君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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98話 静かな制裁、静かな勘違い

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数日後の昼休みが終わった頃。

梨花が資料をまとめていると、
デスクの端にある共有スペースで誰かの足音が止まる。

顔を上げると――蒼真が立っていた。

「相川さん、ちょっといいですか」

(……え……なに)

蒼真は周りを見渡し、少し小声で言う。

「急ぎで確認したい資料があって。会議室が埋まってるので……ここ、スペース広いですよね」

共有スペースは書類の山で他のメンバーが塞いでおり、梨花のデスク横のスペースが唯一、資料を広げられる場所だった。

――つまり、普通の業務判断。

だが、梨花はそんな冷静な解釈は一切しない。

(え……私の横がいいってこと……?)

蒼真は椅子を引き、梨花の隣に自然に座る。
距離が近い――ただ資料を広げるための距離なのに、梨花の胸は勝手に熱くなる。

「水沢さんの代わりの人が来るまで、僕があなたのフォローに入ります。負担が偏るといけませんから」

(私のこと心配してくれてる……)

梨花は胸を押さえ、平静を装いながら答える。

「高瀬社長……私、一人でも大丈夫ですよ」

「いいえ。責任を一人に背負わせたら、体調を崩すかもしれない」

優しい声――ただの上司としての気遣い。
しかし梨花には完全に“特別扱い”にしか聞こえない。

(声、優しい……距離も近い……え、これ、もう……)

蒼真は当たり前のように梨花の前に資料を広げ、
淡々とページを指で押さえながら確認していく。

「この部分、来週までに準備しておきましょう」

「はい……!」

蒼真が資料を手渡す瞬間、指先がほんの一瞬触れる。

(触れた……! 平静をよそおってるのは……わざと……?)

梨花の視線は資料ではなく、蒼真の横顔。
春菜がいなくなったことで、自分が舞台の主役になったと確信していた。

(……素直じゃないな……蒼真は……)

そんな思いを胸に、
無意識に胸元を張って姿勢を整える。

その動きで――シャツの隙間がふっと開いた。

ちょうどその瞬間、蒼真が資料を受け取ろうとして視線を下げる。

視界の端に、柔らかな胸元が入り込んだ。

蒼真は一瞬だけ視線を逸らし、わずかに姿勢を戻した。
その小さな動きに、自分でも気づかぬ程度の警戒が混じる。

(……距離が近いな)

だが――

梨花はその視線の動きを、まったく別の意味に変換していた。

(……見た。やだ……どうしよう……!)

胸の奥で膨らむ期待は、止まる気配を見せなかった。

---

胸チラが起きてから、この一週間、梨花は明らかに距離を詰めてきていた。

椅子を引くときに足が触れるほど近づいてくる。
資料を渡すときに、無駄に指先を当ててくる。
姿勢を正すたびに胸元が揺れて視界に入る。

(……これは、偶然じゃない)

ビジネスの現場で、距離を詰めてくるスタッフとは何度も会ってきた。
その「空気」が、梨花からもはっきりと漂っていた。

(胸元も……必要以上に寄ってくるのも……このままでは本人が潰れる)

そして何より――

(……春菜が見たら、間違いなく不快だ)

胸の奥がじわりと重くなる。

社内で変な噂を立てられたり、合同プロジェクトの空気を壊されるのは避けたい。
それに、春菜に余計な不安を与えたくない。

---

昼休み明け。

蒼真は社長室に入り、扉を閉じた途端、深く息を吐いた。
書類を一度きちんと揃え、電話を取る。

相手は、クリエイト・パートナーズ社のプロジェクト責任者。
KITEからの連絡とあって、彼はいつもよりわずかにかしこまる。

「高瀬です。少しご相談がありまして」

『どうされました?』

「例の合同案件で、うちの新人・相川が動いていますが……正直、現場経験が浅く、進行管理の細かい部分で手が回っていません」

ここは事実だ。
“距離の問題”など言う必要はない。

「弊社内部の人員が今足りず、教育フォロー役を確保できません。外部から、一時的に“業務サポート兼指導役”をアサインすることは可能でしょうか」

『なるほど。業務フォローの一部委託という形ですね。承知しました、人選を急ぎます』

「可能なら、経験豊富で指導の厳しい女性スタッフを……。プロジェクトの質を保つためにも、甘さのない方が理想です」

『分かりました。御社の基準に沿える人材を優先して選びます。社内で調整しますね』

「助かります」

電話を切ると、蒼真は深く背もたれに沈んだ。

(今のままでは相川は危うい…………社内の誤解も、春菜の不安も、これで、多少は防げる)

---

数日後

昼下がり。

「相川さん、ちょっと来てくれるか」

蒼真に呼ばれた瞬間、梨花の胸は跳ねた。

(えっ……な、なに……?この前の、あの視線……やっぱり気付いてたんだ。胸元、ちょっと開いてたし……絶対、私のこと意識してる……!)

妄想は一瞬で加速する。

(まさか告白……!?)

社長室の前で深呼吸し、頬を赤くしてノックした。

「し、失礼します……」

蒼真は淡々と資料を閉じ、椅子から軽く身を起こした。

「座って」

「はい!」

そんな期待で胸を膨らませていると――

「クリエイト・パートナーズから、水沢さんの代わりの担当者が決まった」

「えっ、もう決まったんですか?どんな方が?」

「社歴の長い女性だ。水沢さんの教育担当もしていたらしい。かなり仕事に厳しいタイプだそうだ」

そこで一拍置き、

「……その方が、しばらく君の“業務サポート兼・指導役”になる」

梨花は、ぽかんと口を開けた。

「わ、わたしの……指導役……?」

「そうだ。今回の案件はミスが許されない。経験者から細かい部分を学んでほしいし――今の君には、その環境が必要だと判断した」

淡々とした声。優しさはあるが、甘さは一切ない。

梨花の胸はきゅっと縮む。

(え……?わたし……なにか……まずいことした……?)

でも、その違和感をうまく言語化できない。
“理由”に思い当たる節が、本人にはないから。

ただ、蒼真の判断が“特別なもの”だと勘違いし、
期待と不安が胸の奥で渦巻く。

(私に……もっと厳しい人をつける?それって……私のために……?)

「……が、頑張ります……!」

---

翌日。

クリエイト・パートナーズからやってきたのは
槇村(まきむら)美和。五十代後半。
背筋は真っすぐ、声に芯があり、目力は槍のよう。

第一声で梨花は呼吸を忘れた。

「あなたが相川さんね。今日から私が見るわ。覚悟しておきなさい」

「えっ、よ、よろしくお願いします……!」

「声が小さい! 現場では通らないわよ!」

「ひっ……はいっ!」

何この迫力。
水沢さんが優しすぎただけ……?
いや、これは別の生き物……。

槇村は資料をぱらぱらめくると、容赦なく指摘を入れてくる。

「この構成ね、悪くないけど“読んだだけ”の構成よ。
夏の温度、湿度、匂い……体験として落とせてない」

「す、すみません……!」

「謝る前に考えなさい。あなたならできる」

「……はいっ!」

ズバッ、ズバッ、ズバァァッ。

心が刺さり続ける。
けれど――そのどれもが、正しい。

(き、厳しい……!でも……こんな“格上の人”が私に……?
水沢さんの代わりに、もっとすごい人が私についてくれてるってことだよね?やっぱり……私の方が上なんだ……!)

胸の奥がじわりと熱を持つ。

そのとき、蒼真が通りかかった。
視線が一瞬だけ梨花をかすめ――すぐに槇村へ向く。

「槇村さん、お願いします」

「任せてください。甘やかすつもりはありませんので」

(そ、そそそ蒼真……!こんな厳しい人を私につけたって……それって……私を“本気で育てようとしてる”ってこと……?大切にされてる……ってことだよね……?)

胸の鼓動がうるさいほど跳ねる。

(もっと成長したら……もっと素敵な女性になれたら……
蒼真、気づいてくれるかな……)

そして――。

(うん……っ。絶対、結婚するんだ……!)

梨花は目を輝かせながら、地獄の指導初日へと踏み出した。
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