君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

文字の大きさ
78 / 103

78話 手を取り、心を寄せて

しおりを挟む
部屋に入ると、落ち着いた空気が広がる。

蒼真がそっと手を伸ばすと、春菜はすぐにその手を握り返す。
温もりが指先を通して、互いの胸の奥に静かに伝わる。

「……会いたかった」
蒼真の低い声が、夜の空気に溶け込む。

春菜は小さく息を吐き、自然に身を寄せた。
抱き合う距離はぎゅっと近く、でも無理のないやさしい温度。

「……春菜さん」
蒼真の声が耳元で響き、肩越しに伝わる暖かさに、春菜もそっと顔を埋めた。

抱きしめ合ったまま、しばらく二人は言葉を交わさなかった。
ただ互いの鼓動だけが、静かに重なっていた。

やがて蒼真がゆっくり体を離し、穏やかな笑みを浮かべる。
離れたはずの腕の温もりが、まだ頬の奥に残っていた。

「じゃあ、手伝ってくれる?」

「はい。でも……蒼真さん、料理できるんですか?」
春菜が少し照れながら尋ねると、蒼真はにやりと笑った。

「ああ。任せて」

二人はキッチンに立ち、包丁がまな板の上で小気味よく音を立てる。
春菜はそのリズムに思わず目を奪われた。

「すごい……」
春菜が感嘆の声を漏らすと、蒼真は少し照れたように笑った。
「旅館の厨房、手伝わされてたからな。……つい手が動くんだろうな」
「職業病ですか?」
「いや、今日は違う。春菜さんに食べさせたいから」

やがて部屋には料理の香りが広がり、二人の間には自然な会話と笑い声が重なる。
一瞬、視線がかち合う。
その短い沈黙が、妙に心地よくて――どちらともなく、小さく笑った。

「……こうして一緒に作ると楽しいですね」
春菜が目を細めると、蒼真はふと、その手に触れた。
ほんの一瞬の仕草なのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
それは言葉よりも確かな、“想い”の温度だった。

完成した料理を二人で並んで食べると、部屋は温かさと幸福感に包まれる。だが、その穏やかさは長くは続かなかった。

「ちょっと聞いてほしいことがある」

「どうしました? 」 蒼真は唇を噛む。 「なんというか……面倒なことだ」

「……梨花さんが、うちの会社に入ってくるかもしれない」

春菜は瞬きをした。 「……梨花さん、というのは?」

蒼真は少しだけ言葉を探す。

「……昔の知り合いだ。小さい頃に、親同士が仲良くて……まあ、その、盆踊りとか金魚すくいとか、一緒に行ったことがある」

「女の人、ですよね?」

「……ああ。でも、俺からしたら“親戚の子”みたいなもんで。向こうは、なんか……変な勘違いをしてるらしいが」

春菜の胸が小さくざわつく。

「勘違い……?」

「俺が昔、金魚すくいで二匹すくって渡したとか、お年玉を多く渡したとか……それだけで“運命の人”だと思ってるらしい」

「……ふふ」

春菜は思わず吹き出した。

「え?」

「ごめんなさい。なんか、かわいい人だなって思って」

蒼真は少しだけ安堵する。

「かわ……いや、違う。可愛いとかじゃない。ああいうタイプは危ない」

春菜は笑いながら首を傾げる。

「でも、その人が本当に入ってきたら……私は、どんな立場ですか?」

その問いだけは、冗談ではなかった。

蒼真は真剣に春菜の手を握り直し、はっきりと答えた。

「――俺の“彼女”だ」

胸の奥が熱くなり、頬が少し紅くなる。

「……はい」

小さく頷く春菜に、蒼真も安堵したように微笑んだ。

---

食後、ソファに腰を下ろし、二人は自然と体を寄せる。
蒼真は疲れからか、安堵からか、うとうとと眠りに落ちそうだった。

(……寝ちゃったのかな)
春菜はそっと息を吐き、彼の寝顔を見つめる。

(……かわいい人、か)
自分でそう言ったはずなのに、胸の奥が少しざわつく。
“運命の人”なんて言葉が、頭の片隅に残って離れない。

そこへ、蒼真が寝ぼけた声を漏らす。
「……春菜……?」

かすれた声が、夜気の中で溶けるように響いた。
春菜が振り向くより先に、伸ばされた手が彼女の腕を掴む。
指先が触れた瞬間、驚くほど熱い。

「……蒼真さん……?」
囁く声に返事はなく、代わりにその腕がゆっくりと、しかし確かに力を込めてくる。
身体ごと引き寄せられ、春菜は彼の胸に押し当てられた。

(……夢の中、なの……?)

息が詰まりそうなほど近い距離。
肩越しに感じる呼吸の温度が、首筋をくすぐる。
蒼真の胸に耳を寄せると、鼓動が規則的に打ち続けていて、それが不思議と安心をくれた。

「……もう、離れるなよ……」

寝ぼけた声は低く、けれど切実で。
その一言が、春菜の胸の奥で静かに爆ぜた。
熱が一気に頬までのぼっていく。

「……蒼真さん、それ……夢の中のセリフ、ですよね……?」
笑うつもりだったのに、声が震えてうまく出ない。

しばらく沈黙が落ちたあと、彼の唇が髪の端にかすかに触れた。
「……夢でも、いい」

吐息のように落ちた言葉が、首筋に触れる温度と混じり合う。
春菜の心臓が跳ねた。
逃げようとすればするほど、彼の腕の温もりがそれを許さない。

(……夢でも、いい。そう思ってるのは、私も……)

彼の胸の中で、春菜は小さく目を閉じた。
夜の静寂に、二人の鼓動だけが重なって響いていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

皇宮女官小蘭(シャオラン)は溺愛され過ぎて頭を抱えているようです!?

akechi
恋愛
建国して三百年の歴史がある陽蘭(ヤンラン)国。 今年16歳になる小蘭(シャオラン)はとある目的の為、皇宮の女官になる事を決めた。 家族に置き手紙を残して、いざ魑魅魍魎の世界へ足を踏み入れた。 だが、この小蘭という少女には信じられない秘密が隠されていた!?

氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。 彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

【完結】孤高の皇帝は冷酷なはずなのに、王妃には甘過ぎです。

朝日みらい
恋愛
異国からやってきた第3王女のアリシアは、帝国の冷徹な皇帝カイゼルの元に王妃として迎えられた。しかし、冷酷な皇帝と呼ばれるカイゼルは周囲に心を許さず、心を閉ざしていた。しかし、アリシアのひたむきさと笑顔が、次第にカイゼルの心を溶かしていき――。

【完結】ルースの祈り ~笑顔も涙もすべて~

ねるねわかば
恋愛
悪路に閉ざされた貧しい辺境ルースライン領。 兄を支えたい子爵令嬢リゼは、視察に来た調査官のずさんな仕事に思わず異議を唱える。 異議を唱えた相手は、侯爵家の子息で冷静沈着な官吏ギルベルト。 最悪の出会いだった二人だが、領の問題に向き合う中で互いの誠実さを知り、次第に理解し合っていく。 やがてリゼが王都で働き始めたことを機に距離を縮める二人。しかし立ちはだかるのは身分差と政略結婚という現実。自分では彼の未来を縛れないと、リゼは想いを押し込めようとする。 そんな中、故郷の川で拾われる“名もなき石”が思わぬ縁を呼び、リゼの選択と領の未来を動かしていく――。 想いと責務の狭間で揺れる青年と、自分を後回しにしがちな少女。 すれ違いと葛藤の先で、二人は互いを選び取れるのか。 辺境令嬢の小さな勇気が恋と運命を変えていく。 ※作中の仕事や災害、病、小物の知識などは全てフィクションです。史実や事実に基づいていないことをご理解ください。 ※8万字前後になる予定です。

助けた騎士団になつかれました。

藤 実花
恋愛
冥府を支配する国、アルハガウンの王女シルベーヌは、地上の大国ラシュカとの約束で王の妃になるためにやって来た。 しかし、シルベーヌを見た王は、彼女を『醜女』と呼び、結婚を保留して古い離宮へ行けと言う。 一方ある事情を抱えたシルベーヌは、鮮やかで美しい地上に残りたいと思う願いのため、異議を唱えず離宮へと旅立つが……。 ☆本編完結しました。ありがとうございました!☆ 番外編①~2020.03.11 終了

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

処理中です...