君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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25話 笑わない瞳

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「春菜さん、お疲れ様でした!やっと一区切りですね」

成瀬の明るい声に、春菜は思わず笑みをこぼす。

「ほんと、お疲れさま。今回の提案、すごく良かったよ」

「ありがとうございます……もしよかったら、このまま軽く飲みに行きません? 実は俺、今夜だけちょっとご褒美気分なんです」

無邪気な笑顔に背中を押されるように、春菜は頷いた。

二人が向かったのは、オフィス街から少し外れた落ち着いた和食処。木のぬくもりを感じる店内には、しんとした品のいい空気が漂っていた。

個室ではないが、仕切りがあり半個室のような静けさ。ちょっと贅沢だけど、今夜くらいはいいかもしれない。

「ここ、知人に教えてもらったんです。静かで、料理も美味しいって」

席につき、乾杯のグラスを合わせる。

「ほんとに、ありがとうね。今回のプレゼン、成瀬くんがいなかったら、絶対に間に合ってなかった」

「いえいえ、春菜さんがちゃんと導いてくれたからですよ」

そんなささやかな言葉のやりとりを交わしながら、二人の前にはあたたかい小鉢や香ばしい焼き物が運ばれてくる。

……が。

「いらっしゃいませ」

店の入口から聞こえた声に、春菜の耳がぴくりと動いた。

視線をそっと向けると、そこには、見慣れたスーツ姿の後ろ姿があった。

(……高瀬社長?)

隣に並ぶのは、落ち着いた色合いのワンピースを着た女性。長い髪がなめらかに肩をすべり、控えめながら気品を感じさせる。

二人は店員に案内され、ちょうど仕切りを隔てた隣の席に腰を下ろす。

笑顔で話す彼女と、それに相づちを打つ蒼真。ごく自然に、まるで――恋人、あるいは結婚相手。

胸の奥に冷たい何かがじわりと広がった。

そのとき、ふいに蒼真がこちらに気づいた。

視線が合う。驚いたように、少しだけ目を見開く。

春菜は、立ち上がって会釈をした。声が震えないように、ぎゅっと手のひらを握る。

「こんばんは。偶然ですね」

蒼真はほんの一瞬間をおいて、表情を整えた。

「……ええ、本当に偶然ですね。お疲れさまです」

その声は、いつもの丁寧で冷静なものだった。でも、目が――笑っていなかった。

隣の女性が春菜に気づき、微笑みながら軽く会釈をする。

「こんばんは。お仕事の方ですか?」

春菜は戸惑いながらも、笑顔を返した。

「はい。少しだけ……打ち上げみたいなものです」

女性は、それ以上は深く聞かずに、また蒼真の方へ視線を戻した。自然な仕草だった。それが、かえって胸に刺さる。

---

成瀬の明るい声が、隣の席まで届いた。

「春菜さん、この出汁、めちゃくちゃ美味しいですね。ほら、もう一口どうぞ!」

いつもの調子で無邪気に笑う成瀬。遠慮のない距離感。その楽しげな空気に、春菜の笑みは引きつりそうになった。

そして――その声を聞いた蒼真は、グラスのワインを口に運んだ。
隣の席の声が、なぜか耳について離れなかった。

「いやー、本当に助かりましたよ、春菜さん!あの一言でクライアントが笑ったとき、俺、正直泣きそうでしたから!」

「そんな大げさな……でも、よかったね」

春菜が少し照れたように笑う。その表情に、成瀬はさらに顔をほころばせた。

「いやいや、春菜さんマジで最高ですって。ほんと、俺、一生ついていきますよ!」

いつもの軽いノリで言った成瀬の言葉。無邪気な笑い声が店内に響く。

その声を聞きながら、蒼真はワインをもう一口飲んだ。
ワインが回るにつれて、胸の奥に名状しがたい感情が湧き上がってくる。

(……何を、無防備に笑っている)

視線の端で、春菜の笑顔がちらつく。成瀬の方を見て、心から笑っているように見えるその表情に、理由の分からない苛立ちが募った。

(ああいう声、俺の前では出さなかったくせに)

普段なら理性で抑え込む感情が表に出始めていた。
喉元までこみ上げる嫉妬を、なんとか押し殺そうとする。

グラスの中のワインをまた口に運びながら、蒼真は静かに息をつく。

(仕事だ。……俺は、ただの取引先の社長だ)

それだけのこと。そう自分に言い聞かせるたびに、何か大切なものを失うような鈍い痛みが広がっていった。

蒼真がワインを口に運ぶたび、その視線の奥で言葉にならない何かが揺れていた。

横に座る女性が、柔らかく笑みを浮かべて話しかける。

「お料理、とても美味しいですね。お仕事帰りにこんな時間が持てるの、素敵です」

「……ええ。たまには、こういうのも悪くないですね」

言葉を交わしながらも、意識は隣の席に釘付けだった。耳に届く春菜の声が、ワインの酔いと混じり合って胸を焼く。成瀬の笑い声が、やけに耳障りに響いた。

(……なんなんだ、これは)

理性の隙間から、自分でも制御できない感情があふれ出す。嫉妬、焦燥、苛立ち――それらが渾然一体となって胸の内で暴れまわる。

グラスの脚を持つ指先には、かすかな震えが宿っていた。

そのとき、春菜の笑い声がふと止んだ。

「……あ、ごめん。ちょっと、お手洗いに」

そう言って立ち上がる春菜に、蒼真の視線が無意識に向かう。歩き去るその背中は、少しだけ俯いて見えた。

――なぜだか、急に呼び止めたくなった。

けれど声は出せなかった。隣の席に座る女性が、蒼真の顔を覗き込んで言った。

「蒼真さん、少しお疲れですか?」

「……いえ。大丈夫です」

隣の女性にそう返したものの、グラスの脚を持つ指はまだわずかに震えていた。

冷静を装いながら、春菜の背を目で追っていた自分に、ふと気づく。

(行くなよ)

そんな声が心のどこかで響く。でも、もう遅い。

蒼真は視線を戻すと、グラスに残ったワインを一気に飲み干した。
普段なら絶対にしない行動だった。でも今夜は、理性の糸が緩んでいた。

少しして、席を立つ。

「すみません、少し席を外します」

そう言って立ち上がると、視線の端で、女性がやんわりと頷いた。
蒼真はゆっくりと廊下を進む。

静かな店内の空気が、逆に耳鳴りを強くする。
木目の美しい扉の並ぶ通路の奥に、ひとつ、灯りの点いた洗面所がある。

彼女は――そこに、いた。

鏡の前で、春菜は自分の表情を直していた。唇の端にうっすらと笑みを浮かべているが、目だけが笑っていなかった。

(……あの表情は、何だったんだろう)

視線を合わせたときの彼女の顔。笑顔の奥に見えた、一瞬の何か。
それが気になって、蒼真は立ち止まる。

気づかれるより先に、踵を返して引き返すこともできた。
だが、何かがそれを許さなかった。理性が緩んだ隙に、抑えていた感情があふれ出していた。

「春菜さん」

(春菜さん……?いつもと違う)

呼びかける声は、思ったよりも低く、そして、抑えきれない感情を帯びていた。

春菜が振り向く。その瞳に、一瞬の驚き。そして、すぐにいつもの仕事の顔――穏やかな笑顔が浮かぶ。

「……高瀬社長。偶然ですね」

「偶然じゃない。……追ってきました」

言葉が、勝手に口をついた。普段の自分なら絶対に言わない言葉だった。

春菜の表情が少しだけ揺れる。

「……どうしてですか?」

「……さあ。自分でも、うまく説明できません」

嘘だった。本当は、すべてわかっている。
あの笑い声に嫉妬し、あの笑顔に心をかき乱され、何かを奪われたように感じている自分がいる。

でも、そんなことは言えない。ただ彼女の背中を見ていることしか、今の彼にはできなかった。
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