君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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82話 勘違いの夜

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夜の街。
梨花は帰り道、駅へ向かう途中でふと見覚えのある車を見つけた。

(……あれ? 高瀬社長の車?)

歩道の街灯の下、停まっている黒い車。
運転席には、間違いなく蒼真の横顔があった。

梨花の胸が高鳴る。
(もしかして……私を……?)

頬がじんわり熱くなる。

(なんて……でも……)

だって高瀬社長、昨日も優しかったし――。

その余韻がまだ残っていて――
「もしかしたら、帰り道で偶然会った私を乗せようと……?」

(やだ、落ち着いて私……でも……そうだったら、どうしよう……)

その瞬間、助手席のドアが開いた。

上品なベージュのコートの女性が現れる。

「……え……誰?」

女性は柔らかく笑って「お待たせしました」と言いながら乗り込む。
蒼真は、彼女に穏やかに目を細め、ほんの少しだけ口角を上げた。
その笑みは――梨花の知らない顔だった。

車が静かに走り出す。
街灯の光の筋に、黒い車がすっと消えていく。

梨花はその場に立ち尽くした。
冷たい風が頬を撫でても、何も感じなかった。

(……あの人、誰? 社長、あんな顔……見たことない)

心臓の奥で、何かがきゅっと縮む。
信じたくない。でも、目に焼き付いて離れない。

---

翌朝。
オフィスにはいつも通りの朝の空気。
蒼真も変わらぬ落ち着いた表情で社員に指示を出している。
けれど、梨花の胸の中では昨夜の光景が何度も反芻されていた。

(同じ会社の人……じゃないよね?)

コーヒーを手にした篠原が通りかかる。
梨花は何気ない声を装って尋ねた。

「ねえ篠原さん、高瀬社長って……最近、誰かと会ってたりします?」

篠原は首を傾げて笑う。
「会ってるって……取引先の話?」

「い、いえ! そういうのじゃなくて……なんとなく、プライベートとか……」

篠原はふっと微笑んだ。
「どうしてそんなこと気になるの?」

梨花は慌てて顔を赤くする。
「あ、い、いえ! ただ、なんとなく……」

「社長のプライベートは、誰も知らないと思うよ。そういう話、一切しないから」

篠原はそれだけ言って、穏やかに立ち去った。

梨花は机に戻り、胸の奥がもやもやと重くなるのを感じ、そっとスマホを開く。
検索窓に指が止まった。

(……“高瀬蒼真 彼女”)

指先が震えた。
(……ない。婚約破棄の記事しか……)

頭の中で何かがざわつく。
無意識に、親指の爪を噛んでいた。

---

昼下がり。
梨花はコピーを取りに行くふりをして、営業部や他部署のデスクを回った。
書類の山の向こうに顔を出す社員たちを、一人ずつ無意識に確認してしまう。

(……もしかして、社内の人……?)

営業部、企画部、総務部――どこを見ても、あの女性はいなかった。

(いない……どこにもいない。やっぱり、この会社の人じゃない……?)

心臓が重く沈む。
恋人じゃないかもしれないし――

「……もしかして、昔からの知り合いとか……?」

小さく呟いたその声は、自分の耳にも頼りなく響いた。

(でも……あんな笑い方、見たことない。
 仕事のときとは違う、優しい目をしてた……)

ぐっと唇を噛む。
心の奥から、見たことのない嫉妬と焦りが湧き上がる。

「……負けたくない」

小さく呟いた瞬間、もう止められなかった。

――昼休みが終わっても、梨花の胸のざわめきは消えなかった。
目の前のパソコン画面を見ていても、心ここにあらず。カーソルが点滅するたび、昨夜の光景が脳裏をちらつく。

(……“お待たせしました”って、どういう関係なのよ……)

気づけば、指先でペンをぐるぐる回していた。
隣の席の上司がちらっと見て、「相川さん、集中してますね」と笑う。
梨花は慌てて顔を上げ、営業資料に目を落とすふりをした。

(落ち着け、梨花。勝手に決めつけたらだめ。
でも……あの笑い方、どうしても忘れられない)

時計の針が午後3時を指すころ、営業フロアの扉が開いた。
「社長、現場視察に行かれるそうです」
そう聞こえた瞬間、梨花の胸がどくんと跳ねた。

(……蒼真!あの人は誰なの?)

気づけば、体が勝手に動いていた。
エレベーターホールへ向かう途中、遠くに蒼真の背中が見えた。
黒いコートの襟を整えながら、秘書と短く言葉を交わしている。

「高瀬社長、こちら本日の確認資料です」
「ありがとう。車はもう来てる?」
「はい、いつもの場所に」

エレベーターの扉が閉まる直前、思わず声が出た。
「しゃ、社長!」

一瞬、彼の肩が止まる。
扉の隙間から、蒼真の視線がこちらを向いた。
「……相川さん? どうかした?」

「い、いえ……その、確認したいことが……!」

蒼真はわずかに目を細め、穏やかな声で言った。
「今じゃなくても大丈夫?戻ったらでいいかな?」

「っ……はい……」

扉が静かに閉まる。
反射的に足が止まり、梨花はエレベーターホールにひとり残された。

(そうじゃないのに……! なにしてるの私……!)

頬が熱くなる。
せっかく追いかけてきたのに、聞けなかった情けなさと後悔が一気に押し寄せた。

その時、背後から声がした。
「相川さん?」

振り返ると、上司が書類を抱えて立っていた。
「顔、真っ赤ですよ。どうかしました?」

「な、なんでもありませんっ!」
梨花は慌てて背を向ける。
背中に刺さる上司の視線が、妙に痛かった。
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