盤上遊戯~魚を捕り梟は飛んでいく

はに丸

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第20話 後日譚③、そして器を手に。

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 荀罃じゅんおうしんに帰れたのは、二つの理由がある。まず、晋がまた力を蓄え、中原のパワーバランスが変わった。楚王そおう――荘王そうおうは、荀首じゅんしゅからていを介して打診された人質交換に応じたのである。

 そしてもう一つ。いつ返すかという話の前に、荘王は死んだ。特に変事の記録は無いため、自然死らしい。この、南方の国を飛躍させ、頂点に近づけた英雄は、四十路半ばで黄泉こうせんに旅立ったと思われる。当時の平均寿命を考えると短命とは言えない。王の死や即位につきものなのが恩赦である。一年を待つという荀罃の判断は正しかった。

 彼は大夫たいふとして、慎ましく、しかし堂々と帰国した。九年を経て、晋人しんひとの顔ぶれは変わっていたし、父の髪には白髪が見えた。

 あるじへやで温かく迎えてきた荀首を前に、荀罃はしずしずと座し、ぬかずいた。必死に顔を作り、涙をこらえる。九年間の空白程度で緩みきった嗣子ししなど見せたくなかった。荀罃は今だ、父の期待に応えたい少年を持ち続けている。

おう

 懐かしすぎる父の声であった。荀罃のいみなを呼んで良いその声は、体の芯に染みいりそうであった。荀罃はゆっくりと体を起こした。名を呼ばれたのである。父の訓戒を聞かねばならぬ。虜囚となりはてたのである。父が処すなら謹んで受けねばならない。覚悟が腹の奥に伝わり、自然と背筋が美しく伸びた。荀罃は真っ直ぐな目で、荀首を見る。どこか、猛禽を思わせる目つきであった。

 荀首が、荀罃に近づき、その肩を優しく撫でた。

「よくがんばった。その顔つき、お前がいかにがんばったか父はわかる。よくやった」

 深くしわが刻まれた荀首の顔は、優しさと思いやりと、息子への誇りに溢れている。

 荀罃は、荀首にしがみつき、肩に顔を埋めて号泣した。



 さて、余談。

 後日、例の商人が晋に来たとき、荀罃はあたかも命の恩人のように手厚くもてなした。が、商人は

「功が無いのに賞をいただくわけにはまいりません。私は小人です。これを受けては重ね重ね貴き方を欺くことになってしまいます」

 と断り、そのまま他国へ行ってしまった。荀罃の篤実さと共に、このころの商人の人間性がよくわかる逸話である。荀罃たち支配階級が『礼』という文明的価値観を作り上げていた下で、こういった無名の民や士が中国に『侠』という義の概念を作っていく。

 

 とまあ。全てではないが、荀罃は士匄しかいに語った。にえになる宣告と、それを占う遊戯。荘王という偉大な巨人がいかに恐ろしかったか。

「最も危険なとき、集中し、緊張を忘れず、しかし己に空漠を作ることこそ、勝機を掴める。その空漠は突然できるものではない、常に意識せねばならん。いざというより、身が詰まっていれば、余裕が無くなる。そうなれば焦りを生じ、取り返しのつかぬ失敗をする。私は父にそれを教えられ、己の方法を見つけた」

 荀罃の丁寧でわかりやすい語りに、士匄が食い入るように聞き、頷いた。遊戯のくだりなど、戯曲を楽しむかのようにはしゃいだため、荀罃は一度殴っている。

「空漠……。常に余裕を持ち、考えに隙間をおいておくことでしょうか。を杯とするなら、心は水。いつも八分目、七分目の心を持つ。考える時は、どこか空白を置いておく。そうなれば、いざというとき心は理を壊さず、思考に幅は広がる」

 士匄が、手でたまを持つ仕草をしたり、背を測るように手をかざしたりとしながら、言った。本当に、このクソガキは頭だけは良い。全くもってその通りである――理屈だけ並べれば。

「そのとおりだ。汝は飲み込みが早い。で? それができている器であると己で思っているのか、范叔はんしゅく范主はんしゅに聞いている、他家の嗣子を困らせ、己を誇り、失敗を押しつけているとか。今回もそうだ。己が矢を外したことをごまかすために、私にあてこすった。それは余裕ではない。汝の言う杯に水は常に溢れ、持ち主を溺れさせている。そういうたぐいのことだ」

 荀罃の言葉に、士匄が、でもみんなバカでノロマだから、とか、だってわたしがおらねば何もできぬトンマ、などと言い訳をする。そういったところを矯正してくれ、と士爕ししょうは頼み、荀罃ももっともだと思っている。

「『でも』『だって』汝に会ってから、幾度聞いたか。言い訳と理由は似ている。それは認めよう。しかしこうも言う。理由があるから許されるわけでなく、正しいわけでもなく――勝つわけでもない」

 なおも口を開こうとする士匄の襟首を掴むと、荀罃は立ち上がった。少年が、ぐえっという呻き声とともに引きずられるように立ち上がる。

「今から、その辺りをしっかり教え込む。范主――汝のお父上から、ことを許しをいただいている。楚王の教導には及ぶまいが、汝から卑怯、卑劣、卑小全てぬぐい去り、矜持と節度を叩き込んでやる」

 荀罃ご自慢の、士匄専用軍事強化合宿の始まりである。何が起きるかわからず、蒼白なまま抵抗しようとする少年を抱え上げると、荀罃は荷物を感じさせない足取りで訓練場に歩いていった。

 今だ、生け捕りにされたことは汚辱であり、一生背負わなければならない。九年の間囚われ、親に孝行もできないどころか心配をかけたのは、悔いても悔いたりぬ。しかし、楚王に勝ったこと、己の中にもうひとつの杯を見つけたことは、誇りとしている。汚点も後悔も、そして誉れも同様に並べている。それは己を掌握しているに等しい。

 

 荀罃は天才ではない。先人や後進に比べ、華やかな事績を残しているとも言えない。しかし、己の器を正しく把握し、惑うことなく、最期まで後進を導き続けた。そういった人生の男もいた、と誰かの心に残れば良いと筆者は思う。
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