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恋は秋菊の香り
墓門に棘あり。あなたの墓は不吉ないばらで覆われている。
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「あの。あの。なに。あの人はどうして、私を掴んだのです。范叔も、どうしてあんな乱暴を」
趙武がとんまなことを言った。士匄は見下ろしながら、侮蔑の顔を見せた。
「お前は、わたしの前で食われかけた。本当に鈍くさい。……最初の女はわからんが、お前にせまった二人はおかしい」
「なにがですか」
反射的に問う趙武のとなりに、士匄は座って話を続ける。
「ここの女官、我らのはしため。どちらも買い付けた女の奴隷だ。主ある奴隷が他者に己を売り込む。女が自ら場所を求める。思いつくことさえ、ありえんだろう」
当時、女性は親か夫の持ち物である。そして生まれがどうであれ奴隷になれば主人の持ち物である。二重の意味で人生を選べぬ思考の者が、稚拙な方法とはいえ現状から逃げようとする。
現代で言えば、酒を飲めぬものは嫌なことがあってもやけ酒を考えない、という程度の、当たり前の話である。
「いやその食われかけた、はともかく……。恐ろしいことがあって、逃げたくなるというのはあるのではないでしょうか」
襲いかからんばかりの楚女の剣幕に怯えはしたが、しかし彼女に恐怖の念はあった。趙武が最後にそう付け加える。士匄は考え込んだ。
「……一番の疑問は、だ。女官二人が何故、我らの物になるのが良いと思い込んでいたか、だ。やりかたが直裁的なのは脳が無いからだろうが」
士匄の言葉を聞いているうちに、気持ちが落ち着いてきたのであろう。趙武が今さら震えだした。
「あの、女人というものは、細く小さく柔らかそうなのに、あんな、その、おそろしいものなのですか。えっと、妻妾も、ですか」
狄女は強引でもあどけなさがあった。しかし、楚女は少々肉感的なこともあり、迫力があった。この青年は、今さらながら恐怖を感じた。本当に、童貞以下である。
「は? あの程度、かわいいものだろうが。あそこまでさせたのはお前だ」
士匄は、呆れた顔で言い放った。
さて、視点を変える。洛午庚辰の女官である。
彼女は、士匄の指摘どおり、楚の出身であった。
楚とは晋と対立する南の大国である。
まあ、良くある話だが、飢饉で税が払えず売りに出された娘である。肌が少々浅黒かったが、器量が良かったため躾けられて晋に売られた。
楚に残った親は飢饉が続き飢え死んだのであるから、売られて良かったというものか。
親がどうなったかなど知らぬまま、楚女は女官として生きることを受け入れていた。
受け入れていたはずであったが、今日に限ってそれが嫌だと思ってしまった。狄女と張り合うように趙武に己を誇示し、あげくに媚態まで作った。彼女は、男を知らぬため、見よう見まねである。
「恥ずかしい!」
ぼさぼさの髪のまま、庭まで飛び出て、一人で叫んだ。
別段職分に誇りがあるというわけではない。単に、人として女として恥ずかしかっただけである。それと共に、どうしてあんなことをしてしまったのか、と自分でも不思議でならなかった。
「……どうしよう、告げ口されて、役立たずって言われたら、追い出されてしまう」
晋公の女官であるからこそ、それなりの衣服を着て、屋根のある場所で眠れる。食事も貧しいが、ある。実家の生活など、草で編んだボロを着て、地面の上で寝ていたものだった。食べると言えば限界まで膨らませた豆であり、木の根をかじりつづけたこともある。そんな生活が当然であった。
「ああどうしよう! 告げ口されて、罰をもらうかもしれないわ。豚の餌になってしまう」
逃げだした奴隷が掴まり、家畜の餌になったことを思い出しながら、楚女は手で顔を覆った。
――この宮の中にいるものは、全て役に立たなければならないのよ。
そう、言っていたのは誰であろうか。
「私は、なんてダメな子!」
自虐と自己陶酔、そして精神的自慰である。
そんな言葉を己に向けて鼓舞し、立ち上がろうとするものは、古今東西多いであろう。彼女も、そんな儀式をしただけであった。
白い、美しい女の手が何本も楚女の体に絡みつき、引き倒す。そうして、悲鳴を上げる間もなく、ごきゅんと首をへし折った。嫋々とした女の腕でも、幾つもあれば、凄まじい力なのだろう。
その体に、土がかけられる。埋葬されたいと言っていたのであるから、彼女の夢はひとつは実現した。
趙武がとんまなことを言った。士匄は見下ろしながら、侮蔑の顔を見せた。
「お前は、わたしの前で食われかけた。本当に鈍くさい。……最初の女はわからんが、お前にせまった二人はおかしい」
「なにがですか」
反射的に問う趙武のとなりに、士匄は座って話を続ける。
「ここの女官、我らのはしため。どちらも買い付けた女の奴隷だ。主ある奴隷が他者に己を売り込む。女が自ら場所を求める。思いつくことさえ、ありえんだろう」
当時、女性は親か夫の持ち物である。そして生まれがどうであれ奴隷になれば主人の持ち物である。二重の意味で人生を選べぬ思考の者が、稚拙な方法とはいえ現状から逃げようとする。
現代で言えば、酒を飲めぬものは嫌なことがあってもやけ酒を考えない、という程度の、当たり前の話である。
「いやその食われかけた、はともかく……。恐ろしいことがあって、逃げたくなるというのはあるのではないでしょうか」
襲いかからんばかりの楚女の剣幕に怯えはしたが、しかし彼女に恐怖の念はあった。趙武が最後にそう付け加える。士匄は考え込んだ。
「……一番の疑問は、だ。女官二人が何故、我らの物になるのが良いと思い込んでいたか、だ。やりかたが直裁的なのは脳が無いからだろうが」
士匄の言葉を聞いているうちに、気持ちが落ち着いてきたのであろう。趙武が今さら震えだした。
「あの、女人というものは、細く小さく柔らかそうなのに、あんな、その、おそろしいものなのですか。えっと、妻妾も、ですか」
狄女は強引でもあどけなさがあった。しかし、楚女は少々肉感的なこともあり、迫力があった。この青年は、今さらながら恐怖を感じた。本当に、童貞以下である。
「は? あの程度、かわいいものだろうが。あそこまでさせたのはお前だ」
士匄は、呆れた顔で言い放った。
さて、視点を変える。洛午庚辰の女官である。
彼女は、士匄の指摘どおり、楚の出身であった。
楚とは晋と対立する南の大国である。
まあ、良くある話だが、飢饉で税が払えず売りに出された娘である。肌が少々浅黒かったが、器量が良かったため躾けられて晋に売られた。
楚に残った親は飢饉が続き飢え死んだのであるから、売られて良かったというものか。
親がどうなったかなど知らぬまま、楚女は女官として生きることを受け入れていた。
受け入れていたはずであったが、今日に限ってそれが嫌だと思ってしまった。狄女と張り合うように趙武に己を誇示し、あげくに媚態まで作った。彼女は、男を知らぬため、見よう見まねである。
「恥ずかしい!」
ぼさぼさの髪のまま、庭まで飛び出て、一人で叫んだ。
別段職分に誇りがあるというわけではない。単に、人として女として恥ずかしかっただけである。それと共に、どうしてあんなことをしてしまったのか、と自分でも不思議でならなかった。
「……どうしよう、告げ口されて、役立たずって言われたら、追い出されてしまう」
晋公の女官であるからこそ、それなりの衣服を着て、屋根のある場所で眠れる。食事も貧しいが、ある。実家の生活など、草で編んだボロを着て、地面の上で寝ていたものだった。食べると言えば限界まで膨らませた豆であり、木の根をかじりつづけたこともある。そんな生活が当然であった。
「ああどうしよう! 告げ口されて、罰をもらうかもしれないわ。豚の餌になってしまう」
逃げだした奴隷が掴まり、家畜の餌になったことを思い出しながら、楚女は手で顔を覆った。
――この宮の中にいるものは、全て役に立たなければならないのよ。
そう、言っていたのは誰であろうか。
「私は、なんてダメな子!」
自虐と自己陶酔、そして精神的自慰である。
そんな言葉を己に向けて鼓舞し、立ち上がろうとするものは、古今東西多いであろう。彼女も、そんな儀式をしただけであった。
白い、美しい女の手が何本も楚女の体に絡みつき、引き倒す。そうして、悲鳴を上げる間もなく、ごきゅんと首をへし折った。嫋々とした女の腕でも、幾つもあれば、凄まじい力なのだろう。
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