君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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5話 その好きは、誰のため

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春菜は約束の時間に合わせて、KITE社のビルに足を踏み入れた。

エントランスを抜け、エレベーターのボタンを押すと、後ろから声がかかった。

「おはようございます、水沢さん」

反射的に振り返ると、そこには高瀬蒼真の姿があった。

「た、高瀬社長……! おはようございます!」

途端に背筋が伸びる。だが、蒼真は穏やかに微笑んだ。

「エレベーター、一緒にいいですか」

春菜は小さく頷き、2人で無言のまま乗り込んだ。数字のランプが静かに上っていく。

「先日の資料、ありがとうございました。内容、良かったです」

「え……あ、ありがとうございます!」

思わず声が上ずる。嬉しさと、緊張と、なによりその「直接の言葉」が心に響いた。

「レイアウトや構成、少し見直して提案してみませんか。今後も、あなたに担当していただきたい」

「はい!よろしくお願いします!」

春菜の目が大きく見開かれる。蒼真は一拍置いて、少しだけ視線を外した。

「……あなたの目を見て、言葉を聞いて。信頼できると思いました。仕事として、ですけどね」

「はい……! が、頑張ります!」

扉が開く直前、蒼真はふっと小さく笑った。

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」

そう言って去っていく彼の後ろ姿を、春菜は呆然と見送った。


---

その夜、優斗の部屋。

「……最近、なんかそわそわしてない?」

本棚から本を取り出していた神谷晃かみたにひかるがぽつりとつぶやいた。

「してないって」

「春菜さんと何かあった?」

「何も……いや、違うな。何もなかったって言うのは、違うかも」

優斗はソファに倒れ込み、しばらく沈黙したまま天井を見上げていた。

「春菜のこと、本当に好きだったんだ。でも今は、恋愛感情というより、大切な人で……一緒にいると安心する。心地よくて。たぶんその心地よさに甘えて、関係を続けてた」

晃は黙って、隣に腰を下ろした。

「でも……おまえに出会って、初めて知ったんだ。“どうしようもなく惹かれる”って感情を」

「……」

「それを認めるのが怖かった。だから、春菜との“普通”に逃げてた。だけど、もう逃げたくない。おまえに、ちゃんと向き合いたいと思ってる」

晃はゆっくりと目を細めた。

「……だったら、ちゃんと見てよ。怖がらないで。……俺はもう、とっくにお前に全部、見られてたのに」

「ごめん。晃を傷つけたくなかった、って言いたいけど……本当は、自分が怖くて避けてた。だからって、許してほしいとは言わない。ただ、ちゃんと話したかったんだ」

静かな夜の空気の中で、沈黙が少しだけ優しく変わっていった。


---

翌日、春菜のスマホにメッセージが届いた。

【高瀬社長】
午後の空いてる時間に、資料の見直しを一緒にしませんか?
会議室Aを押さえておきます。

春菜の心が、一瞬浮き立つ。

──それは仕事だ。わかってる。

でも、そのメッセージを眺めている時間だけは、胸が熱を帯びるのだった。


---

同じころ、優斗もスマホを見ていた。

晃からの短いメッセージ。

【晃】
今夜、話そう。ちゃんと。

優斗は深く息を吐いた。

心のどこかで、そろそろ選ばなきゃいけないと思っていた。

"大切な人"と、いつまでも言っていられるわけじゃないことを。


---

春菜が会議室に入ると、蒼真はすでに資料を広げて待っていた。

「来てくれてありがとう」

「いえ……こちらこそ、声かけていただいて嬉しかったです」

資料を挟んで、向かい合うふたり。その距離は、ほんの少しだけ近づいていた。
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