが無かった。ここぞという時に良き出目が出る。が、お前は俺の運を越えた」
「……運があらば、私はあなたと遊戯などしなかった。ここにおりません」
炯々と光る目で貫かれながら、荀罃は絞り出すように応えた。楚王の運を己が越えたとは思わない。ただ、天が荀罃の思いに答えてくれた、そのような感慨があるだけである。
緊張の糸が切れれば、倒れてしまいそうな疲労と酔いが来る。遊戯に勝って気絶するなど、竜頭蛇尾も等しい。荀罃は必死に己の腿をつねりながら目を開き続けた。耳にざわめきが聞こえてくる。ゲーム中、集中しすぎて聞こえなかった、楚人のざわめきがうるさい。
「運は二通りある。常に持つものと、一瞬だけ引き寄せるものだ。お前の運は、俺に及ばぬ。しかし、己で天から引き寄せた。それを無駄にせぬこと、だ」
楚王が手を振り、壺だか箱だかを動かしたり運ぶような仕草をしながら講釈を垂れる。
「良い遊戯であった、酒を酌み交わそう」
いやもう、と荀罃は首を振りたかったが、すかさず杯が渡された。酒がこれでもか、となみなみと注がれている。すでに脳が酒精にどっぷり浸かるほど、呑んでいる。味の合わぬ酒をこれ以上呑みたくはない。はっきり言うが、晋の酒より雑味が多く、癖が強すぎて気持ち悪いほどなのだ。
そうして、楚王が、杯を持ったまま、ぶっ倒れた。
臣たちが駆け寄り、巫覡が体を見る。酔いつぶれています、という声に、荀罃はへたり込みそうになった。持っていた酒杯が滑り落ちる。気が抜けた瞬間に、意識も遠くなっていく。ダメだ、と思う前に目の前が暗くなっていった。
「とうさまに勝つなんて、すごい!」
子供の声とともに、何かが荀罃の腕を掴んだ。意識が急激に覚醒していく。見やると、幼児がぶら下がっていた。子のおらぬ荀罃には年がはかれず、十歳に到っていない、というていどしか分からない。実際、五歳前後の幼児であった。
「太子! 晋人は虎狼、人を騙し謀ることを平気でするものどもです。近づいてはいけません!」
世話係と思われる男が、幼児にかしづいて訴える。が、この幼児は、度胸があるのか、底抜けに無邪気であるのか、荀罃の腕にぶらさがったまま、すごい、勇士のようだ! とはしゃぎ、名前は? と問うてくる。たかが遊戯で勝ったのにこのはしゃぎようであるから、楚王はやはり負け知らずだったのだ。
「恐れいります、楚王の御子よ。名を問うのは私に臣を望むということでしょうか。それとも、なんとなくでしょうか。いずれにせよ、よろしくない。私は虜囚の晋人ですが、それ以外ではない。あなたのものにならない」
名を問うたからといって、臣に望むというわけではない。が、一線を引きたかった。この無邪気な幼児に懐かれたくもなく、己も好意を持ちたくはない。勝者と虜囚の間に情が通ってはいけない。荀罃の都合というより、この幼児のためでもある。このあたり、荀罃は元々教育者の性質を持っていたのであろう。
太子は、怖じたように腕を離した。が、逃げなかった。
「りょしゅう。……お客?」
舌っ足らずの言葉で世話係の男に聞く。男は下等な客です、とだけ返した。
「お客なら、我がつれてく!」
幼児が胸を張るように言った。これは荀罃に懐いているわけではなく、大人ぶりたいのであろう。世話係が、困惑をかくさず途方にくれた顔をした。荀罃は苦笑しながら口を開く。
「楚王がお眠りになられた。臣の方々はそちらのお世話があるだろう。あなたのお役目ではないだろうが、私の寝場所の案内を介添えいただけぬか」
幼児というより、世話係への助け船である。いまだ、酔いで世界が時折回る。この機会に己が幽閉される場所に向かわないと、失神しかねない。牢でも家畜小屋でもいいから、早く倒れ込みたかった。
幼児と、世話係と荀罃で王宮を歩く。思ったより時間が経っており、日が落ちかけていた。夕日に照らされた木々も、晋とは違う。黄砂に埋もれそうな河の北と、河のはるか南の楚では、温度も湿度も、そして空気も違うのだ。
「おしっこ」
いきなり呟くと、幼児が渡り廊下から庭に出て己の下衣をかきあげる。世話係が止めないところを見ると、便所以外でどうどうと用を足すのが日曜茶飯事らしい。晋を含めた中原の貴族ではありえない、行儀の悪さである。荀罃は、己も尿意を覚え、幼児を追いかけた。
「共に失礼」
幼児の隣で、同じように立ち小便をする。以前の己では考えられぬ蛮行である。しかしまあ、失神してそのまま漏らすよりはるかに良い。荀罃は体と心に妙な開放感を覚えながら笑った。
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