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恋は秋菊の香り
毖たる彼お泉水、亦た淇に流る。湧きでた泉の水は川に流れ着くのに、私は帰ることができない
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「……あなたは狄の方なのですね。狄の方々は年に何度も移動し、獣を追い山の恵みを祀り、皆で穀物を分け合っておられると聞きます。山に廟があるのですか?」
春に山で見た社を思い出しながら、趙武は問うた。狄とは周の文化圏から外れた移動民族たちである。遊牧民族や狩猟民族が近いであろうか。この女官、狄女はカラカラ笑いながら、まさかあ、と言う。
「ここでは黄泉が土の下にあると聞きます、廟って土の上にあるんでしょう。私たちは山から天に昇って、黄泉へ向かうんです。きっと黄泉てたくさんあるんでしょうね。鳥はご先祖さまのお使いです。鳥に連れていってもらうために、山に体を置いてもらうのですよ」
「そうですね、鳥はご先祖さまの魂でもあります。ああして天を飛んで我らを見守り見張ってくださっている」
狄女の言葉を受けて趙武は空を見上げた。雁が群れをなして飛んでいた。
――飛んで帰りたい
狄女が小さく呟いたのを、趙武は聞かなかったふりをした。
この、戦争で狩られたのか人減らしに売られたのか分からぬ異文化の女を、趙武は救うことなどできない。彼女は君主の財産である。
が、まあここで、何事も無かったようにさらっと動けぬのが、未成熟の若者である。一人の青年として女の子の心を明るくしたい、という気持ちが生まれた。
女官たちを見て思ったのが、女子というのは柔らかそうで小さく、そして笑顔のほうが見ていて気分が良いということであった。
「あなたは狄の方。山の恵みには香草も薬草もございます。きっと良き目利きなのでしょう。私のために蘭を見繕ってきてもらえませんか。もちろん国君の財産でございますので、後で私からきちんとお許しを願います。匂い袋ていどです、量はいりません」
趙武の言葉に、狄女は頷いて駆けていく。
彼女は、どこかに買い取られないかぎり、晋公所有の女官として生きていかなければならない。そのためには己の得意分野を意識してほしく、もっといえば誇りを忘れて欲しくないという気持ちをこめて、趙武は頼んだ。不器用な励ましであったが、彼の精一杯である。
衣擦れの音、草をかきわける音がかすかに聞こえる。真剣に選んでいるのか、声も聞こえない。趙武は静かに待った。
彼女が強引に庭へ連れてきた理由はわからない。のびのびと好きなものを話したのは、趙武に威圧が無いからであろう。そして弱音をもらしたのは趙武を信じたからであろう、きっと。
「……弱い立場の方の声を聞いても、何もできないのでは一緒ですね」
趙武は自嘲しながら、呟いた。そうして、しばらく。いやかなり待つ。空を眺めたり、雲の数をかぞえたりと、子供のような暇つぶしにも限界がある。ふと、狄女の気配が、無くなっている気がした。
「もし」
フジバカマのあたりまで歩いてみれば、狄女はいなかった。座っていた形跡はあるが、趙武に渡すための花も置いていない。
「お役目の方々に見つかって、連れて行かれたのでしょうか。私がぼんやりしていて、気づかなかったのかもしれません。悪いことをしてしまいました……」
女官が勝手にいなくなるとは思えない。おおかた、フジバカマを世話するものに見つかり、罰を受けているのではないか。趙武は己の浅はかさを責めた。
俯いてとぼとぼと歩き、近くの木に寄りかかる。その立派なブナは、美しい黄葉にそまり、ちらちらと金色の葉が落ちてくる。趙武の頭にも、一葉、かさりと落ちた。その後、ぼっとりと落ちてくるものがある。
「え?」
己の頭になまぐさいもの、生温かいものが落ちてきたと、趙武はとまどいながら上を向いた。
木の枝から、どぼっと、血の塊が落ちてきて、趙武は顔にひっかぶった。凄まじい臭気、なまぐささである。血の中にあった、何かが口に入ってしまったため、慌てて吐き出した。
己の心臓の音がうるさい。とても大きくうるさい。頭がガンガンと痛くなってきた。逃げだしたく、そして逃げだすべきだと思っていたのに、趙武はこわごわと、もう一度木の上を見た。
宮中の庭で、いつも木の実や虫、トカゲを食べているであろう、鳥が、いた。たくさん、いた。血まみれのそれをつついて、少しずつ食べているようであった。頭を半分かち割られたそこから、脳みそが垂れてきている。趙武はこれをかぶったらしい。
「ひっ」
手足が裂かれ、頭が半分潰されて、首がのけぞってドロドロとボタボタと流れ、落葉と共にふわふわとフジバカマも落ちてくる。
「い、やああああああああああああああああああああああっ」
趙武は狄女の血と脳みそと脳漿をひっかぶりながら、悲鳴をあげた。
春に山で見た社を思い出しながら、趙武は問うた。狄とは周の文化圏から外れた移動民族たちである。遊牧民族や狩猟民族が近いであろうか。この女官、狄女はカラカラ笑いながら、まさかあ、と言う。
「ここでは黄泉が土の下にあると聞きます、廟って土の上にあるんでしょう。私たちは山から天に昇って、黄泉へ向かうんです。きっと黄泉てたくさんあるんでしょうね。鳥はご先祖さまのお使いです。鳥に連れていってもらうために、山に体を置いてもらうのですよ」
「そうですね、鳥はご先祖さまの魂でもあります。ああして天を飛んで我らを見守り見張ってくださっている」
狄女の言葉を受けて趙武は空を見上げた。雁が群れをなして飛んでいた。
――飛んで帰りたい
狄女が小さく呟いたのを、趙武は聞かなかったふりをした。
この、戦争で狩られたのか人減らしに売られたのか分からぬ異文化の女を、趙武は救うことなどできない。彼女は君主の財産である。
が、まあここで、何事も無かったようにさらっと動けぬのが、未成熟の若者である。一人の青年として女の子の心を明るくしたい、という気持ちが生まれた。
女官たちを見て思ったのが、女子というのは柔らかそうで小さく、そして笑顔のほうが見ていて気分が良いということであった。
「あなたは狄の方。山の恵みには香草も薬草もございます。きっと良き目利きなのでしょう。私のために蘭を見繕ってきてもらえませんか。もちろん国君の財産でございますので、後で私からきちんとお許しを願います。匂い袋ていどです、量はいりません」
趙武の言葉に、狄女は頷いて駆けていく。
彼女は、どこかに買い取られないかぎり、晋公所有の女官として生きていかなければならない。そのためには己の得意分野を意識してほしく、もっといえば誇りを忘れて欲しくないという気持ちをこめて、趙武は頼んだ。不器用な励ましであったが、彼の精一杯である。
衣擦れの音、草をかきわける音がかすかに聞こえる。真剣に選んでいるのか、声も聞こえない。趙武は静かに待った。
彼女が強引に庭へ連れてきた理由はわからない。のびのびと好きなものを話したのは、趙武に威圧が無いからであろう。そして弱音をもらしたのは趙武を信じたからであろう、きっと。
「……弱い立場の方の声を聞いても、何もできないのでは一緒ですね」
趙武は自嘲しながら、呟いた。そうして、しばらく。いやかなり待つ。空を眺めたり、雲の数をかぞえたりと、子供のような暇つぶしにも限界がある。ふと、狄女の気配が、無くなっている気がした。
「もし」
フジバカマのあたりまで歩いてみれば、狄女はいなかった。座っていた形跡はあるが、趙武に渡すための花も置いていない。
「お役目の方々に見つかって、連れて行かれたのでしょうか。私がぼんやりしていて、気づかなかったのかもしれません。悪いことをしてしまいました……」
女官が勝手にいなくなるとは思えない。おおかた、フジバカマを世話するものに見つかり、罰を受けているのではないか。趙武は己の浅はかさを責めた。
俯いてとぼとぼと歩き、近くの木に寄りかかる。その立派なブナは、美しい黄葉にそまり、ちらちらと金色の葉が落ちてくる。趙武の頭にも、一葉、かさりと落ちた。その後、ぼっとりと落ちてくるものがある。
「え?」
己の頭になまぐさいもの、生温かいものが落ちてきたと、趙武はとまどいながら上を向いた。
木の枝から、どぼっと、血の塊が落ちてきて、趙武は顔にひっかぶった。凄まじい臭気、なまぐささである。血の中にあった、何かが口に入ってしまったため、慌てて吐き出した。
己の心臓の音がうるさい。とても大きくうるさい。頭がガンガンと痛くなってきた。逃げだしたく、そして逃げだすべきだと思っていたのに、趙武はこわごわと、もう一度木の上を見た。
宮中の庭で、いつも木の実や虫、トカゲを食べているであろう、鳥が、いた。たくさん、いた。血まみれのそれをつついて、少しずつ食べているようであった。頭を半分かち割られたそこから、脳みそが垂れてきている。趙武はこれをかぶったらしい。
「ひっ」
手足が裂かれ、頭が半分潰されて、首がのけぞってドロドロとボタボタと流れ、落葉と共にふわふわとフジバカマも落ちてくる。
「い、やああああああああああああああああああああああっ」
趙武は狄女の血と脳みそと脳漿をひっかぶりながら、悲鳴をあげた。
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