君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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93話 今季一番の大寒波

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土曜日。

自治体との全体会議に使う資料をまとめるため、
春菜は KITE社側の素材を受け取りに来ていた。

会社へ向かう道、胸が少しだけ重い。

(……昨日のこと、まだちゃんと話せてないまま……)

蒼真に触れられたあの感触と、“言えなかった気持ち”の熱だけがまだ残っている。

そんな余韻をぐっと押し隠しながら、春菜はKITE社へ入った。

受付の女性が声をかける。

「土曜日なので会議室、空いてますよ。使われますか?」

「はい。お願いします」

ひとり会議室に入り、ノートPCを開いて作業を始めた。

その時、スマホの天気通知が震えた。

 ――《今冬最強の寒波が到来。都市でも大雪のおそれ》

外は昼なのにどんどん暗くなり、雪が音もなく降り続いている。

(……本当に降ってきた)
しばらく作業に集中しようと、視線を資料に戻したその瞬間――

ドアが、静かに開いた。

蒼真だった。

「高瀬社長……お疲れ様です。出勤していたんですね」

「うん。来るなら言ってくれればよかったのに」

言い方は穏やかだけど、
“距離を置かれている気がする”という彼の不安がまだ消えていないように聞こえた。

「いえ、私も急に来ることになったので——」

春菜が言い終える前に、蒼真がふっと笑う。

「……でも、会えてよかった。確認したいことがあったから」

その言葉に、春菜の心臓が小さく跳ねた。

(……また、昨日のこと……?)
(……逃げられない……)

春菜はほんの少しだけ目を伏せた。

(……目を見ると苦しくなる……)

蒼真は部屋に入り、静かに扉を閉めた。

その瞬間――
逃げ道をそっと塞がれたような気配がした。

「……俺から距離置いてたでしょ」

低い声。優しいのに、誤魔化せない。

「そ、そんなつもりじゃ……」

「ある」

短い一言に、胸がぎゅっとなる。

観念したように春菜は視線を落とした。

「………仕事は楽しいし、向き合ってるつもりで……でも、蒼真さんが相川さんの案を褒めてるのを見ると……」

そこまで言って、唇を噛んだ。

蒼真が一歩近づく。

「嫉妬……してた?」

春菜の心臓が跳ねた。
図星すぎて息が詰まる。

「……そんなの、社長なんだから、社員を評価するのは当たり前なのに。
でも……胸が苦しくて……私、みっともないですよね」

声が震えていた。

「俺からしたら、全然みっともなくない」

蒼真はその場に膝をつき、春菜と同じ目線になる。

「春菜が誰かに嫉妬してくれるなんて……嬉しいよ」

「……っ、蒼真さん……」

「でもちゃんと言っとく。俺が見てるのは春菜だけ。
相川さんの案がいいときは褒めるけど、気持ちが揺れたことは一度もない」

涙がにじむ。

「ほんとに……?」

「ほんと。春菜が最近そっけなかった方が、俺は不安だった」

胸の奥に突き刺さる。

ぽつりと、涙の粒が落ちた。

「ごめんなさい……私のほうが……すれ違ってた」

蒼真が指先で、春菜の指をそっと包む。
そのまま手の甲に柔らかくキスを落とした。

「仲直り、しよ?」

春菜は小さく頷き、手を握り返す。

頬を撫でられると、涙がもう一粒こぼれた。

「……泣かせるつもりじゃなかったのに」

「違うんです……安心して、涙が出ちゃって……」

春菜が恥ずかしそうに笑うと、蒼真の表情も緩む。

「これからは、ちゃんと言葉で伝えてほしい。嫉妬でも、不安でも」

「……はい」

短い返事なのに、胸の重さがすっと軽くなる。

蒼真が再び春菜の手を握る。

けれど――ふと思い出してしまう。
胸をざわつかせた、あの言葉。

「蒼真さん……相川さんに、私の愚痴を言いましたか?」

「……何の話だ?」

低い声。
一瞬で表情が変わった。

春菜は迷いながら続ける。

「相川さんが……“高瀬社長が、水沢さんの仕事遅いって言ってた”って……」

その瞬間、蒼真は深く息を吐き、額に手を当てた。

「……そんなことまで言ってたのか」

抑えた怒りがにじむ声だった。

「俺が春菜の仕事を悪く言うわけないだろ。
今まで一度も言ってない。“遅い”なんて言葉、絶対使ってない」

春菜の胸がきゅっと締めつけられる。

(じゃあ……相川さんが……)

すべてが腑に落ちる一方で、痛みが走った。

蒼真は一つ息をつき、春菜の頭にそっと手を置く。

「そんな嘘、信じなくていい。 俺が何をどう思ってるかは、これから全部言うから」

---

会議室を出ると、外は白一色。
大雪で電車は止まっていた。

「……帰れるか?」

蒼真が、わずかに眉を寄せた。

「落ち着くまで、うちにくるといい」

ほんの一瞬だけ迷って、春菜は小さく頷いた。

「……はい」 

蒼真の車に乗り、静かな夜の街をくぐり抜けていく。
高層マンションにつくと、春菜は圧倒される。

(た、高い……こんなところに蒼真さんが……)

エレベーターで30階へ。
降り立ったフロアは驚くほど静かだった。

「上がって」

部屋に入る。

落ち着いた色のリビング。
大きな窓の向こうに、雪の夜景が広がっていた。

「……綺麗……」

春菜が窓に近づいた瞬間――
蒼真は後ろからそっと春菜の手首をつかんだ。

その手の温度に、春菜の心臓が跳ねる。

振り向いたときには、もう距離はなかった。

「春菜」

名前を呼ばれただけで、膝が震える。
唇が触れた。

雪のように柔らかく、
途中からは熱を帯びたキスになっていく。

春菜の呼吸が乱れたところで――

「……ほんとは、帰すつもりないけど」

耳元で落とされた低い声に、春菜は全身が熱くなる。

「っ……蒼真さん……」

蒼真は春菜を抱きしめ、そっと髪に顔を埋めた。

雪明かりだけが二人を照らし、
触れ合う影がひとつに重なっていった。

---

翌週。
オフィスには、ほんのり甘いチョコの香りが漂い始めていた。
外はまだ真冬なのに、社内は少しだけ浮き立った空気がある。

デスクのあちこちで、女子社員たちが声をひそめて話していた。

「どうする? 今年」
「社長に渡すでしょ、やっぱり」
「お返し、去年すごかったもんね~!」

笑い声に混じって、包装紙を試す音まで聞こえる。

春菜はそれを横目に、書類にメモをとりながら小さく笑った。

(ふふ……みんな、お返し目当てなのね。
そういえばバレンタインの日、冬の海の撮影するんだっけ……誰の案だったのかな)

その様子を、斜め向かいの梨花がちらりと見る。
そして、唇の端をきゅっと上げた。

(見てなさい……絶対ドキッとさせるのは私!)

帰り際、梨花はスマホでレシピを検索しつつ呟く。

「ガトーショコラ? いやトリュフもいい……甘すぎない方が好きかなぁ……」

完全に恋する乙女の表情。

(蒼真、絶対驚くよね……ときめくかな……!)

一方、春菜はデスクでペンを走らせながら、ふっと視線を落とす。

(……蒼真さん、チョコ好きだったっけ?でも……もし手作りしたら……喜んでくれる……かな……)

考えた瞬間、自分で自分の顔が熱くなる。
どこかそわそわしながらも、胸の奥にほんの少しだけ甘いときめきが芽生えていた。
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