君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

文字の大きさ
67 / 103

67話 胸に燃える怒り

しおりを挟む
翌朝、ホテルの窓から差し込む冬の光で目を覚ました春菜は、軽く伸びをして深呼吸した。

布団の中でまどろみながら、隣の部屋に蒼真がいるという事実を意識して、胸の奥がまた熱を帯びる。(よし、今日はまず現地の確認から……)
緊張と期待が入り混じる心を整えるように、小さく呟いた。

レストランに入ると、色とりどりの朝食バイキングが並んでいた。
パン、スクランブルエッグ、ソーセージにフルーツ……視線が迷う。

「わぁ、美味しそう……でも、取りすぎかな」
小声でつぶやいた春菜に、横から田中が軽く笑う。
「今日は動きますから、しっかり食べておいた方がいいですよ」

春菜は照れ笑いしながらお皿に盛り付ける。
その様子を少し離れた位置から見ていた蒼真の胸に、チクリとした感情が走る。
(……楽しそうだな)
視線を逸らすのに、気づけばまた春菜を追ってしまう。

三人でテーブルを囲むと、田中がにこやかに話しかける。
「昨日はよく眠れましたか?」
「はい。おかげさまで」
春菜は自然な笑顔で答え、田中と軽い会話を交わす。蒼真は黙ってコーヒーを口にし、カップを少し強く握る。

春菜がふと蒼真を見て声をかける。
「高瀬社長も、昨日はお疲れに見えましたが…今日は大丈夫ですか?」

その言葉に、蒼真は胸の奥が温かくなるのを感じ、思わずふっと微笑んだ。
「ええ、大丈夫ですよ」

---

朝食を終えた三人は、会議室へと向かった。

蒼真はいつも通り落ち着いた様子で、資料やタブレットを手にチェックしていた。春菜は彼の横顔を見つめながら、自然と背筋を正す。

資料を整理しつつ、田中が説明を始める。
「今回、本番を現地で行うことになったのは、この会場が設備的に充実していて、演出の幅も広く取れるからです。お客様の動線や安全面を考えても最適です。急な変更で申し訳ありません」

蒼真は静かに頷きながら資料をめくる。
「なるほど。それなら効率的ですね」

春菜もメモを取りつつ、心の中でつぶやく。
(設備がしっかりしているなら、安心して準備できる…でも、忙しくなりそう…)

田中はさらに続ける。
「午前中は会場の全体確認、午後からリハーサルに入ります。問題点があれば、その場で修正しましょう」

蒼真は春菜に小声で耳打ちする。
「初日は手探りになるけど、焦らず確認していきましょう」

耳元に届いた低い声に、心臓が跳ねる。春菜は小さく頷き胸がじんわりと熱くなり、視線を資料に落とさずにはいられなかった。

---

会場は大きなホールで、ステージと観客席が広がっている。午前は全体確認、午後からリハーサル。田中と春菜が資料を確認している横で、蒼真は全体を見渡していた。

「水沢さん、この導線は変えた方がいいかもしれません」
田中の提案に、春菜が頷き、ペンを走らせる。

そんな中、会場管理者の男性が近づいてきた。五十代半ば、気さくそうな笑みを浮かべている。
「いやぁ、こんな若い方が担当とは頼もしいね。水沢さんだっけ?いやあ、綺麗な方だ」

初対面の挨拶のはずが、彼の視線は春菜に釘付けだった。

「え、あ……ありがとうございます」
春菜は困ったように笑って受け流そうとしたが、相手はさらに一歩近づいた。
「こんな寒い時期に大変でしょう」

次の瞬間、手を差し伸べる管理者の親指が春菜の手の甲をなぞり、指先がいやらしくすりすりと擦りつけられた。
「おや、柔らかい手だ。普段から丁寧にお手入れしてるんでしょう?」

(……っ! 気持ち悪い……)
春菜は引き抜こうとするが、管理者はわざと力を込めて握ったまま、口角を吊り上げた。

「現場では大変でしょうに、この可愛さを保ってるなんて、すごいなぁ」

横で見ていた蒼真の胸が熱くなる。怒りと守りたい気持ちで拳を膝にぎゅっと握りしめた。
(やめろ……今すぐその手を離せ)

「――そういうことは……」

低く冷たく響く声で言いながら、管理者の手首を軽く制止し、ぎゅっと握り返す。管理者は一瞬たじろぐが、挑発的な目は逸らさない。

「ふむ、若い方も熱心ですねぇ」

「――業務に関係のないことはやめてください」

場の空気が張り詰め、管理者は舌打ちを飲み込み手を引っ込める。冷えた声に会場の空気が張りつめ、田中は二人の様子を見て、管理者に心の中で思わずつぶやいた。
(何をやってるんだ、こんな場で……)
慌てて資料を持ち直し、声を上げて話を進める。
「では、次の資料をご確認いただけますか」

春菜は肩で小さく息をつき、視線を逸らす。
(怖かった……でも蒼真さん、助けてくれた)

会議とリハーサルを終えても、蒼真の苛立ちは消えなかった。

田中は春菜の肩の強張りに気づき、そっと声をかけた。
「大丈夫ですか?」
春菜は小さく息を吐きながら、ぎこちなくも微笑む。

夕方、ホテルへ戻る送迎バス。窓の外に広がる夕焼けを眺め、春菜は肩の力を抜こうとしても、まだ背筋が強張ったままだった。心の奥には、会場で受けた不快感がじわりと残っている。小さく息を吐き、窓に頭を乗せ目を閉じた。それでも、心の奥はまだざわついていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

皇宮女官小蘭(シャオラン)は溺愛され過ぎて頭を抱えているようです!?

akechi
恋愛
建国して三百年の歴史がある陽蘭(ヤンラン)国。 今年16歳になる小蘭(シャオラン)はとある目的の為、皇宮の女官になる事を決めた。 家族に置き手紙を残して、いざ魑魅魍魎の世界へ足を踏み入れた。 だが、この小蘭という少女には信じられない秘密が隠されていた!?

氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。 彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

【完結】孤高の皇帝は冷酷なはずなのに、王妃には甘過ぎです。

朝日みらい
恋愛
異国からやってきた第3王女のアリシアは、帝国の冷徹な皇帝カイゼルの元に王妃として迎えられた。しかし、冷酷な皇帝と呼ばれるカイゼルは周囲に心を許さず、心を閉ざしていた。しかし、アリシアのひたむきさと笑顔が、次第にカイゼルの心を溶かしていき――。

【完結】ルースの祈り ~笑顔も涙もすべて~

ねるねわかば
恋愛
悪路に閉ざされた貧しい辺境ルースライン領。 兄を支えたい子爵令嬢リゼは、視察に来た調査官のずさんな仕事に思わず異議を唱える。 異議を唱えた相手は、侯爵家の子息で冷静沈着な官吏ギルベルト。 最悪の出会いだった二人だが、領の問題に向き合う中で互いの誠実さを知り、次第に理解し合っていく。 やがてリゼが王都で働き始めたことを機に距離を縮める二人。しかし立ちはだかるのは身分差と政略結婚という現実。自分では彼の未来を縛れないと、リゼは想いを押し込めようとする。 そんな中、故郷の川で拾われる“名もなき石”が思わぬ縁を呼び、リゼの選択と領の未来を動かしていく――。 想いと責務の狭間で揺れる青年と、自分を後回しにしがちな少女。 すれ違いと葛藤の先で、二人は互いを選び取れるのか。 辺境令嬢の小さな勇気が恋と運命を変えていく。 ※作中の仕事や災害、病、小物の知識などは全てフィクションです。史実や事実に基づいていないことをご理解ください。 ※8万字前後になる予定です。

助けた騎士団になつかれました。

藤 実花
恋愛
冥府を支配する国、アルハガウンの王女シルベーヌは、地上の大国ラシュカとの約束で王の妃になるためにやって来た。 しかし、シルベーヌを見た王は、彼女を『醜女』と呼び、結婚を保留して古い離宮へ行けと言う。 一方ある事情を抱えたシルベーヌは、鮮やかで美しい地上に残りたいと思う願いのため、異議を唱えず離宮へと旅立つが……。 ☆本編完結しました。ありがとうございました!☆ 番外編①~2020.03.11 終了

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

処理中です...