君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

文字の大きさ
92 / 103

92話 見せない心

しおりを挟む
――社長室
梨花は、背筋を伸ばしたまま緊張していた。

コンコン。

「失礼します」

社長室のドアが開く音が、やけに響く。

「どうぞ」

蒼真は机に資料を置き、落ち着いた声で言う。

「水沢さんへのやり取りだけど……当たりが強く見えると報告があった。誤解されると、君も損をするよ」

その声音は怒っているわけではない。
静かで、逃げ道のない真っ直ぐさがあった。

梨花は一瞬だけ息を呑んだ。
怒られる、と身構えたはずなのに――胸の奥が妙に熱くなる。

「……す、すみません……。そんなつもりはなくて……」
(水沢さんについたあの“社長の愚痴”の嘘……まさか、何か伝わった?)

蒼真は首を横に振った。

「君は仕事が速いし、丁寧だ。だからこそ、言い方ひとつで印象が変わる。気をつけられるといいね」

“嘘が伝わっていない”と気づいた瞬間、胸に小さく安堵が波のように広がった。

(……よかった……バレてない)

やわらかい声なのに、芯がある。
「叱る」のではなく、「導いてくれる」声音。

そのバランスが絶妙で――
梨花の胸はどくん、と大きく跳ねた。

(……今の蒼真、すご…)
(私のことだけ見て、ちゃんと向き合って……心配までしてくれて……)

じわじわと顔が熱くなる。

「相川さん?」

「っ、はいっ! すぐ直します! 絶対に!」

「うん。期待してるよ」

“期待してるよ”
その一言が深く胸へ落ちていく。

(期待……されてる……?
それって……特別に見られてるってことじゃ……)

注意されたのに胸が熱くなる。
足が少し震えている。

社長室を出た瞬間、梨花は胸元を押さえた。

(……やばい……蒼真の言い方……優しいのに逃げられない感じ……ほんと無理……ああいうの……)

足取りは軽いのに、感情が追いついていない。

一方、その社長室に残った蒼真は――
閉まった扉をしばらく見つめ、ふっと息を吐いた。

(……本当は、もっと厳しく注意したかった。でも、親父さんとの関係もある……まずは態度を改めさせるしかない)

---

――廊下

社長室を出た梨花は、自然と歩幅が軽くなる。

(期待……されてるんだ、私……)

胸の奥が温かい。
そして、その温度が“余裕”に変わっていく。

(……水沢さんにちょっと優しくしてあげよ。私、余裕あるし)

――その優しさは本物でも、純粋でもなく。

蒼真に“選ばれた”ような優越感。
春菜より上に立てたような満足感。

そのせいで、表情がやわらかくなる。

梨花は春菜に声をかける。

「水沢さん、この前のレイアウト案、すごく見やすかったです。参考になりました」

刺々しさは一切ない。

春菜は、驚いたように目を見開いた。

(……さっきまであんなにきつかったのに)
(注意されただけで……こんな嬉しそうにする?)

梨花の機嫌の良さ、優しい声、柔らかい笑み――
どれも“注意された後”の反応としては不自然だ。

(もしかして……注意だけじゃなくて……蒼真さん、相川さんを……褒めたの?)

春菜の胸の奥で、不安が静かに膨らむ。

(だって……さっきまで刺々しかったのに……あんな顔、普通……する?)

「この資料、会議室に持っていくんですよね?
よかったら運ぶの手伝いますよ」

梨花は微笑む。
その余裕は、春菜にはただ優しさに見える。

けれど梨花の胸の内は、ねじれている。

(……水沢さん、ごめんね……社長から“期待してる”って言われたの、私だから)

春菜に優しくできるのは、
自分が“上にいる気がしている”から。

春菜には、その構図がまだ見えていない。

---

――夕方。帰り支度中。

「水沢さん、今日……大丈夫だった?」

「えっ……あ、はい。ありがとうございました」

唐突な優しさに胸が跳ねる。

「何か言いづらいことがあるなら、今後はちゃんと言ってほしい」

優しい声。

春菜は胸が温かくなる半面、
さっきの梨花の“嬉しそうな顔”が頭から離れない。

(……蒼真さんが相川さんを褒めるのが嫌、なんて……
言えるわけないじゃん)

「わかりました」

自然に“作れる”笑顔。
蒼真は、その作り笑いにすぐ気付いた。

「……水沢さんはいつも、自分を後回しにするから」

その言葉が優しすぎて、胸がじんと締め付けられた。

でも、その優しさが逆につらい。

(“相川さんの嘘に揺れた” だなんて……絶対知られたくない。
恋人なのに、ほんの一瞬でも疑ったなんて……最低じゃん、私)

けれど、どうしても知りたい。

「……高瀬社長。相川さんと、先ほど……何を話していたんですか?」

「君への態度を直すように注意したんだよ」

「それで……あんなに嬉しそうにしますか?」

「嬉しそう?」

「なんでもないです」

春菜は視線を逸らし、歩き出そうとした。

けれど――
その瞬間、誰にも見えない角度で蒼真の手がそっと春菜の手を取った。

(……相川の件は解決したはずなのに。どうして……まだ避ける?)

そんな疑問を抱えたまま、
蒼真は静かに春菜を空き会議室へと誘う。

扉を閉めた瞬間、蒼真の表情がふっとほどけた。

「……まだ避けてるの?」

指先が春菜の手を包み込む。

迷い、抑えていた熱がにじみ、
そのまま――そっと、手の甲に唇が触れた。

短いのに、息が詰まるほど熱を帯びたキス。

「……っ」

春菜の膝が震える。

(社内なのに……だめなのに……)
(こんなの、冷静でいられるわけ……)

蒼真は唇を離し、
静かだけど熱のある声で言った。

「言いたいことがあるなら、言って」

その視線が熱すぎて、正面から受け止められない。

「なんでもない!」

(“嫉妬した” なんて言えない……
あの嘘に揺れたなんて知られたら……信じてなかったと思われる……)

“嘘だと思いたい” 気持ちと
“もし本当だったら” という不安が混じって、
頭も心もぐちゃぐちゃだった。

逃げるように会議室のドアを開け、早足で廊下へ出る。

息が乱れて、胸がきゅっと痛いほど早く打っていた。

(……どうしてこんなに……隠したい気持ちばっかり……)

(褒められる相川さんが嫌だったことも……
一瞬でも不安になったことも……
全部、蒼真さんに知られたくない……)

それは――
恋人として “信じている” と胸を張っていたいから。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

皇宮女官小蘭(シャオラン)は溺愛され過ぎて頭を抱えているようです!?

akechi
恋愛
建国して三百年の歴史がある陽蘭(ヤンラン)国。 今年16歳になる小蘭(シャオラン)はとある目的の為、皇宮の女官になる事を決めた。 家族に置き手紙を残して、いざ魑魅魍魎の世界へ足を踏み入れた。 だが、この小蘭という少女には信じられない秘密が隠されていた!?

氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。 彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

恋と首輪

山猫
恋愛
日本屈指の名門・城聖高校には、生徒たちが逆らえない“首輪制度”が存在する。 絶対的支配者・東雲財閥の御曹司、東雲 蓮の「選んだ者」は、卒業まで彼の命令に従わなければならない――。 地味で目立たぬ存在だった月宮みゆは、なぜかその“首輪”に選ばれてしまう。 冷酷非情と思っていた蓮の、誰にも見せない孤独と優しさに触れた時、みゆの心は静かに揺れはじめる。 「おめでとう、今日から君は俺の所有物だ。」 イケメン財閥御曹司 東雲 蓮 × 「私はあなたが嫌いです。」 訳あり平凡女子 月宮 みゆ 愛とか恋なんて馬鹿らしい。 愚かな感情だ。 訳ありのふたりが、偽りだらけの学園で紡ぐカーストラブ。

【完結】孤高の皇帝は冷酷なはずなのに、王妃には甘過ぎです。

朝日みらい
恋愛
異国からやってきた第3王女のアリシアは、帝国の冷徹な皇帝カイゼルの元に王妃として迎えられた。しかし、冷酷な皇帝と呼ばれるカイゼルは周囲に心を許さず、心を閉ざしていた。しかし、アリシアのひたむきさと笑顔が、次第にカイゼルの心を溶かしていき――。

月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜

白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳 yayoi × 月城尊 29歳 takeru 母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司 彼は、母が持っていた指輪を探しているという。 指輪を巡る秘密を探し、 私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

【完結】ルースの祈り ~笑顔も涙もすべて~

ねるねわかば
恋愛
悪路に閉ざされた貧しい辺境ルースライン領。 兄を支えたい子爵令嬢リゼは、視察に来た調査官のずさんな仕事に思わず異議を唱える。 異議を唱えた相手は、侯爵家の子息で冷静沈着な官吏ギルベルト。 最悪の出会いだった二人だが、領の問題に向き合う中で互いの誠実さを知り、次第に理解し合っていく。 やがてリゼが王都で働き始めたことを機に距離を縮める二人。しかし立ちはだかるのは身分差と政略結婚という現実。自分では彼の未来を縛れないと、リゼは想いを押し込めようとする。 そんな中、故郷の川で拾われる“名もなき石”が思わぬ縁を呼び、リゼの選択と領の未来を動かしていく――。 想いと責務の狭間で揺れる青年と、自分を後回しにしがちな少女。 すれ違いと葛藤の先で、二人は互いを選び取れるのか。 辺境令嬢の小さな勇気が恋と運命を変えていく。 ※作中の仕事や災害、病、小物の知識などは全てフィクションです。史実や事実に基づいていないことをご理解ください。 ※8万字前後になる予定です。

処理中です...