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第3話 要塞を追う影
観測甲板へ戻ったレインは、先ほどまでとは違う目で外を見ていた。
朝の陽光に照らされた山並みは相変わらず美しい。森の緑は深く、川は静かにきらめき、風に揺れる草原は何事もないように穏やかだ。
だが今のレインには、その穏やかさが少しだけ信用ならなかった。
「……見た目は平和なんだけどな」
透明な壁の向こうに広がる景色は、絵に描いたような静けさをたたえている。けれど実際には、ついさっき狼が三匹も寄ってきたのだ。しかもその先には、あのフィアが怯える何かがいるかもしれない。
『周辺索敵を継続中です』
「何かわかったか?」
『現在、大型敵性反応なし。人為的活動痕跡を広域走査中』
「人為的活動って、足跡とか焚き火の跡とか、そういうのもわかるのか?」
『一部推定可能です』
すごいな、と言いかけて、今さら感心しても仕方ない気がしてやめた。
レインは壁際の台に肘をつき、北東方向へ視線を向ける。フィアが倒れていた辺りは、ここからではもう草の揺れにしか見えない。あんな小さな場所にひとり倒れていた少女を、もしこの要塞が見つけてくれなかったら――そう思うと、背筋が少し冷えた。
「フィアは、何から逃げてきたんだろうな」
つぶやきは、誰に向けたものでもない。
だが要塞の声は律儀に返してくる。
『現時点で断定はできません。対象個体の服装、外傷、疲労状態から、長距離移動と回避行動の可能性が高いと推定します』
「回避行動、か……」
確かに、服の破れ方はただ転んだだけではなかった。枝に引っかけたような裂け、泥、擦り傷。休まずに森を突っ切ってきたなら、ああなってもおかしくない。
問題は、その理由だ。
追われていたのなら誰に。あるいは、何に。
レインは顎に手を当てた。
「人間相手なら厄介だな。魔物なら魔物で厄介だけど」
『管理者権限者の戦力のみでは継続対応に不安があります』
「はっきり言うな……」
否定はできない。
レインは冒険者として致命的に弱いわけではない。むしろ堅実に立ち回るほうで、小型の魔物や野外でのトラブル対処には慣れている。だが、突出した火力もなければ、一騎当千の剣技があるわけでもない。昨日までは、それゆえに“地味で役立たず”扱いされた。
そのことを思い出して、少しだけ胸の奥がざらつく。
だが同時に、今の自分には昨日までと違うものがある。
この巨大な要塞だ。
「なあ」
『はい』
「もし本当に誰かがここを見つけて近づいてきたら、どうなる?」
『出入口の封鎖、防壁の強化、最低限の迎撃機構の起動が可能です』
「最低限ってどれくらいだ」
『小規模集団の接近牽制程度です』
「充分じゃないか?」
思わず声が少し明るくなる。
だが、次の説明でそれも少ししぼんだ。
『ただし多くの機構は長期休眠明けであり、出力は本来性能を大きく下回ります』
「……だよな」
『また、管理者権限者の理解不足により、現段階で使用可能な機能は限定的です』
「ぐっ」
痛いところを突かれた。
要塞はすごい。けれど、すごさを使いこなせるかは別問題だ。今のレインは家を手に入れたばかりの新米主人でしかない。巨大な台所や畑や風呂に感動している段階で、防衛機構だの機関部だのまで把握できていないのは当然と言えば当然だった。
「……まずは勉強しろってことか」
『推奨します』
「わかった。今日は周辺の確認と、防衛回りの確認を優先だな」
そう決めた瞬間だった。
甲板の中央、何もなかった空間に光が集まり、半透明の立体図が浮かび上がる。山、川、森、そして要塞本体らしき巨大な点。周囲にいくつもの印が散らばっていた。
「うおっ」
『周辺地形簡易投影図です』
「急に出すな……まあ、便利だけど」
レインは投影図を覗き込んだ。
要塞の位置から見て北には深い森、東には川とその先のなだらかな丘陵、南側は岩場が多く、西には比較的歩きやすそうな地形が続いている。そのさらに先には、細い線――街道だろうか――のようなものが見えた。
「これ、道か?」
『高頻度通行痕跡です。街道または巡回路と推定』
「ふむ……」
完全に孤立しているわけではないらしい。街道があるなら、近くに村か小さな町があってもおかしくない。生活物資を手に入れるには都合がいいが、人目につく危険も増す。
「要塞を動かすなら、街道に近づきすぎないほうがよさそうだな」
『合理的判断です』
「だろ?」
少し得意げに言ったあとで、自分が褒められたがっていることに気づいて苦笑する。
昨日まで、自分の判断をまともに評価されることなどほとんどなかった。だからなのか、こうして“合理的”と返されるだけで妙にむずがゆくなる。
そのとき、立体図の北東側で小さな点が明滅した。
「ん?」
『微弱な移動反応を確認』
「どこだ?」
『フィア発見地点のさらに北東。距離あり。単独または少数』
「人か?」
『判別不能です』
レインの表情が引き締まる。
フィアのいた方向の先。偶然で済ませるには、少し気になる位置関係だった。
「こっちへ向かってるのか?」
『現在、断続的移動。直進性は低い』
「……捜索してるようにも見えるな」
投影図の点は、真っ直ぐではなく、少しずつ左右へ振れながら進んでいた。獣が獲物を追う動きにも似ているし、人が何かを探しながら歩く姿にも見える。
どちらにせよ、気分のいいものではない。
「フィアが起きたら、できるだけ事情を聞くか」
そう呟きつつも、レインはすぐには部屋へ戻らなかった。怯えている相手から無理に話を引き出しても意味がない。ならばその前に、自分の側で用意できるものを揃えておくべきだ。
「防壁の強化って、どうやるんだ?」
『出入口制御区画にて設定可能です』
「迎撃機構は?」
『同区画から一部連動します』
「じゃあそこに案内してくれ」
『了解しました』
甲板を出て、今度はさらに上層へ向かう。途中の通路は他の生活区画より無機質で、壁面の光も白というより薄い青に近かった。扉が開いた先には、円形の部屋がある。周囲には半透明の板がいくつも浮かび、中央には腰の高さほどの台座。まるで要塞そのものの中枢に一歩近づいたような空間だった。
「……なんか、急にすごいところへ来たな」
『防衛補助制御区画です』
「補助、ってことは本格的なのは別にあるのか?」
『はい。ただし現時点では管理者権限者の安全のため、補助制御が推奨されています』
「つまり、俺が本格的なの触ると危ないってことだな」
『概ねその通りです』
「率直で助かるよ……」
レインは台座に手を置いた。
すると周囲の板に文字と図形が次々と浮かぶ。外壁区画、出入口、感知範囲、照明、閉鎖、警戒度。読めるのがありがたい半面、項目が多すぎて一瞬目が滑った。
「待て待て待て、いきなり全部は無理だ」
『簡易設定へ切り替えます』
「助かる」
表示が絞られ、三つの大きな項目だけが残った。
ひとつは通常開放。
ひとつは警戒運用。
ひとつは防衛優先。
「わかりやすくなったな……」
『推奨は警戒運用です』
「理由は?」
『救助対象の存在、外部不確定要素、管理者権限者の生活導線維持の両立が可能なためです』
「なるほど」
通常開放だと不用心すぎる。防衛優先だと閉じこもりすぎて、こちらの動きまで制限されるのかもしれない。なら、警戒運用が無難だ。
「それでいこう」
『受理しました』
低い音が部屋全体を走る。どこか遠くで機構が噛み合うような振動も感じた。
「今ので何が変わった?」
『外周感知の強化、出入口の半自動封鎖準備、接近時警報の感度上昇、夜間照明の切り替え待機が設定されました』
「……充分だな」
正直、想像以上だった。
レインは少し安心し、続けて他の表示にも目を通す。迎撃機構は“威嚇光”“警告音”“局所衝撃”など、殺傷力の低いものが優先されているらしい。いきなり砲撃だの火炎だのではないのが、逆にありがたい。
「この要塞、思ったより穏当だな」
『生活拠点機能を兼ねるためです』
「なるほど……」
戦うだけの兵器ではなく、暮らすための拠点。
その言葉が改めて腑に落ちた。
ひと通り確認して区画を出たレインは、その足で保存庫へ向かった。食料、水、布、塩、簡易薬品。必要そうなものを見直し、持ち出しやすい位置へまとめる。もしフィアが数日動けないなら、その間の看病に必要なものも増える。
そこでふと、棚の奥に見慣れない箱を見つけた。
「これは?」
『携行食です』
「味は?」
『味覚面の満足度は低いです』
「だろうな」
試しにひとつ開けてみると、四角い薄茶色の塊が現れた。匂いは……まあ、食べられそうではある。美味そうとは言いがたい。
「非常時用だな、これは」
『適切な認識です』
保存庫を出るころには、要塞の中を歩き回ることにも少しずつ慣れていた。自分がどこに何を置き、どの区画に何があるのか、それが頭の中に地図のように形を持ち始めている。
――家になっていく。
その実感があった。
そして、その家にいま客人がいる。
「……様子、見に行くか」
レインは客室へ向かった。
扉の前で足を止め、軽くノックする。返事はない。眠っているかと思いながら中へ入ると、フィアは起きていた。
寝台の上で上半身を起こし、窓もない壁をぼんやり見ている。顔色はまだ良くないが、朝よりは明らかにましだった。
「あ、起きてたか」
「……レインさん」
フィアは少し安心したように目を細めた。
「具合は?」
「まだ少し、ふらつきます。でも……ずいぶん楽です」
「それなら良かった」
部屋の隅では、ポットがてちてちと動いていた。どうやら床に落ちた布を回収していたらしい。レインと目が合うと、青い光をぴこ、と明滅させる。
『看護補助を継続中です』
「そうか」
「……この子、かわいいですね」
「そう思う?」
「はい……ちょっと、変ですけど」
「それは否定しない」
思わず二人して少し笑う。
笑える余裕が出てきたのなら悪くない。
レインは椅子を引き寄せ、寝台のそばに座った。
「少し、話せそうか?」
「……はい。全部はまだ、難しいかもしれませんが」
「無理のない範囲でいい」
そう前置きすると、フィアは指先をぎゅっと組んだ。しばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開く。
「わたし……森の集落から、逃げてきました」
「集落?」
「はい。人里から離れた、小さな場所です。人間の町とは、あまり関わらずに暮らしていて……」
エルフ系の種族なら、そういう集落があっても不思議はない。森の奥で独自に暮らす一族の話は、冒険者時代にもいくつか聞いたことがある。
「そこで何があった?」
「数日前から、知らない人たちが森に入ってきたんです」
フィアの表情が曇る。
「武装していて……何かを探していました。最初はただの迷い人かと思ったのですが、違いました。あの人たちは、隠れている場所を見つけるために、森を焼こうとしたんです」
「……森を?」
レインの声が低くなる。
森で暮らす者にとって、それはほとんど家ごと脅されるのと同じだ。
「わたしたちは争いを避けようとしました。でも……向こうは最初から話を聞く気がなくて。長老たちは、集落のみんなを逃がそうとして……」
そこでフィアは唇を噛んだ。
続きを言わずとも、ある程度察せられた。
「君は、そのとき逃げたのか」
「……はい。わたしは、連絡役として外へ出るはずでした。人里に近い場所にいる知り合いへ、助けを求めるために。でも途中で、追っ手に見つかって……」
「それで森を抜けて、ここまで?」
「はい……たぶん。途中から、あまり覚えていなくて……」
それはそうだろう。あの消耗ぶりだ。意識が飛び飛びでもおかしくない。
レインは腕を組み、考える。
「追っ手は何人くらいだ?」
「はっきりとは……十人以上、いたと思います。もっとかもしれません」
「武器は?」
「剣と弓。それから……魔術を使う人もいました」
厄介だ。
普通の山賊ならまだしも、魔術持ちまで混じるとなれば、個人戦力としてはかなり危険度が高い。集落を狙う理由が単なる略奪なのか、それとも特定の何かを探していたのかでも話は変わる。
「何かを探していたって言ったよな。何を?」
「……わかりません」
フィアは首を振った。
「でも、何度も“古い力”とか、“眠っている遺産”とか、そんな言葉を口にしていました」
「古い力……」
レインの脳裏に、要塞の青白い光と巨大な中枢空間がよぎる。
偶然にしては、嫌な符合だった。
フィアも同じことを考えたのか、部屋を見回してからおそるおそる尋ねる。
「レインさん。この場所……もしかして……」
「ああ、たぶん普通の隠れ家ではない」
「……ですよね」
「ただ、詳しく話す前にひとつだけ確認したい」
レインはフィアをまっすぐ見た。
「君を追っている連中が、ここを見つける可能性はあると思うか?」
「……森で足跡を消す余裕は、あまりありませんでした。狼に追われたり、川を渡ったりして、もう無茶苦茶で……。だから、うまく追われていたら……来るかもしれません」
「そうか」
最悪の答えではないが、良い答えでもない。
痕跡が乱れているなら見失っている可能性もある。だがフィアほどの状態でここまで来られたのなら、追っている側も近くまで来ていておかしくなかった。
『管理者権限者』
不意に、要塞の声が部屋に響く。
「どうした」
『北東方向の移動反応が増加。三から五へ変動』
「っ」
レインとフィアの顔色が同時に変わる。
「こっちに向かってるのか?」
『断定はできませんが、探索行動の可能性が高まっています』
「……来た」
フィアが小さく震えた。
レインはすぐに立ち上がり、椅子を脇へ寄せる。
「落ち着け。まだ“見つかった”と決まったわけじゃない」
「でも……」
「もし来ても、この中には簡単に入れない。そこは信じてくれ」
そう言いながらも、レイン自身の胸も速く打っていた。
相手が五人前後。少数の先行隊か、それとも本隊の一部か。いずれにせよ、ここへ来るかもしれない者がいる以上、迎える準備は必要だ。
「フィア、歩けるか?」
「……少しなら」
「歩かなくていい。もっと安全な部屋に移ろう」
『推奨。内側区画への移送を提案します』
「それだな」
レインはフィアへ手を差し出した。彼女は一瞬ためらったが、すぐにその手を取る。細い指先は冷たかった。
ゆっくりと立ち上がらせると、やはり足元は覚束ない。レインは肩を貸し、そのまま廊下へ出た。ポットも後ろからてちてちついてくる。
「この状況でついてくるのかよ」
『看護補助を優先します』
「お前、頼もしいな」
『ありがとうございます』
案内されたのは、生活区画のさらに内側にある小さめの部屋だった。客室というより避難室に近いのか、壁は少し厚く、扉も重そうだ。中には寝台と椅子、水差し、簡素な棚がある。
「ここなら安全?」
『現区画より高い安全性を確保可能です』
「よし」
フィアを寝台へ座らせると、彼女は不安そうにレインを見上げた。
「レインさんは……?」
「俺は様子を見る。たぶん、すぐ戻る」
「ひとりで……?」
「ひとりじゃない。要塞がいる」
「……」
それは安心材料としてどうなのだろう、と自分でも思ったが、今さら取り繕っても仕方がない。
レインは少しだけ笑ってみせた。
「それに、ここは俺の家だ。勝手に覗きに来るやつがいたら、追い返さないとな」
「……無茶は、しないでください」
「するつもりはないよ」
フィアは唇を引き結び、それから小さく頷いた。
ポットが部屋の隅に陣取るのを確認して、レインは扉を閉めた。重い音がして、内側の灯りがひとつ濃くなる。たぶん、警戒運用に連動した補助だろう。
廊下へ戻った途端、空気が変わった気がした。
静かだ。だが、その静けさの中にわずかな緊張が混じっている。昨日まで空っぽだった要塞に、今は守るべき相手がいる。その実感が、レインの背筋を自然と伸ばしていた。
「観測甲板だ」
『了解しました』
甲板へ入ると、外の光はすでに昼前へ近づいていた。立体図には、北東方向の点が五つ、はっきり表示されている。さっきよりも距離が縮んでいた。
「やっぱり増えてるな」
『はい。接近傾向あり』
「距離は?」
『約一九〇〇』
「まだ遠い……けど、歩けば来られる距離か」
レインは透明な壁の向こうへ目を凝らした。肉眼ではまだ見えない。だが、相手が高度な索敵手段を持っていないなら、この擬態した要塞を一発で見抜くのは難しいはずだ。
「こちらから動くのは悪手だな」
『同意します』
「迎撃機構は、接近してから使えるようにしておけ」
『受理しました』
レインは甲板の端をゆっくり歩きながら考えた。
もし相手がただの捜索隊なら、ここを遺跡だと思って調べに来るかもしれない。ならば、できるだけ“ただの遺跡”に見せ続けたほうがいい。下手に要塞の力を見せれば、かえって連中の目的と一致してしまう危険がある。
問題は、フィアの痕跡を辿ってきた場合だ。
保守用出入口の周辺に足跡や運んだ跡が残っていたら――。
「……まずいな」
あの斜面を上るのに必死で、痕跡を消すどころではなかった。フィアを背負っていた以上、むしろ目立つ足跡が残っている可能性すらある。
「外周の地面を多少ならいじれるか?」
『限定的であれば可能です』
「どういうふうに?」
『斜面の表土移動、擬装落葉散布、水分調整による痕跡撹乱』
「……何それ、便利すぎないか?」
『環境同化機能の応用です』
「じゃあ、それ。出入口周辺の痕跡を消してくれ」
『実行します』
低い振動が足元から伝わった。
透明な壁越しに見ると、要塞の外壁近くの地面で、本当にほんのわずかに草や土が動く。風に揺れたようにしか見えない程度の変化だが、それが痕跡をなじませていくのだろう。
「すごいな……」
つい感嘆すると、また少しだけ気持ちが落ち着いた。
そうだ。自分はひとりではない。少なくとも、ここでは。
この要塞はただの隠れ家ではなく、ちゃんと自分を助けてくれる拠点なのだ。
『管理者権限者』
「今度は何だ?」
『長距離視認補助を起動しますか』
「そんなのもあるのか?」
『あります』
「じゃあ頼む」
前方の透明壁の一部に、景色の一角が拡大されて映る。遠くの丘陵の端、木々の間を縫うように進む影が見えた。人間だ。たしかに五人。外套を羽織り、二人は槍、ひとりは弓、残りは剣のようなものを持っている。
そして、そのうちのひとりは杖を持っていた。
「魔術師か」
『可能性高』
「……フィアの言ってた通りだな」
五人は真っ直ぐではなく、周囲を確かめながら進んでいる。捜索だ。間違いない。
レインはごくりと唾を飲み込んだ。
相手はまだこちらに気づいていない。だが、気づく可能性はある。もし見つかれば、どうする。警告音で追い返すか。威嚇で済む相手か。あるいは、もっと強く出なければならないのか。
考えているうちに、ふと別の疑問が浮かぶ。
「なあ」
『はい』
「もし、相手がこの要塞を“古い力”だと気づいたら?」
『継続的接触の危険度が増加します』
「だよな……」
ならば、第一にすべきは隠し通すこと。第二に、どうしても接触するなら“ただの危険な遺跡”と思わせることだ。主の存在を知られるのは避けたい。
「出入口以外に、人が入り込めそうな場所は?」
『現状、大型破損なし。意図的侵入には相応の作業が必要です』
「じゃあ、扉さえ守ればいい」
そのときだった。
五人のうち、杖を持つ者が立ち止まり、何かを地面へかざした。次の瞬間、その周囲で淡い光が広がる。
レインの喉がひやりと冷えた。
「……探知系か?」
『高確率で索敵魔術』
「まずいな」
男たちは少し向きを変えた。真っ直ぐではない。だが、こちら側――要塞のある山裾へと進路を修正しつつあるように見えた。
偶然か、痕跡か、魔術の反応か。
いずれにせよ、放置していい状況ではなくなってきた。
「警戒運用の次は?」
『防衛優先へ移行可能です』
「まだ早い……いや、でも」
『管理者権限者の判断に委ねます』
レインは拳を握り、数秒考えた。
やりすぎれば要塞の正体が露見する。だが遅れれば、出入口近くまで来られる。なら、中間だ。
「警戒運用のまま、出入口周辺だけ封鎖準備を早めてくれ。あと、相手が一定距離に入ったら警告音を鳴らせるように」
『受理しました』
「できれば“不気味な遺跡”っぽいやつで頼む」
『演出強度を調整します』
「なんでそんな項目があるんだよ……!」
思わず叫んでしまったが、返事はない。たぶん本当にあるのだろう。古代文明は何を考えてそんな設定を作ったのか。
だが、その少し馬鹿らしいやり取りのおかげで、心が折れずに済んだ。
レインは深呼吸し、拡大映像を見つめる。
五人はゆっくり、しかし確実に近づいてくる。
遠い。まだ遠い。だが時間の問題だ。
静かな移動要塞に、初めて“外の敵意”が向かってきていた。
「……よし」
レインは台座に手を置き、低く言った。
「ここは、渡さない」
誰に向けた言葉でもない。
昨日拾ったばかりの家。今日拾ったばかりの少女。まだ何も整っていない、始まったばかりの暮らし。けれど、だからこそ奪わせたくなかった。
温かい飯を食べて、風呂に入って、畑を見て、誰かを助けて眠らせる。
そんな当たり前を守るために、今の自分にはこの要塞がある。
透明な壁の向こうで、風が草を撫でていく。
その草原を踏み分けて、五つの影がこちらへ近づいてきていた。
そしてレインは知らなかった。
その五人のうちのひとりが、ただの追っ手ではなく、要塞そのものに微かな“気配”を感じ取っていることを。
静かな昼の始まりは、もう終わろうとしていた。
朝の陽光に照らされた山並みは相変わらず美しい。森の緑は深く、川は静かにきらめき、風に揺れる草原は何事もないように穏やかだ。
だが今のレインには、その穏やかさが少しだけ信用ならなかった。
「……見た目は平和なんだけどな」
透明な壁の向こうに広がる景色は、絵に描いたような静けさをたたえている。けれど実際には、ついさっき狼が三匹も寄ってきたのだ。しかもその先には、あのフィアが怯える何かがいるかもしれない。
『周辺索敵を継続中です』
「何かわかったか?」
『現在、大型敵性反応なし。人為的活動痕跡を広域走査中』
「人為的活動って、足跡とか焚き火の跡とか、そういうのもわかるのか?」
『一部推定可能です』
すごいな、と言いかけて、今さら感心しても仕方ない気がしてやめた。
レインは壁際の台に肘をつき、北東方向へ視線を向ける。フィアが倒れていた辺りは、ここからではもう草の揺れにしか見えない。あんな小さな場所にひとり倒れていた少女を、もしこの要塞が見つけてくれなかったら――そう思うと、背筋が少し冷えた。
「フィアは、何から逃げてきたんだろうな」
つぶやきは、誰に向けたものでもない。
だが要塞の声は律儀に返してくる。
『現時点で断定はできません。対象個体の服装、外傷、疲労状態から、長距離移動と回避行動の可能性が高いと推定します』
「回避行動、か……」
確かに、服の破れ方はただ転んだだけではなかった。枝に引っかけたような裂け、泥、擦り傷。休まずに森を突っ切ってきたなら、ああなってもおかしくない。
問題は、その理由だ。
追われていたのなら誰に。あるいは、何に。
レインは顎に手を当てた。
「人間相手なら厄介だな。魔物なら魔物で厄介だけど」
『管理者権限者の戦力のみでは継続対応に不安があります』
「はっきり言うな……」
否定はできない。
レインは冒険者として致命的に弱いわけではない。むしろ堅実に立ち回るほうで、小型の魔物や野外でのトラブル対処には慣れている。だが、突出した火力もなければ、一騎当千の剣技があるわけでもない。昨日までは、それゆえに“地味で役立たず”扱いされた。
そのことを思い出して、少しだけ胸の奥がざらつく。
だが同時に、今の自分には昨日までと違うものがある。
この巨大な要塞だ。
「なあ」
『はい』
「もし本当に誰かがここを見つけて近づいてきたら、どうなる?」
『出入口の封鎖、防壁の強化、最低限の迎撃機構の起動が可能です』
「最低限ってどれくらいだ」
『小規模集団の接近牽制程度です』
「充分じゃないか?」
思わず声が少し明るくなる。
だが、次の説明でそれも少ししぼんだ。
『ただし多くの機構は長期休眠明けであり、出力は本来性能を大きく下回ります』
「……だよな」
『また、管理者権限者の理解不足により、現段階で使用可能な機能は限定的です』
「ぐっ」
痛いところを突かれた。
要塞はすごい。けれど、すごさを使いこなせるかは別問題だ。今のレインは家を手に入れたばかりの新米主人でしかない。巨大な台所や畑や風呂に感動している段階で、防衛機構だの機関部だのまで把握できていないのは当然と言えば当然だった。
「……まずは勉強しろってことか」
『推奨します』
「わかった。今日は周辺の確認と、防衛回りの確認を優先だな」
そう決めた瞬間だった。
甲板の中央、何もなかった空間に光が集まり、半透明の立体図が浮かび上がる。山、川、森、そして要塞本体らしき巨大な点。周囲にいくつもの印が散らばっていた。
「うおっ」
『周辺地形簡易投影図です』
「急に出すな……まあ、便利だけど」
レインは投影図を覗き込んだ。
要塞の位置から見て北には深い森、東には川とその先のなだらかな丘陵、南側は岩場が多く、西には比較的歩きやすそうな地形が続いている。そのさらに先には、細い線――街道だろうか――のようなものが見えた。
「これ、道か?」
『高頻度通行痕跡です。街道または巡回路と推定』
「ふむ……」
完全に孤立しているわけではないらしい。街道があるなら、近くに村か小さな町があってもおかしくない。生活物資を手に入れるには都合がいいが、人目につく危険も増す。
「要塞を動かすなら、街道に近づきすぎないほうがよさそうだな」
『合理的判断です』
「だろ?」
少し得意げに言ったあとで、自分が褒められたがっていることに気づいて苦笑する。
昨日まで、自分の判断をまともに評価されることなどほとんどなかった。だからなのか、こうして“合理的”と返されるだけで妙にむずがゆくなる。
そのとき、立体図の北東側で小さな点が明滅した。
「ん?」
『微弱な移動反応を確認』
「どこだ?」
『フィア発見地点のさらに北東。距離あり。単独または少数』
「人か?」
『判別不能です』
レインの表情が引き締まる。
フィアのいた方向の先。偶然で済ませるには、少し気になる位置関係だった。
「こっちへ向かってるのか?」
『現在、断続的移動。直進性は低い』
「……捜索してるようにも見えるな」
投影図の点は、真っ直ぐではなく、少しずつ左右へ振れながら進んでいた。獣が獲物を追う動きにも似ているし、人が何かを探しながら歩く姿にも見える。
どちらにせよ、気分のいいものではない。
「フィアが起きたら、できるだけ事情を聞くか」
そう呟きつつも、レインはすぐには部屋へ戻らなかった。怯えている相手から無理に話を引き出しても意味がない。ならばその前に、自分の側で用意できるものを揃えておくべきだ。
「防壁の強化って、どうやるんだ?」
『出入口制御区画にて設定可能です』
「迎撃機構は?」
『同区画から一部連動します』
「じゃあそこに案内してくれ」
『了解しました』
甲板を出て、今度はさらに上層へ向かう。途中の通路は他の生活区画より無機質で、壁面の光も白というより薄い青に近かった。扉が開いた先には、円形の部屋がある。周囲には半透明の板がいくつも浮かび、中央には腰の高さほどの台座。まるで要塞そのものの中枢に一歩近づいたような空間だった。
「……なんか、急にすごいところへ来たな」
『防衛補助制御区画です』
「補助、ってことは本格的なのは別にあるのか?」
『はい。ただし現時点では管理者権限者の安全のため、補助制御が推奨されています』
「つまり、俺が本格的なの触ると危ないってことだな」
『概ねその通りです』
「率直で助かるよ……」
レインは台座に手を置いた。
すると周囲の板に文字と図形が次々と浮かぶ。外壁区画、出入口、感知範囲、照明、閉鎖、警戒度。読めるのがありがたい半面、項目が多すぎて一瞬目が滑った。
「待て待て待て、いきなり全部は無理だ」
『簡易設定へ切り替えます』
「助かる」
表示が絞られ、三つの大きな項目だけが残った。
ひとつは通常開放。
ひとつは警戒運用。
ひとつは防衛優先。
「わかりやすくなったな……」
『推奨は警戒運用です』
「理由は?」
『救助対象の存在、外部不確定要素、管理者権限者の生活導線維持の両立が可能なためです』
「なるほど」
通常開放だと不用心すぎる。防衛優先だと閉じこもりすぎて、こちらの動きまで制限されるのかもしれない。なら、警戒運用が無難だ。
「それでいこう」
『受理しました』
低い音が部屋全体を走る。どこか遠くで機構が噛み合うような振動も感じた。
「今ので何が変わった?」
『外周感知の強化、出入口の半自動封鎖準備、接近時警報の感度上昇、夜間照明の切り替え待機が設定されました』
「……充分だな」
正直、想像以上だった。
レインは少し安心し、続けて他の表示にも目を通す。迎撃機構は“威嚇光”“警告音”“局所衝撃”など、殺傷力の低いものが優先されているらしい。いきなり砲撃だの火炎だのではないのが、逆にありがたい。
「この要塞、思ったより穏当だな」
『生活拠点機能を兼ねるためです』
「なるほど……」
戦うだけの兵器ではなく、暮らすための拠点。
その言葉が改めて腑に落ちた。
ひと通り確認して区画を出たレインは、その足で保存庫へ向かった。食料、水、布、塩、簡易薬品。必要そうなものを見直し、持ち出しやすい位置へまとめる。もしフィアが数日動けないなら、その間の看病に必要なものも増える。
そこでふと、棚の奥に見慣れない箱を見つけた。
「これは?」
『携行食です』
「味は?」
『味覚面の満足度は低いです』
「だろうな」
試しにひとつ開けてみると、四角い薄茶色の塊が現れた。匂いは……まあ、食べられそうではある。美味そうとは言いがたい。
「非常時用だな、これは」
『適切な認識です』
保存庫を出るころには、要塞の中を歩き回ることにも少しずつ慣れていた。自分がどこに何を置き、どの区画に何があるのか、それが頭の中に地図のように形を持ち始めている。
――家になっていく。
その実感があった。
そして、その家にいま客人がいる。
「……様子、見に行くか」
レインは客室へ向かった。
扉の前で足を止め、軽くノックする。返事はない。眠っているかと思いながら中へ入ると、フィアは起きていた。
寝台の上で上半身を起こし、窓もない壁をぼんやり見ている。顔色はまだ良くないが、朝よりは明らかにましだった。
「あ、起きてたか」
「……レインさん」
フィアは少し安心したように目を細めた。
「具合は?」
「まだ少し、ふらつきます。でも……ずいぶん楽です」
「それなら良かった」
部屋の隅では、ポットがてちてちと動いていた。どうやら床に落ちた布を回収していたらしい。レインと目が合うと、青い光をぴこ、と明滅させる。
『看護補助を継続中です』
「そうか」
「……この子、かわいいですね」
「そう思う?」
「はい……ちょっと、変ですけど」
「それは否定しない」
思わず二人して少し笑う。
笑える余裕が出てきたのなら悪くない。
レインは椅子を引き寄せ、寝台のそばに座った。
「少し、話せそうか?」
「……はい。全部はまだ、難しいかもしれませんが」
「無理のない範囲でいい」
そう前置きすると、フィアは指先をぎゅっと組んだ。しばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開く。
「わたし……森の集落から、逃げてきました」
「集落?」
「はい。人里から離れた、小さな場所です。人間の町とは、あまり関わらずに暮らしていて……」
エルフ系の種族なら、そういう集落があっても不思議はない。森の奥で独自に暮らす一族の話は、冒険者時代にもいくつか聞いたことがある。
「そこで何があった?」
「数日前から、知らない人たちが森に入ってきたんです」
フィアの表情が曇る。
「武装していて……何かを探していました。最初はただの迷い人かと思ったのですが、違いました。あの人たちは、隠れている場所を見つけるために、森を焼こうとしたんです」
「……森を?」
レインの声が低くなる。
森で暮らす者にとって、それはほとんど家ごと脅されるのと同じだ。
「わたしたちは争いを避けようとしました。でも……向こうは最初から話を聞く気がなくて。長老たちは、集落のみんなを逃がそうとして……」
そこでフィアは唇を噛んだ。
続きを言わずとも、ある程度察せられた。
「君は、そのとき逃げたのか」
「……はい。わたしは、連絡役として外へ出るはずでした。人里に近い場所にいる知り合いへ、助けを求めるために。でも途中で、追っ手に見つかって……」
「それで森を抜けて、ここまで?」
「はい……たぶん。途中から、あまり覚えていなくて……」
それはそうだろう。あの消耗ぶりだ。意識が飛び飛びでもおかしくない。
レインは腕を組み、考える。
「追っ手は何人くらいだ?」
「はっきりとは……十人以上、いたと思います。もっとかもしれません」
「武器は?」
「剣と弓。それから……魔術を使う人もいました」
厄介だ。
普通の山賊ならまだしも、魔術持ちまで混じるとなれば、個人戦力としてはかなり危険度が高い。集落を狙う理由が単なる略奪なのか、それとも特定の何かを探していたのかでも話は変わる。
「何かを探していたって言ったよな。何を?」
「……わかりません」
フィアは首を振った。
「でも、何度も“古い力”とか、“眠っている遺産”とか、そんな言葉を口にしていました」
「古い力……」
レインの脳裏に、要塞の青白い光と巨大な中枢空間がよぎる。
偶然にしては、嫌な符合だった。
フィアも同じことを考えたのか、部屋を見回してからおそるおそる尋ねる。
「レインさん。この場所……もしかして……」
「ああ、たぶん普通の隠れ家ではない」
「……ですよね」
「ただ、詳しく話す前にひとつだけ確認したい」
レインはフィアをまっすぐ見た。
「君を追っている連中が、ここを見つける可能性はあると思うか?」
「……森で足跡を消す余裕は、あまりありませんでした。狼に追われたり、川を渡ったりして、もう無茶苦茶で……。だから、うまく追われていたら……来るかもしれません」
「そうか」
最悪の答えではないが、良い答えでもない。
痕跡が乱れているなら見失っている可能性もある。だがフィアほどの状態でここまで来られたのなら、追っている側も近くまで来ていておかしくなかった。
『管理者権限者』
不意に、要塞の声が部屋に響く。
「どうした」
『北東方向の移動反応が増加。三から五へ変動』
「っ」
レインとフィアの顔色が同時に変わる。
「こっちに向かってるのか?」
『断定はできませんが、探索行動の可能性が高まっています』
「……来た」
フィアが小さく震えた。
レインはすぐに立ち上がり、椅子を脇へ寄せる。
「落ち着け。まだ“見つかった”と決まったわけじゃない」
「でも……」
「もし来ても、この中には簡単に入れない。そこは信じてくれ」
そう言いながらも、レイン自身の胸も速く打っていた。
相手が五人前後。少数の先行隊か、それとも本隊の一部か。いずれにせよ、ここへ来るかもしれない者がいる以上、迎える準備は必要だ。
「フィア、歩けるか?」
「……少しなら」
「歩かなくていい。もっと安全な部屋に移ろう」
『推奨。内側区画への移送を提案します』
「それだな」
レインはフィアへ手を差し出した。彼女は一瞬ためらったが、すぐにその手を取る。細い指先は冷たかった。
ゆっくりと立ち上がらせると、やはり足元は覚束ない。レインは肩を貸し、そのまま廊下へ出た。ポットも後ろからてちてちついてくる。
「この状況でついてくるのかよ」
『看護補助を優先します』
「お前、頼もしいな」
『ありがとうございます』
案内されたのは、生活区画のさらに内側にある小さめの部屋だった。客室というより避難室に近いのか、壁は少し厚く、扉も重そうだ。中には寝台と椅子、水差し、簡素な棚がある。
「ここなら安全?」
『現区画より高い安全性を確保可能です』
「よし」
フィアを寝台へ座らせると、彼女は不安そうにレインを見上げた。
「レインさんは……?」
「俺は様子を見る。たぶん、すぐ戻る」
「ひとりで……?」
「ひとりじゃない。要塞がいる」
「……」
それは安心材料としてどうなのだろう、と自分でも思ったが、今さら取り繕っても仕方がない。
レインは少しだけ笑ってみせた。
「それに、ここは俺の家だ。勝手に覗きに来るやつがいたら、追い返さないとな」
「……無茶は、しないでください」
「するつもりはないよ」
フィアは唇を引き結び、それから小さく頷いた。
ポットが部屋の隅に陣取るのを確認して、レインは扉を閉めた。重い音がして、内側の灯りがひとつ濃くなる。たぶん、警戒運用に連動した補助だろう。
廊下へ戻った途端、空気が変わった気がした。
静かだ。だが、その静けさの中にわずかな緊張が混じっている。昨日まで空っぽだった要塞に、今は守るべき相手がいる。その実感が、レインの背筋を自然と伸ばしていた。
「観測甲板だ」
『了解しました』
甲板へ入ると、外の光はすでに昼前へ近づいていた。立体図には、北東方向の点が五つ、はっきり表示されている。さっきよりも距離が縮んでいた。
「やっぱり増えてるな」
『はい。接近傾向あり』
「距離は?」
『約一九〇〇』
「まだ遠い……けど、歩けば来られる距離か」
レインは透明な壁の向こうへ目を凝らした。肉眼ではまだ見えない。だが、相手が高度な索敵手段を持っていないなら、この擬態した要塞を一発で見抜くのは難しいはずだ。
「こちらから動くのは悪手だな」
『同意します』
「迎撃機構は、接近してから使えるようにしておけ」
『受理しました』
レインは甲板の端をゆっくり歩きながら考えた。
もし相手がただの捜索隊なら、ここを遺跡だと思って調べに来るかもしれない。ならば、できるだけ“ただの遺跡”に見せ続けたほうがいい。下手に要塞の力を見せれば、かえって連中の目的と一致してしまう危険がある。
問題は、フィアの痕跡を辿ってきた場合だ。
保守用出入口の周辺に足跡や運んだ跡が残っていたら――。
「……まずいな」
あの斜面を上るのに必死で、痕跡を消すどころではなかった。フィアを背負っていた以上、むしろ目立つ足跡が残っている可能性すらある。
「外周の地面を多少ならいじれるか?」
『限定的であれば可能です』
「どういうふうに?」
『斜面の表土移動、擬装落葉散布、水分調整による痕跡撹乱』
「……何それ、便利すぎないか?」
『環境同化機能の応用です』
「じゃあ、それ。出入口周辺の痕跡を消してくれ」
『実行します』
低い振動が足元から伝わった。
透明な壁越しに見ると、要塞の外壁近くの地面で、本当にほんのわずかに草や土が動く。風に揺れたようにしか見えない程度の変化だが、それが痕跡をなじませていくのだろう。
「すごいな……」
つい感嘆すると、また少しだけ気持ちが落ち着いた。
そうだ。自分はひとりではない。少なくとも、ここでは。
この要塞はただの隠れ家ではなく、ちゃんと自分を助けてくれる拠点なのだ。
『管理者権限者』
「今度は何だ?」
『長距離視認補助を起動しますか』
「そんなのもあるのか?」
『あります』
「じゃあ頼む」
前方の透明壁の一部に、景色の一角が拡大されて映る。遠くの丘陵の端、木々の間を縫うように進む影が見えた。人間だ。たしかに五人。外套を羽織り、二人は槍、ひとりは弓、残りは剣のようなものを持っている。
そして、そのうちのひとりは杖を持っていた。
「魔術師か」
『可能性高』
「……フィアの言ってた通りだな」
五人は真っ直ぐではなく、周囲を確かめながら進んでいる。捜索だ。間違いない。
レインはごくりと唾を飲み込んだ。
相手はまだこちらに気づいていない。だが、気づく可能性はある。もし見つかれば、どうする。警告音で追い返すか。威嚇で済む相手か。あるいは、もっと強く出なければならないのか。
考えているうちに、ふと別の疑問が浮かぶ。
「なあ」
『はい』
「もし、相手がこの要塞を“古い力”だと気づいたら?」
『継続的接触の危険度が増加します』
「だよな……」
ならば、第一にすべきは隠し通すこと。第二に、どうしても接触するなら“ただの危険な遺跡”と思わせることだ。主の存在を知られるのは避けたい。
「出入口以外に、人が入り込めそうな場所は?」
『現状、大型破損なし。意図的侵入には相応の作業が必要です』
「じゃあ、扉さえ守ればいい」
そのときだった。
五人のうち、杖を持つ者が立ち止まり、何かを地面へかざした。次の瞬間、その周囲で淡い光が広がる。
レインの喉がひやりと冷えた。
「……探知系か?」
『高確率で索敵魔術』
「まずいな」
男たちは少し向きを変えた。真っ直ぐではない。だが、こちら側――要塞のある山裾へと進路を修正しつつあるように見えた。
偶然か、痕跡か、魔術の反応か。
いずれにせよ、放置していい状況ではなくなってきた。
「警戒運用の次は?」
『防衛優先へ移行可能です』
「まだ早い……いや、でも」
『管理者権限者の判断に委ねます』
レインは拳を握り、数秒考えた。
やりすぎれば要塞の正体が露見する。だが遅れれば、出入口近くまで来られる。なら、中間だ。
「警戒運用のまま、出入口周辺だけ封鎖準備を早めてくれ。あと、相手が一定距離に入ったら警告音を鳴らせるように」
『受理しました』
「できれば“不気味な遺跡”っぽいやつで頼む」
『演出強度を調整します』
「なんでそんな項目があるんだよ……!」
思わず叫んでしまったが、返事はない。たぶん本当にあるのだろう。古代文明は何を考えてそんな設定を作ったのか。
だが、その少し馬鹿らしいやり取りのおかげで、心が折れずに済んだ。
レインは深呼吸し、拡大映像を見つめる。
五人はゆっくり、しかし確実に近づいてくる。
遠い。まだ遠い。だが時間の問題だ。
静かな移動要塞に、初めて“外の敵意”が向かってきていた。
「……よし」
レインは台座に手を置き、低く言った。
「ここは、渡さない」
誰に向けた言葉でもない。
昨日拾ったばかりの家。今日拾ったばかりの少女。まだ何も整っていない、始まったばかりの暮らし。けれど、だからこそ奪わせたくなかった。
温かい飯を食べて、風呂に入って、畑を見て、誰かを助けて眠らせる。
そんな当たり前を守るために、今の自分にはこの要塞がある。
透明な壁の向こうで、風が草を撫でていく。
その草原を踏み分けて、五つの影がこちらへ近づいてきていた。
そしてレインは知らなかった。
その五人のうちのひとりが、ただの追っ手ではなく、要塞そのものに微かな“気配”を感じ取っていることを。
静かな昼の始まりは、もう終わろうとしていた。
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