君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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97話 欠けたピース

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数日後の夜。

春菜の部屋のチャイムが鳴った。

「蒼真さん……」

ドアを開けると、手に小さな紙袋を持った蒼真が立っていた。
あの日以来、彼は春菜の体調を気遣い、食べられるものや飲みやすいものを時々持ってきてくれている。

「おじゃまします」

「いつもありがとう。お疲れさま」

二人は自然と微笑み合い、テーブルに紙袋を置いて並んで座った。
他愛ないやり取りがしばらく続いたあと、蒼真が静かに切り出す。

「……実は、話したかったことがある」

春菜は姿勢を正し、彼を見る。

「なに?」

蒼真は小さく息を整え、春菜の手にそっと触れた。

「両家への報告、どうしようか」

言葉は温かかったが、真剣な響きもあった。

「春菜のご両親には……先に知らせたほうがいいと思う。心配かけたくないから」

春菜は小さく頷く。

「……そうだね。驚くだろうなって思うけど」

「うん。だからこそ、春菜が一人で背負わないように、俺も一緒にいるから」

そう言ってから、蒼真は少しだけ表情を引き締めた。

「でも……俺の両親へ伝えるのは、婚姻届を出してからにしようと思ってる」

春菜は瞬きをした。

「え……今は言わないの?」

「うちの母は心配性だから。話が一気に式やら段取りやらに飛ぶと思う。
春菜の体調が落ち着いて、俺たちが籍を入れてから、ちゃんと紹介したい」

その言葉には、逃げではなく責任感があった。

春菜の肩から余計な力がふっと抜ける。

「……そういう理由なら安心する」

「ありがとう。それで……今、電話する?」

「うん……する」

「俺も横で聞いてていい?」

「……うん」

春菜は深呼吸をしてスマホを取った。

---

「……もしもし、お母さん?」

『春菜?どうしたの?』

春菜は一度息をのみ、小さく告げた。

「赤ちゃん……できたみたい」

一瞬、空気が止まった。

『……本当なの……? えぇ……! そ、それで相手の人は?』

「仕事で知り合った人。……ちゃんとしてる人だよ」

『そう……! それで? 結婚の話は?』

「これから二人で決めるよ。今は……つわりがつらくて」

『まあ……!春菜、大丈夫?無理してないの?』

母の優しさに、春菜は少しだけ涙が溢れそうになる。

『おめでとう、春菜……お母さん、会いたいわね。その人にも』

「今、隣にいるから……代わるね」

『え!? い、今!?』

スマホを受け取った蒼真は姿勢を正す。

「初めまして。高瀬蒼真と申します。春菜さんとは、今後を真剣に考えています。
体調が落ち着いたら、改めてご挨拶に伺わせてください」

『……娘をよろしくお願いしますね』

「こちらこそ、どうか安心してください」

電話を切ると、春菜は緊張から解放され、深く息をついた。

---

電話を終えた母は、居間にいる父へ向き直った。

「春菜、妊娠したって」

「……は? 相手はどんな男だ」

「声だけだけど、礼儀正しそうな人だったわ。今度二人で来るんですって」

「……そうか。なら、会って確かめればいい」

不器用な父なりの「娘を守りたい」が滲み出ていた。

---

「蒼真さん、もうひとつ相談があるの」

「うん?」

春菜は勇気を出して言った。

「つわりがひどくて……夏の観光PRプロジェクト、このまま続けるのは無理かもしれない」

蒼真は驚くことも怒ることもせず、ただ優しく聞いてくれた。

「春菜が出した結論なら、俺は尊重する。体調が第一だよ。無理しないで」

その言葉だけで春菜は涙がにじむほど救われた。

「……ありがとう」

---

翌日。クリエイト・パートナーズ。

春菜は少し震える手で、上司のデスクをノックした。

「失礼します……水沢です」

上司は振り向き、穏やかに微笑む。

「どうした、水沢さん。体調大丈夫なの?」

春菜は言葉を整え、体調の事情を説明する。
「実は……その事で。つわりの影響で、今のプロジェクトの進行に十分に関われそうにありません。大変申し訳ありませんが、今回の夏の観光PRプロジェクトは辞退させていただきたいと思っています」

上司は少し考えた後、静かに頷いた。
「なるほど……君の体調が一番だ。無理をしてもパフォーマンスは落ちる。わかった、社内で調整して進めるようにする」

春菜は深く頭を下げた。

(……これで、少し安心できる……)

---

同日、KITE社。

梨花は廊下を歩いている時、開いた休憩室の扉から声が漏れ聞こえてきた。

「水沢さん、プロジェクト辞退したって聞いた?」

「え、本当?向こう大丈夫なのかな」

その会話が耳に入った瞬間、梨花の胸がざわつく。

(……水沢さんが、抜けた?)

「じゃあ、KITE側は相川さんが実質まわす感じになるんじゃない?」

その一言が、梨花の胸を一気に熱くした。

(やっぱり……!
私のほうが評価されてるってことだよね)

蒼真が自分を見る姿が、都合よく鮮やかに浮かぶ。

(神様っているんだ……。だって、こんなタイミングある?)

休憩室の奥では女性社員たちの会話が続く。

「いやいや、それはないでしょ。試用期間中だし」

「だよねー」

しかし――

梨花の耳には「相川が中心」だけが強く響いていた。

胸は高鳴り、頬が熱くなる。

完全に誤った期待だけが、静かに膨らみ始めていた。
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