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99話 言葉で伝えたくて
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5月中旬 ― つわり明け。
槇村による梨花への鬼指導は相変わらず続いていたが、その一方で、春菜の日々はつわりも落ち着き、ゆっくりと穏やかさを取り戻しつつあった。
春菜のマンションには、蒼真が静かに訪れていた。
テーブルには新居候補の分厚い資料が広がっている。
春菜は間取り図を眺めながら、眉をひそめる。
「……一軒家?」
賃貸マンションの広めの部屋を想像していた春菜には、
庭付きの家は少し意外だった。
蒼真は、少し気恥ずかしそうに咳払いをした。
「春菜が……安心できる場所を作りたかった。それに、子どものこともあるし。
早いかなとは思ったけど……今のうちに決めたほうがいいと思った」
その声音には、責任感ではなく、確かな思いやりがにじんでいた。
春菜が反応に迷っていると、蒼真がそっと視線を落とす。
「……春菜」
呼ばれて顔を上げた瞬間。
蒼真は小さな深呼吸をし、ポケットから小さなリングケースを取り出した。
動作の一つひとつが丁寧で、慎重で、そして――震えていた。
「え……」
ケースがゆっくりと開く。
光を吸い込むようにきらめく指輪が姿を現した。
息が止まる。
胸の奥が、ぎゅ、と温かくなる。
蒼真は春菜を正面から見つめ、静かに言った。
「春菜……結婚しよう」
その声には、迷いがなかった。
責任からでも、流れでもない。
“春菜を選んだ”という確かな意志だけがあった。
春菜の目がじわりと熱くなる。
(……ちゃんと言葉にしてくれた……)
春菜は、蒼真が“結婚するつもりでいる”ことを知っていた。
それでも、心のどこかでは――
“いつかちゃんとプロポーズしてほしい”と思っていた。
その願いが今、目の前で叶っている。
「……はい……」
声が震えて、それ以上の言葉は出てこなかった。
蒼真はそっと指輪を差し出し、春菜の左手を包む。
「……ありがとう」
「……こちらこそ」
指輪が指におさまった瞬間、胸がふわりと満ちていく。
蒼真は、少し照れたように付け加えた。
「……あの、その……家のことなんだけど」
「一軒家……いいと思う。子どものことも考えたら」
自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
さっきまで夢みたいだった未来が、
急に少しだけ現実の形を持ちはじめていた。
「じゃあ、二人で見に行こう」
蒼真の声が、ほっと温かく揺れた。
---
蒼真はこの日まで、一人で何度も考えていた。
妊娠を知ってすぐ、責任だけを理由に春菜を繋ぎとめることはしたくなかった。
春菜を追い詰めるようなこともしたくなかった。
(――俺が結婚したいのは、春菜だからだ)
そう言葉にしなければ意味がない。
曖昧なままでは、春菜が不安になる。
その想いが今日のプロポーズにつながっていた。
---
6月初旬 ― 婚姻届提出の日
初夏の風がやわらかく吹く朝。
市役所のロビーは明るい日差しで満ちていた。
婚姻届を手にした蒼真は、社長らしい落ち着きとは違う、不器用な照れをまとっている。
春菜も、胸の前に婚姻届を抱え、自然と表情がゆるむ。
「……いよいよだね」
春菜の小さな呟きに、蒼真は短く「ああ」と返す。
並んで記入欄に向かい、二人でペンを走らせる。
右手と左手が時折触れ、そのたびに胸が温かくなる。
窓口に差し出すと、職員の女性が微笑んだ。
「確認いたしますね」
数十秒――
ただ待つだけなのに、とても長く感じた。
「……はい。受理いたしました。ご結婚おめでとうございます」
その瞬間、胸がふわりとほどけるように温かくなる。
「これで……正式に夫婦だね」
「うん」
建物を出ると、初夏の陽射しがふたりを照らす。
やわらかい風が通り抜け、肩に落ちる影を揺らした。
春菜は小さく息をつき、そっとお腹に手を添える。
(……この人となら、大丈夫)
未来が、今日から確かに始まった。
「……これからもよろしくお願いします」
「もちろん。ずっと一緒だ」
ふたりの足取りは軽く、同じ方向へ進んでいく。
赤ちゃんとともに始まる新しい生活を抱えて――
春菜は静かに微笑んだ。
槇村による梨花への鬼指導は相変わらず続いていたが、その一方で、春菜の日々はつわりも落ち着き、ゆっくりと穏やかさを取り戻しつつあった。
春菜のマンションには、蒼真が静かに訪れていた。
テーブルには新居候補の分厚い資料が広がっている。
春菜は間取り図を眺めながら、眉をひそめる。
「……一軒家?」
賃貸マンションの広めの部屋を想像していた春菜には、
庭付きの家は少し意外だった。
蒼真は、少し気恥ずかしそうに咳払いをした。
「春菜が……安心できる場所を作りたかった。それに、子どものこともあるし。
早いかなとは思ったけど……今のうちに決めたほうがいいと思った」
その声音には、責任感ではなく、確かな思いやりがにじんでいた。
春菜が反応に迷っていると、蒼真がそっと視線を落とす。
「……春菜」
呼ばれて顔を上げた瞬間。
蒼真は小さな深呼吸をし、ポケットから小さなリングケースを取り出した。
動作の一つひとつが丁寧で、慎重で、そして――震えていた。
「え……」
ケースがゆっくりと開く。
光を吸い込むようにきらめく指輪が姿を現した。
息が止まる。
胸の奥が、ぎゅ、と温かくなる。
蒼真は春菜を正面から見つめ、静かに言った。
「春菜……結婚しよう」
その声には、迷いがなかった。
責任からでも、流れでもない。
“春菜を選んだ”という確かな意志だけがあった。
春菜の目がじわりと熱くなる。
(……ちゃんと言葉にしてくれた……)
春菜は、蒼真が“結婚するつもりでいる”ことを知っていた。
それでも、心のどこかでは――
“いつかちゃんとプロポーズしてほしい”と思っていた。
その願いが今、目の前で叶っている。
「……はい……」
声が震えて、それ以上の言葉は出てこなかった。
蒼真はそっと指輪を差し出し、春菜の左手を包む。
「……ありがとう」
「……こちらこそ」
指輪が指におさまった瞬間、胸がふわりと満ちていく。
蒼真は、少し照れたように付け加えた。
「……あの、その……家のことなんだけど」
「一軒家……いいと思う。子どものことも考えたら」
自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
さっきまで夢みたいだった未来が、
急に少しだけ現実の形を持ちはじめていた。
「じゃあ、二人で見に行こう」
蒼真の声が、ほっと温かく揺れた。
---
蒼真はこの日まで、一人で何度も考えていた。
妊娠を知ってすぐ、責任だけを理由に春菜を繋ぎとめることはしたくなかった。
春菜を追い詰めるようなこともしたくなかった。
(――俺が結婚したいのは、春菜だからだ)
そう言葉にしなければ意味がない。
曖昧なままでは、春菜が不安になる。
その想いが今日のプロポーズにつながっていた。
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6月初旬 ― 婚姻届提出の日
初夏の風がやわらかく吹く朝。
市役所のロビーは明るい日差しで満ちていた。
婚姻届を手にした蒼真は、社長らしい落ち着きとは違う、不器用な照れをまとっている。
春菜も、胸の前に婚姻届を抱え、自然と表情がゆるむ。
「……いよいよだね」
春菜の小さな呟きに、蒼真は短く「ああ」と返す。
並んで記入欄に向かい、二人でペンを走らせる。
右手と左手が時折触れ、そのたびに胸が温かくなる。
窓口に差し出すと、職員の女性が微笑んだ。
「確認いたしますね」
数十秒――
ただ待つだけなのに、とても長く感じた。
「……はい。受理いたしました。ご結婚おめでとうございます」
その瞬間、胸がふわりとほどけるように温かくなる。
「これで……正式に夫婦だね」
「うん」
建物を出ると、初夏の陽射しがふたりを照らす。
やわらかい風が通り抜け、肩に落ちる影を揺らした。
春菜は小さく息をつき、そっとお腹に手を添える。
(……この人となら、大丈夫)
未来が、今日から確かに始まった。
「……これからもよろしくお願いします」
「もちろん。ずっと一緒だ」
ふたりの足取りは軽く、同じ方向へ進んでいく。
赤ちゃんとともに始まる新しい生活を抱えて――
春菜は静かに微笑んだ。
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