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恋は秋菊の香り
我が心鑒に匪ず、以て茹るべきからず。あたしの心は鏡じゃないから、あなたの気持ちがわかるわけじゃないのよ。
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見つめられた女官といえば、少し頬を染めた。期待に心が弾んだのか口元が少し緩む。むろん、士匄の知ったことではない。視線を外し、州蒲に声をかけた。
「君公。この女官、愉快な芸を持っている。なかなかに頭良く、君公とわたしを『彼の姝たるの子 何を以て之に畀えん』と言祝いだ。良き言葉を多く知っているようです、場の華やぎになるでしょう……さ、我が君のおそばへ行ってこい、良い美声であった」
するすると流れるように言うと、士匄は女官を追っ払った。彼女は名残惜しさを隠さず、州蒲に侍り、命ぜられるままに古詩を紡ぎはじめた。
違う女官が入れ替わりに侍る。
今度は少々幼さが見え、所作も雑であった。しかも、いちいち口で小さく呟きながら酒を注いだり介添えをしている。失敗を怖れているのであろう。緊張のさまがパニック寸前の荀偃のようで、士匄はなごんだ。
ふと、女の首飾りに文字が刻まれていることに気づく。――洛甲 乙亥。
「おい。これはなんだ?」
士匄は女官に覆い被さるように近づき、首飾りを指で軽く引っ張った。女官が、ひぎゃあ、と小さな悲鳴をあげた。そこから口をぱくぱくさせて固まる。きっと、きちんとした文言が思い浮かばないのだろう。
「話し方など気にするな、我ら大夫は民の言葉、下々の言葉に礼無き儀無しを知っている。適当でいい、適当」
男ぶりの良い顔が、至近距離で話しかけてくるのである。若い女官は頬を赤らめながら、何度も頷いた。
「あ、えっと。お守りです。この模様、あたし用って。あの、さっきの子が作ってくれたんです、あ! ……でございます」
思い出したように敬語を付け足す女官の話を聞きながら、士匄は数回こめかみを指で叩き、口を開く。
「お前は衛人か。」
女官がぽかんとした顔で頷いた。
洛甲――。『洛』は周都の名であり、後の洛陽である。周都の若干東北東と言える方角、すなわち甲。黄河を挟んだ河北と河南を含む小国群があるわけだが、その辺りであるていど質の良い人間を生む文化的な国家、となれば衛であった。
この女官に貴族的な教養は無いが、己の分をわきまえるくらいには、質が良い。あとは勘である。
この貴人は一目見て相手の故郷がわかるのか、と女官が驚くのをよそに、士匄はさらに口を開いた。
「……お前がこの晋に来たのは先月の初め……乙亥か」
「はい。あたしたちは乙亥のものと言われてます」
共に買われ連れて来られた女たちを示しながら女官は答え、凄い、大夫さまは何でもわかるんですね、と無邪気に笑む。
乙亥――。六十干支という暦による日付である。甲乙丙丁からはじまる十干と、子丑寅ではじまる十二支の組み合わせであるが、まあ、この稿でさほど重要ではない。
洛甲 乙亥
その文字が刻まれた首飾りを指で軽く弾いた後、士匄は女官――衛女の顔を覗きこんだ。
「大夫がなんでもわかるわけじゃあ、ない。わたしがなんでもわかるだけだ。お前は人の善意を素直に受ける、みな親切にしてくれたろう。そのようなものは良きはしためになるであろう、励め」
衛から売られ乙亥に入荷された物。そんな名札を護符だと喜ぶくらいには、素直であり無知である。しかし、下々が互いの悪意に気づいて殺伐とするよりは、気づかずおめでたい方が、為政者としては気楽であった。
「君公。この女官、愉快な芸を持っている。なかなかに頭良く、君公とわたしを『彼の姝たるの子 何を以て之に畀えん』と言祝いだ。良き言葉を多く知っているようです、場の華やぎになるでしょう……さ、我が君のおそばへ行ってこい、良い美声であった」
するすると流れるように言うと、士匄は女官を追っ払った。彼女は名残惜しさを隠さず、州蒲に侍り、命ぜられるままに古詩を紡ぎはじめた。
違う女官が入れ替わりに侍る。
今度は少々幼さが見え、所作も雑であった。しかも、いちいち口で小さく呟きながら酒を注いだり介添えをしている。失敗を怖れているのであろう。緊張のさまがパニック寸前の荀偃のようで、士匄はなごんだ。
ふと、女の首飾りに文字が刻まれていることに気づく。――洛甲 乙亥。
「おい。これはなんだ?」
士匄は女官に覆い被さるように近づき、首飾りを指で軽く引っ張った。女官が、ひぎゃあ、と小さな悲鳴をあげた。そこから口をぱくぱくさせて固まる。きっと、きちんとした文言が思い浮かばないのだろう。
「話し方など気にするな、我ら大夫は民の言葉、下々の言葉に礼無き儀無しを知っている。適当でいい、適当」
男ぶりの良い顔が、至近距離で話しかけてくるのである。若い女官は頬を赤らめながら、何度も頷いた。
「あ、えっと。お守りです。この模様、あたし用って。あの、さっきの子が作ってくれたんです、あ! ……でございます」
思い出したように敬語を付け足す女官の話を聞きながら、士匄は数回こめかみを指で叩き、口を開く。
「お前は衛人か。」
女官がぽかんとした顔で頷いた。
洛甲――。『洛』は周都の名であり、後の洛陽である。周都の若干東北東と言える方角、すなわち甲。黄河を挟んだ河北と河南を含む小国群があるわけだが、その辺りであるていど質の良い人間を生む文化的な国家、となれば衛であった。
この女官に貴族的な教養は無いが、己の分をわきまえるくらいには、質が良い。あとは勘である。
この貴人は一目見て相手の故郷がわかるのか、と女官が驚くのをよそに、士匄はさらに口を開いた。
「……お前がこの晋に来たのは先月の初め……乙亥か」
「はい。あたしたちは乙亥のものと言われてます」
共に買われ連れて来られた女たちを示しながら女官は答え、凄い、大夫さまは何でもわかるんですね、と無邪気に笑む。
乙亥――。六十干支という暦による日付である。甲乙丙丁からはじまる十干と、子丑寅ではじまる十二支の組み合わせであるが、まあ、この稿でさほど重要ではない。
洛甲 乙亥
その文字が刻まれた首飾りを指で軽く弾いた後、士匄は女官――衛女の顔を覗きこんだ。
「大夫がなんでもわかるわけじゃあ、ない。わたしがなんでもわかるだけだ。お前は人の善意を素直に受ける、みな親切にしてくれたろう。そのようなものは良きはしためになるであろう、励め」
衛から売られ乙亥に入荷された物。そんな名札を護符だと喜ぶくらいには、素直であり無知である。しかし、下々が互いの悪意に気づいて殺伐とするよりは、気づかずおめでたい方が、為政者としては気楽であった。
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