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恋は秋菊の香り
叔や伯や、駕さば予ともに行かん。誰でもいいわ、迎えに来てくれたら私はあなたのものになる
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日は中天を過ぎ、高い空が突き抜けるように蒼い。羊の群れを思わせる雲が少しずつ形を変えてゆっくりと流れていた。
朝の議、学びの時間を終え、父を迎えて帰る。帰宅すれば家長を継ぐ者としての研鑽に務める。それが韓無忌の毎日である。
しかし、この日は父への言づけをしたあと、足を庭に向けた。君主の庭に近い、菊のある場所である。
戻らぬ趙武、姿を見せぬ士匄が心配だ、というのは本当である。彼は後輩たちが厄介な事件に巻き込まれていないかと、気を揉んでいる。だが、それなら堂々と取り次ぎを頼み、門の前でまず控えるべきである。君主の住む内宮へと入る、門の前で控え、趙武や士匄を待つべきであった。
韓無忌は、菊の香りに満ちた庭へと足を踏み入れていた。
「事を荒げたくない……というのは欺瞞であるな」
一言つぶやき吐息をついた。
ぼんやりとした視界の中、杖を使いまっすぐと歩いて行く。
冷たいながらも未だ柔らかい風、豊穣の香りは心地よい。ピィーピョロロと鳴いていた鴫はもう南に旅立ったのであろう。初夏に恋を語らうような鳴き声を韓無忌は嫌いではない。それが途切れ始めるころ、秋の深まりを強く感じるのだった。空を見ても山を見てもぼんやりとした変化しかわからぬ韓無忌にとって、風と香りと音が世界の入り口であった。
海の向こうへ旅立つ鳥は祖霊が宿り、海に出れば魚となって世界の果てへ向かう。それは黄泉であろうか。――宮中に死者が出たという。その女官は、鳥に抱かれ黄泉に向かうことができるのか。
凶事を告げてこれ以上来るなとした女官は、拒絶ではなく労りがあった。身分の断絶を自ら体現しながら、韓無忌への労りは忘れていなかった。
「良き……。そう、女官として良き働きをなされた方、私はそれを嘉していない」
韓無忌は杖をつきながら、言い訳を吐いた。欺瞞を自覚しながらも、さらなる欺瞞を重ねている姿は全く彼らしくない。慎み深く謙譲を忘れず、常に真面目で正直であり公事に厳格で、しかし人情を忘れない。全て韓無忌を表す。
が、今の彼にそれは無い。まぶたを閉じれば美しい女官が菊を差し出す姿が現れる。己はどうかしていると思いながら、足を進めていく。ゆっくり、杖をよすがに歩いて行く。
菊の香りが強く漂いはじめた先に、ぼんやりと人影が見えてくる。――菊の女官であった。
さて、視点を変える。ころころ変わって申し訳ないが、この話の主人公は士匄であり、準主人公は趙武であるため、ご了承いただきたい。
洛午庚辰の女が出ていったあと、士匄は寺人に女を呼ぶよう命じた。趙武がひそかに怯えを見せる。
「あの、また大変なことになりませんか」
士匄の言うとおり、女官が何やらおかしい動きをしているのであれば、また同じようなことがくり返される。細い首、薄い肩、柔らかくか弱さを感じさせる女性たちが圧迫とともににじり寄ってくるのは、怖ろしささえあった。
「もしそうならば、また追い払えば良い。まあ、今度はそうならぬであろうよ」
自信をもって士匄は断言した。趙武がいぶかしげな顔をしたが、説明さえしなかった。
はたして、呼ばれた女官は、はしたなく言い寄るようなことはしなかった。見目良く整った顔に、少々の嫌悪をうかべている。強い目の光は選民特有の知性が見えた。――士匄にこっぴどく振られた、賢しい女官である。
「数ある女官の中でわざわざ私をお呼びいただき、恐悦至極に存じます。ご指名でございます、君公に仕えるものとして誠心誠意侍る所存でございます」
見事な拝礼を見せ、かしずくと、士匄と趙武に酒を注いだ。その仕草ひとつもっても、外れた儀は無い。付け焼き刃の教育を受けたものどもとは違う、教養があった。
趙武は女官の顔をそっと見た。彼女は、士匄に悪感情を抱いているようであるが、趙武にも冷たい。饗応はするが、心は添わせたくない、という態度がありありとある。この素晴らしい儀には礼という心が無い。それができてしまうほどには、彼女は儀礼を知っている。
「浅い。わたしがお前を振ったからと言って、そのような態度をとるな。さて。お前は首飾りをつけていない、というわけか」
士匄は嘲笑を隠さず言い、指さすように杯をつきだした。いまだ空になっていないそれに目を一瞬だけ向けたあと、女官も嘲りを隠さず笑む。
「あんなものを護符だと信じる愚かな奴婢と同じと思われれば業腹というものです。いえ、護符でございましょうね、生まれの地精と君公への忠を誓った日ですもの。そしてこの私が書いた文字です、加護があるでしょう」
「仕入れ元と仕入れた日も、ものは言いようだな。それがお前の素か。まあ、昨夜よりはマシというものだ」
とげとげしい会話を繰り広げる様子に、趙武が困惑し口を開いた。
「あの、お知り合いなのですか」
まさか、と士匄と女官は同時に言う。
「この女は君公の女官でありながら、昨夜の宴席でわたしに己を売り込んだ。お前に迫った女官と変わらん」
「他の女官と同じにしないでくださいまし。私、本来は卿に嫁ぐはずの血を持っているのです、のろまな奴隷に混じって、あんな君公に侍って、一生を終える奴隷なんてふさわしくない。あなたを見込んで私は才を見せたというのに、芸などとバカになされる。期待はずれもよいところです」
投げやりな態度の士匄に女官が蔑みを隠さずに言う。傲岸と高慢が同時に現れたと趙武はうんざりした。
が、うんざりだけで終わらないのが趙武という青年である。彼は狄女、楚女と二人の女官と話した。そしてこの女官ときて、すぐに気づいた。
「あなたは、晋人ですね。この晋の、貴き生まれのお方。言葉でわかります」
「……だからどうしたというのでしょうか、趙氏の長。憐れみでもわきましたか、いえ、わいたのは優越感でしょうか」
趙武の言葉に、女官が棘のある声で返した。
朝の議、学びの時間を終え、父を迎えて帰る。帰宅すれば家長を継ぐ者としての研鑽に務める。それが韓無忌の毎日である。
しかし、この日は父への言づけをしたあと、足を庭に向けた。君主の庭に近い、菊のある場所である。
戻らぬ趙武、姿を見せぬ士匄が心配だ、というのは本当である。彼は後輩たちが厄介な事件に巻き込まれていないかと、気を揉んでいる。だが、それなら堂々と取り次ぎを頼み、門の前でまず控えるべきである。君主の住む内宮へと入る、門の前で控え、趙武や士匄を待つべきであった。
韓無忌は、菊の香りに満ちた庭へと足を踏み入れていた。
「事を荒げたくない……というのは欺瞞であるな」
一言つぶやき吐息をついた。
ぼんやりとした視界の中、杖を使いまっすぐと歩いて行く。
冷たいながらも未だ柔らかい風、豊穣の香りは心地よい。ピィーピョロロと鳴いていた鴫はもう南に旅立ったのであろう。初夏に恋を語らうような鳴き声を韓無忌は嫌いではない。それが途切れ始めるころ、秋の深まりを強く感じるのだった。空を見ても山を見てもぼんやりとした変化しかわからぬ韓無忌にとって、風と香りと音が世界の入り口であった。
海の向こうへ旅立つ鳥は祖霊が宿り、海に出れば魚となって世界の果てへ向かう。それは黄泉であろうか。――宮中に死者が出たという。その女官は、鳥に抱かれ黄泉に向かうことができるのか。
凶事を告げてこれ以上来るなとした女官は、拒絶ではなく労りがあった。身分の断絶を自ら体現しながら、韓無忌への労りは忘れていなかった。
「良き……。そう、女官として良き働きをなされた方、私はそれを嘉していない」
韓無忌は杖をつきながら、言い訳を吐いた。欺瞞を自覚しながらも、さらなる欺瞞を重ねている姿は全く彼らしくない。慎み深く謙譲を忘れず、常に真面目で正直であり公事に厳格で、しかし人情を忘れない。全て韓無忌を表す。
が、今の彼にそれは無い。まぶたを閉じれば美しい女官が菊を差し出す姿が現れる。己はどうかしていると思いながら、足を進めていく。ゆっくり、杖をよすがに歩いて行く。
菊の香りが強く漂いはじめた先に、ぼんやりと人影が見えてくる。――菊の女官であった。
さて、視点を変える。ころころ変わって申し訳ないが、この話の主人公は士匄であり、準主人公は趙武であるため、ご了承いただきたい。
洛午庚辰の女が出ていったあと、士匄は寺人に女を呼ぶよう命じた。趙武がひそかに怯えを見せる。
「あの、また大変なことになりませんか」
士匄の言うとおり、女官が何やらおかしい動きをしているのであれば、また同じようなことがくり返される。細い首、薄い肩、柔らかくか弱さを感じさせる女性たちが圧迫とともににじり寄ってくるのは、怖ろしささえあった。
「もしそうならば、また追い払えば良い。まあ、今度はそうならぬであろうよ」
自信をもって士匄は断言した。趙武がいぶかしげな顔をしたが、説明さえしなかった。
はたして、呼ばれた女官は、はしたなく言い寄るようなことはしなかった。見目良く整った顔に、少々の嫌悪をうかべている。強い目の光は選民特有の知性が見えた。――士匄にこっぴどく振られた、賢しい女官である。
「数ある女官の中でわざわざ私をお呼びいただき、恐悦至極に存じます。ご指名でございます、君公に仕えるものとして誠心誠意侍る所存でございます」
見事な拝礼を見せ、かしずくと、士匄と趙武に酒を注いだ。その仕草ひとつもっても、外れた儀は無い。付け焼き刃の教育を受けたものどもとは違う、教養があった。
趙武は女官の顔をそっと見た。彼女は、士匄に悪感情を抱いているようであるが、趙武にも冷たい。饗応はするが、心は添わせたくない、という態度がありありとある。この素晴らしい儀には礼という心が無い。それができてしまうほどには、彼女は儀礼を知っている。
「浅い。わたしがお前を振ったからと言って、そのような態度をとるな。さて。お前は首飾りをつけていない、というわけか」
士匄は嘲笑を隠さず言い、指さすように杯をつきだした。いまだ空になっていないそれに目を一瞬だけ向けたあと、女官も嘲りを隠さず笑む。
「あんなものを護符だと信じる愚かな奴婢と同じと思われれば業腹というものです。いえ、護符でございましょうね、生まれの地精と君公への忠を誓った日ですもの。そしてこの私が書いた文字です、加護があるでしょう」
「仕入れ元と仕入れた日も、ものは言いようだな。それがお前の素か。まあ、昨夜よりはマシというものだ」
とげとげしい会話を繰り広げる様子に、趙武が困惑し口を開いた。
「あの、お知り合いなのですか」
まさか、と士匄と女官は同時に言う。
「この女は君公の女官でありながら、昨夜の宴席でわたしに己を売り込んだ。お前に迫った女官と変わらん」
「他の女官と同じにしないでくださいまし。私、本来は卿に嫁ぐはずの血を持っているのです、のろまな奴隷に混じって、あんな君公に侍って、一生を終える奴隷なんてふさわしくない。あなたを見込んで私は才を見せたというのに、芸などとバカになされる。期待はずれもよいところです」
投げやりな態度の士匄に女官が蔑みを隠さずに言う。傲岸と高慢が同時に現れたと趙武はうんざりした。
が、うんざりだけで終わらないのが趙武という青年である。彼は狄女、楚女と二人の女官と話した。そしてこの女官ときて、すぐに気づいた。
「あなたは、晋人ですね。この晋の、貴き生まれのお方。言葉でわかります」
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