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96話 静かなる芽吹き
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診察の日。
待合室で春菜は両手をぎゅっと握りしめた。
指先が汗ばんでいるのが分かる。胸が落ち着かない。
名前を呼ばれ、エコー台へ。
ジェルのひんやりした感触が肌に触れた瞬間、胸の奥に緊張がじん、と走った。
モニターが明るくなり、楕円の中に——小さな人の形が浮かび上がった。
頭と胴の境目がふんわり見えて、手足の芽のようなものがちょこんと伸びている。
「ここが赤ちゃんですよ。8週です。心臓もしっかり動いていますね」
中央の小さな点が、規則正しくぴこ、ぴこ、と光っていた。
(……ほんとに……赤ちゃん……)
胸の奥がじんわり熱くなる。指先が震えて、呼吸がうまくできない。
(……ここにいるんだ……)
医師が静かに続ける。
「順調ですよ。大きさも週数どおりです」
その言葉を聞いた瞬間、春菜のまぶたがふるりと震えた。
(……守らなきゃ……)
その一瞬、彼女の表情は確かに母の顔になっていた。
---
翌日。
KITE社の会議室。
大きなモニターに「夏の観光PRキャンペーン」の資料が映される。
春菜の調子が悪く、自然と梨花が主導する形になっていた。
「この夏の観光PR動画案、A案とB案、どちらも一長一短ですが、効率的にはB案が優れていると思います」と梨花。
(海での失敗は忘れよう。今度は"仕事"で蒼真に認めてもらう)
春菜が微妙に頷き、口を開こうとした瞬間、頭がぼんやりとして言葉が出ない。
(今日もなんか…体が重い…本当なら私がやるべきなのに……今日ばかりは相川さんに頼るしかない……)
梨花は一瞬それに気づき、優しく声をかける。
「水沢さん、大丈夫ですか? 無理しなくてもいいですよ。もし必要なら、この部分は私が進めます」
春菜はほっとして微笑む。
「ありがとう…でも、私も確認するね」
声は小さい。体調のせいでいつもより慎重になっている。
梨花は笑顔だ。しかし心の中は違った。
(……やる気あるのかな?)
会議が進むにつれ、梨花は提案や補助を小まめに行う。
「この部分、明日までに確認してもらえますか?」
梨花は笑顔で声をかける。
一見すると気遣いの一言だが、胸の奥では別の考えが渦巻いていた。
(……これは、私の方ができるって示すチャンスだよね)
(相川さん…優しくなったな…今日は全然集中できないけど、助かる…)
---
会議が終わり、オフィスの机に向かいながら、梨花は軽くため息をついた。
今日のプロジェクト進行も、スケジュール調整も、すべて――自分が思った通りに回っている。
(ふふん……やっぱり私、動き早いな……)
プリントの束をまとめ、スケジュール表を確認する。
自分の段取りが正確で、皆が迷いなく動いているのを見るたび、胸の奥がじんわり熱くなる。
その視線の先で、春菜が資料の束を何度もめくり直していた。
指示メールの確認に手が止まり、小さなミスもいくつか目につく。
数字の入力も確かめ直すのに時間をかけている。
(……あ、やっぱり遅い。体調悪そうだし、まあ仕方ないけど……)
――ただ、梨花は知らない。
今日スムーズに動いている段取り表も、資料のテンプレートも、現場のフローも、会議前の下準備も。
そのほとんどが、何日も前から“春菜が整えていたもの”だということを。
春菜が朝のうちに細かく確認しておいた発注チェックリストも、外部会社との調整メモも、梨花が「使いやすい」と思っている資料整理の形も――
全部、春菜が体調の波を抱えながら作ってきたものだった。
だが、その事実は梨花の胸にある小さな優越感を何ひとつ邪魔しなかった。
それどころか、春菜が体調のせいで普段よりゆっくり動いている分、ますます“自分が有能に見えている”と確信する。
(私……水沢さんより上に立ってるよね……!)
机の向こうで社員たちがスムーズに動き、プロジェクトが予定より早く進行しているのを見て、梨花の頬に小さな笑みが浮かんだ。
(この優越感……最高……!)
誰にも邪魔されず、自分の采配で物事が動いているように思えるこの感覚――
春菜が少し手間取っている姿が視界に入るたび、その快感はさらに大きく跳ね返る。
梨花は胸を張って、机の下で小さくガッツポーズをした。周囲から見れば些細な仕草。
けれど梨花にとっては、世界で一番気持ちのいい瞬間だった。
---
その頃、同じフロアの廊下では女性社員が同僚に話しかけていた。
「今日、日差しめっちゃ強くない? 春なのに日焼けしそう」
「ほんと。外はぽかぽかだったよね~」
その横を、春菜はゆっくり歩いて通り過ぎた。
会話がふっと耳に入る。
……でも、春菜の身体は逆。
「……っさむ……」
自販機の前で腕をさすり、思わず小さく吐き出してしまう。
ちょうどその時。
「水沢さん、寒いんですか?」
蒼真が横から覗き込んできた。
「風邪では? 今日はむしろ暖かいくらいですよ」
「あの、高瀬社長……あの……その」
(妊娠のことを今ここで言うのは……違うかも)
「……風邪かもしれない、です」
「大丈夫ですか? 無理しないで早退していいですよ」
「はい。今のところは大丈夫です」
蒼真は心配そうに春菜を見つめ続けた。
---
数日後。
つわりが本格的に始まった。
朝はまったく食べられないのに、夜になると急にお腹が空いたり。
昨日は食べられたものが、今日は匂いだけで気持ち悪くなったり。
体調の波が激しく、会社へ行く気力が削られていく。
春菜の欠勤が続き、心配した蒼真から電話がかかってきた。
「病院は?迎えに行こうか?」
優しい声の奥に、春菜を案じる色が濃く滲んでいる。
(電話じゃ……言えない……)
「蒼真さん……会いたいです」
いつもなら言わない言葉だった。
その一言で、蒼真の胸に緊張が走る。
(春菜が……“会いたい”なんて。よほど辛いんだな……)
「わかった。今夜行くよ」
低く落ち着いた声。
でもその静けさの裏に、不安を押し隠しているのが分かる。
---
その夜、春菜の部屋。
緊張で言葉が震える中――
きゅるるる~。
春菜のお腹が鳴った。
「……食べながらゆっくり話そうか」
「デリバリー頼んでいいですか?」
「もちろん。何食べる?」
30分後、温かい料理が届いた。
その瞬間、春菜の食欲が急に戻る。
(おいしそう……)
はむはむ、と夢中で食べる春菜に、蒼真は少し安心したように笑う。
食べて落ち着いた春菜は、深呼吸して顔を上げた。
「……子どもが……できたみたい」
一瞬、世界が静まり返る。
蒼真は息を飲み、ゆっくり両手で顔を覆った。
しばらくの沈黙。
「……そうなんだ」
その声は、春菜の言葉を噛みしめるように、静かだった。
「はい……検査薬で……病院でも8週って」
蒼真の表情が見えず、春菜の胸に不安が広がる。
(……やっぱり、迷惑だったのかな……)
そして、蒼真はゆっくりと息をついた。
「……嬉しい、すごく。ありがとう」
蒼真の声が震えている。
「泣きそう……」
「蒼真さん……」
春菜の目から涙があふれ、止まらなくなった。
「……迷惑かなって思って……仕事もあるし……」
「迷惑なわけない。春菜が俺と“家族になる”未来が嬉しい」
優しい声に、春菜の不安はすっと溶けていく。
蒼真は少し考えるそぶりを見せた。
「……俺のマンションでも暮らせるけど」
春菜が顔を上げる。
「でも……赤ちゃんが生まれた後のことも考えたら、
今の場所はエレベーター遠いし、近くに小児科もないし……」
細かいことまで気にかける言葉に、春菜の胸がじんわり温かくなる。
「春菜が産後に楽できる場所。買い物も、病院も、保育園も、散歩も……全部ちょうどいい場所を探そう」
「……そんな先まで考えて……」
「大事だよ。これから家族なんだから」
「ちゃんと……守るから」
その声は冗談じゃなく、静かで真剣で、温かかった。
「これから忙しくなるな。でも楽しみで仕方ない」
蒼真はそのまま春菜のお腹にそっと手を添える。
「……よろしく」
春菜の胸の奥まで温かさが広がった。
待合室で春菜は両手をぎゅっと握りしめた。
指先が汗ばんでいるのが分かる。胸が落ち着かない。
名前を呼ばれ、エコー台へ。
ジェルのひんやりした感触が肌に触れた瞬間、胸の奥に緊張がじん、と走った。
モニターが明るくなり、楕円の中に——小さな人の形が浮かび上がった。
頭と胴の境目がふんわり見えて、手足の芽のようなものがちょこんと伸びている。
「ここが赤ちゃんですよ。8週です。心臓もしっかり動いていますね」
中央の小さな点が、規則正しくぴこ、ぴこ、と光っていた。
(……ほんとに……赤ちゃん……)
胸の奥がじんわり熱くなる。指先が震えて、呼吸がうまくできない。
(……ここにいるんだ……)
医師が静かに続ける。
「順調ですよ。大きさも週数どおりです」
その言葉を聞いた瞬間、春菜のまぶたがふるりと震えた。
(……守らなきゃ……)
その一瞬、彼女の表情は確かに母の顔になっていた。
---
翌日。
KITE社の会議室。
大きなモニターに「夏の観光PRキャンペーン」の資料が映される。
春菜の調子が悪く、自然と梨花が主導する形になっていた。
「この夏の観光PR動画案、A案とB案、どちらも一長一短ですが、効率的にはB案が優れていると思います」と梨花。
(海での失敗は忘れよう。今度は"仕事"で蒼真に認めてもらう)
春菜が微妙に頷き、口を開こうとした瞬間、頭がぼんやりとして言葉が出ない。
(今日もなんか…体が重い…本当なら私がやるべきなのに……今日ばかりは相川さんに頼るしかない……)
梨花は一瞬それに気づき、優しく声をかける。
「水沢さん、大丈夫ですか? 無理しなくてもいいですよ。もし必要なら、この部分は私が進めます」
春菜はほっとして微笑む。
「ありがとう…でも、私も確認するね」
声は小さい。体調のせいでいつもより慎重になっている。
梨花は笑顔だ。しかし心の中は違った。
(……やる気あるのかな?)
会議が進むにつれ、梨花は提案や補助を小まめに行う。
「この部分、明日までに確認してもらえますか?」
梨花は笑顔で声をかける。
一見すると気遣いの一言だが、胸の奥では別の考えが渦巻いていた。
(……これは、私の方ができるって示すチャンスだよね)
(相川さん…優しくなったな…今日は全然集中できないけど、助かる…)
---
会議が終わり、オフィスの机に向かいながら、梨花は軽くため息をついた。
今日のプロジェクト進行も、スケジュール調整も、すべて――自分が思った通りに回っている。
(ふふん……やっぱり私、動き早いな……)
プリントの束をまとめ、スケジュール表を確認する。
自分の段取りが正確で、皆が迷いなく動いているのを見るたび、胸の奥がじんわり熱くなる。
その視線の先で、春菜が資料の束を何度もめくり直していた。
指示メールの確認に手が止まり、小さなミスもいくつか目につく。
数字の入力も確かめ直すのに時間をかけている。
(……あ、やっぱり遅い。体調悪そうだし、まあ仕方ないけど……)
――ただ、梨花は知らない。
今日スムーズに動いている段取り表も、資料のテンプレートも、現場のフローも、会議前の下準備も。
そのほとんどが、何日も前から“春菜が整えていたもの”だということを。
春菜が朝のうちに細かく確認しておいた発注チェックリストも、外部会社との調整メモも、梨花が「使いやすい」と思っている資料整理の形も――
全部、春菜が体調の波を抱えながら作ってきたものだった。
だが、その事実は梨花の胸にある小さな優越感を何ひとつ邪魔しなかった。
それどころか、春菜が体調のせいで普段よりゆっくり動いている分、ますます“自分が有能に見えている”と確信する。
(私……水沢さんより上に立ってるよね……!)
机の向こうで社員たちがスムーズに動き、プロジェクトが予定より早く進行しているのを見て、梨花の頬に小さな笑みが浮かんだ。
(この優越感……最高……!)
誰にも邪魔されず、自分の采配で物事が動いているように思えるこの感覚――
春菜が少し手間取っている姿が視界に入るたび、その快感はさらに大きく跳ね返る。
梨花は胸を張って、机の下で小さくガッツポーズをした。周囲から見れば些細な仕草。
けれど梨花にとっては、世界で一番気持ちのいい瞬間だった。
---
その頃、同じフロアの廊下では女性社員が同僚に話しかけていた。
「今日、日差しめっちゃ強くない? 春なのに日焼けしそう」
「ほんと。外はぽかぽかだったよね~」
その横を、春菜はゆっくり歩いて通り過ぎた。
会話がふっと耳に入る。
……でも、春菜の身体は逆。
「……っさむ……」
自販機の前で腕をさすり、思わず小さく吐き出してしまう。
ちょうどその時。
「水沢さん、寒いんですか?」
蒼真が横から覗き込んできた。
「風邪では? 今日はむしろ暖かいくらいですよ」
「あの、高瀬社長……あの……その」
(妊娠のことを今ここで言うのは……違うかも)
「……風邪かもしれない、です」
「大丈夫ですか? 無理しないで早退していいですよ」
「はい。今のところは大丈夫です」
蒼真は心配そうに春菜を見つめ続けた。
---
数日後。
つわりが本格的に始まった。
朝はまったく食べられないのに、夜になると急にお腹が空いたり。
昨日は食べられたものが、今日は匂いだけで気持ち悪くなったり。
体調の波が激しく、会社へ行く気力が削られていく。
春菜の欠勤が続き、心配した蒼真から電話がかかってきた。
「病院は?迎えに行こうか?」
優しい声の奥に、春菜を案じる色が濃く滲んでいる。
(電話じゃ……言えない……)
「蒼真さん……会いたいです」
いつもなら言わない言葉だった。
その一言で、蒼真の胸に緊張が走る。
(春菜が……“会いたい”なんて。よほど辛いんだな……)
「わかった。今夜行くよ」
低く落ち着いた声。
でもその静けさの裏に、不安を押し隠しているのが分かる。
---
その夜、春菜の部屋。
緊張で言葉が震える中――
きゅるるる~。
春菜のお腹が鳴った。
「……食べながらゆっくり話そうか」
「デリバリー頼んでいいですか?」
「もちろん。何食べる?」
30分後、温かい料理が届いた。
その瞬間、春菜の食欲が急に戻る。
(おいしそう……)
はむはむ、と夢中で食べる春菜に、蒼真は少し安心したように笑う。
食べて落ち着いた春菜は、深呼吸して顔を上げた。
「……子どもが……できたみたい」
一瞬、世界が静まり返る。
蒼真は息を飲み、ゆっくり両手で顔を覆った。
しばらくの沈黙。
「……そうなんだ」
その声は、春菜の言葉を噛みしめるように、静かだった。
「はい……検査薬で……病院でも8週って」
蒼真の表情が見えず、春菜の胸に不安が広がる。
(……やっぱり、迷惑だったのかな……)
そして、蒼真はゆっくりと息をついた。
「……嬉しい、すごく。ありがとう」
蒼真の声が震えている。
「泣きそう……」
「蒼真さん……」
春菜の目から涙があふれ、止まらなくなった。
「……迷惑かなって思って……仕事もあるし……」
「迷惑なわけない。春菜が俺と“家族になる”未来が嬉しい」
優しい声に、春菜の不安はすっと溶けていく。
蒼真は少し考えるそぶりを見せた。
「……俺のマンションでも暮らせるけど」
春菜が顔を上げる。
「でも……赤ちゃんが生まれた後のことも考えたら、
今の場所はエレベーター遠いし、近くに小児科もないし……」
細かいことまで気にかける言葉に、春菜の胸がじんわり温かくなる。
「春菜が産後に楽できる場所。買い物も、病院も、保育園も、散歩も……全部ちょうどいい場所を探そう」
「……そんな先まで考えて……」
「大事だよ。これから家族なんだから」
「ちゃんと……守るから」
その声は冗談じゃなく、静かで真剣で、温かかった。
「これから忙しくなるな。でも楽しみで仕方ない」
蒼真はそのまま春菜のお腹にそっと手を添える。
「……よろしく」
春菜の胸の奥まで温かさが広がった。
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