君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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73話 名前にできない誰か

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古都の空港に降り立つと、澄んだ空気が頬に触れた。
都会とは違う、ほんの少し湿った冷たさが体を包む。

「おかえり、蒼真」

到着ロビーで出迎えた両親は、相変わらず距離感の近い笑顔を向けてくる。正月だからか、空気がどこか柔らかい。

家に戻ると、母がすぐにお茶を淹れ、父はこたつに入って新聞を置いた。
蒼真の実家は、代々続く老舗旅館。
正月のこの時期は客で賑わうが、家族が集まる奥の居間だけは、いつもより静かで落ち着いた空気が漂っていた。

「……蒼真。香澄さんのことだけどな」

やっぱり来たか、と小さく息を飲む。

「籍を入れる前で良かったとは思ってるんだが……本当に考え直す気はないのか?」

「向こうも、もう別の人と付き合ってる。俺がどうこう言う問題じゃない」

淡々と言いながらも、母はさらに身を乗り出してくる。

「でもね、香澄さんのお母さんからは、まだ望みがあるんじゃないかって――」

「母さん」

少し声が強く出た。父も気まずそうに咳払いをする。

「そもそも俺だって――」

一瞬、口が止まる。

(……春菜のことは、まだ言えない。公にするタイミングじゃない……婚約破棄して数ヶ月で“他に好きな人がいます”なんて)

「いや、なんでもない」

母がじっとこちらを見る。

「……ねえ蒼真。あなた、誰か気になる人でもいるの?」

図星すぎて、喉の奥がひゅっと鳴った。顔を逸らしながら、言葉を慎重に選ぶ。

「……気になる人というか」

頬が少し熱くなるのを感じる。けれど、その顔を母に見せることはできない。

「仕事関係……かな」

母は目を細め、納得したように頷く。

「ふふ、わかった」

「なにがわかったんだよ」

「おせち、温めてくるわね~」

肩透かしを食らった気がして、思わずこたつに突っ伏す。
(……本当に、母親ってやつは)

その時、父が新聞を置き、少し前かがみになった。

「……蒼真、実はな、旅館で少しトラブルがあってな。正月だからと油断してたら、従業員の手が回らなくて困ってるんだ。すまんが、手伝ってくれないか?」

兄が継ぐ旅館とはいえ、正月は宿泊客が多く、仕込みや接客に不備が出ていたのだ。蒼真は、父が自分を頼りにしてくれているのも知っている。

(……これは頼まれた以上、断れない)

「……わかった。手伝うよ」

声に迷いはない。口には出さなかったが、春菜に会えない時間が少しもどかしい。

母は箸を並べながら、微笑む。

「さあ、召し上がれ。お正月だもの、楽しまなきゃ」

「でもね、気になる人がいるなら、今年はちゃんと向き合いなさいよ?」

蒼真は小さく笑い、顔を伏せたまま答える。

「……向き合ってるよ」

こたつ越しに父がちらりと蒼真を見た。

「……本当に、いい人なのか?」

喉元まで出かかった「好きな人がいる」との言葉を、奥歯で噛み殺す。

蒼真はこたつの縁を指で軽く叩き、視線を落としたまま淡々と答えた。

「……少なくとも、不誠実な人ではない」

父が少しだけ目を細める。

「そうか。……なら、いい」

外では雪が静かに舞い、暖かな旅館の中と冷たい空気が入り混じる。

蒼真はこたつに手を置いたまま、小さく息を吐いた。

(……早く、春菜に会いたい)

でも――今は、まず父の頼みを果たそう。
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