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26話 その背を見つめて
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春菜は、蒼真の言葉に一瞬目を見張った。
「追ってきたって……どうして……」
「わからないって言ったでしょう」
声が低く響く。ほんのり赤らんだ頬。
春菜も、そして蒼真も、今夜は少しだけ――感情に素直だった。
廊下の静けさの中、蒼真が一歩、春菜に近づく。
「楽しそうだったな」
「……え?」
「さっきの笑顔。俺の前では……あんなふうに、笑わなかった」
春菜は何も返せずにいた。胸が、どくんと音を立てる。
廊下の向こうから、かすかに足音が聞こえる。二人の身体がわずかに緊張した。
(もし、あの女性が来たら――)
そんな不安が頭をよぎったが、蒼真の次の行動に、春菜の思考が止まった。
次の瞬間、蒼真がふいに春菜の両手をそっと握った。だが、その手に乱暴さはなかった。むしろ、震えるように繊細で――熱を帯びていた。
(こんなことをしてはいけない)
蒼真の頭の片隅で理性が警告していた。でも、もう止められなかった。
「……俺は、あなたのそういう顔を、もっと――」
言いかけて、蒼真の瞳にかすかな迷いが走る。
ちょうどそのとき、奥の扉が開き、別の客が二人、廊下に現れた。
蒼真は、まるで何かを振り払うように、ゆっくり手を離した。
「……失礼しました」
目を伏せ、一歩退く。声の調子も、いつもの冷静さに戻っていた。
春菜は、ただ黙ってその姿を見ていた。
何かが胸の奥で軋むように、静かに、痛く鳴っていた。
---
蒼真が席に戻ると、女性が心配そうに振り返った。
「お疲れですか? 少し顔色が……」
「いえ、大丈夫です」
そう言いながら、蒼真は自分の手を見つめた。まだほんのり残る春菜の手の感触。
(何をしているんだ、俺は)
後悔が波のように押し寄せる。結婚の話が進んでいる女性の前で、他の女性に触れた。しかも、仕事上の大切なパートナーを、俺の感情に巻き込んでしまった。
「蒼真さん?」
女性の声に、はっと我に返る。
「すみません、少し考え事を……」
女性は優しく微笑んだ。その笑顔が、今は重く感じられた。
彼女に罪はない。この結婚話も、お互いの家のためでしかない。でも、だからといって――
グラスの水を一口飲みながら、蒼真は隣の席に意識を向けないよう必死に努めた。
---
春菜は、まだ少し指先に残る熱を振り払うように、ゆっくりと席へ戻った。
「おかえりなさい、春菜さん。あ、ちょうど茶碗蒸し来ましたよ。俺、これめっちゃ好きなんですよ!」
成瀬はまるで何事もなかったかのように、にこにこと笑いながら箸を動かしていた。
その様子が、今は少しだけ――まぶしく見えた。
「ありがとう。お待たせしてごめんね」
「いえいえ、大丈夫です。春菜さんって、こういう落ち着いたお店も似合いますよね。あ、今度、同僚誘ってまた来ようかなって思ってます」
春菜は微笑みを浮かべながら頷いた。けれど心は、まだ少しだけ、あの廊下に置いてきたままだった。
隣の席からは、時折女性の穏やかな声が聞こえてくる。蒼真の声は、もうほとんど聞こえなかった。
(俺の前では……あんなふうに、笑わなかった――)
その言葉だけが、何度も心の中で反響していた。
成瀬は変わらず朗らかに話し、料理を楽しみながら、春菜に次の仕事のアイデアを語り始めていた。
春菜はその声に耳を傾けながらも、ふとグラスの中の水面に映る自分の顔を見つめた。水を口に運びながら、そっと、目を伏せた。
---
食事が終わり、店を出る時、蒼真と春菜の視線が一瞬だけ交差した。
蒼真は軽く会釈をしたが、その目には複雑な色が宿っていた。春菜も小さく頭を下げて応えた。
「それでは、失礼します」
蒼真の声は、いつもの業務的な丁寧さに戻っていた。でも春菜には分かった。その声の奥に、何かが隠されていることを。
女性と並んで歩き去る蒼真の背中を見送りながら、春菜は胸の奥でまだくすぶっている感情を、そっと押し殺した。
成瀬が「今日は本当にありがとうございました!」と元気よく礼を言う声が、夜の街に響いていた。
「追ってきたって……どうして……」
「わからないって言ったでしょう」
声が低く響く。ほんのり赤らんだ頬。
春菜も、そして蒼真も、今夜は少しだけ――感情に素直だった。
廊下の静けさの中、蒼真が一歩、春菜に近づく。
「楽しそうだったな」
「……え?」
「さっきの笑顔。俺の前では……あんなふうに、笑わなかった」
春菜は何も返せずにいた。胸が、どくんと音を立てる。
廊下の向こうから、かすかに足音が聞こえる。二人の身体がわずかに緊張した。
(もし、あの女性が来たら――)
そんな不安が頭をよぎったが、蒼真の次の行動に、春菜の思考が止まった。
次の瞬間、蒼真がふいに春菜の両手をそっと握った。だが、その手に乱暴さはなかった。むしろ、震えるように繊細で――熱を帯びていた。
(こんなことをしてはいけない)
蒼真の頭の片隅で理性が警告していた。でも、もう止められなかった。
「……俺は、あなたのそういう顔を、もっと――」
言いかけて、蒼真の瞳にかすかな迷いが走る。
ちょうどそのとき、奥の扉が開き、別の客が二人、廊下に現れた。
蒼真は、まるで何かを振り払うように、ゆっくり手を離した。
「……失礼しました」
目を伏せ、一歩退く。声の調子も、いつもの冷静さに戻っていた。
春菜は、ただ黙ってその姿を見ていた。
何かが胸の奥で軋むように、静かに、痛く鳴っていた。
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蒼真が席に戻ると、女性が心配そうに振り返った。
「お疲れですか? 少し顔色が……」
「いえ、大丈夫です」
そう言いながら、蒼真は自分の手を見つめた。まだほんのり残る春菜の手の感触。
(何をしているんだ、俺は)
後悔が波のように押し寄せる。結婚の話が進んでいる女性の前で、他の女性に触れた。しかも、仕事上の大切なパートナーを、俺の感情に巻き込んでしまった。
「蒼真さん?」
女性の声に、はっと我に返る。
「すみません、少し考え事を……」
女性は優しく微笑んだ。その笑顔が、今は重く感じられた。
彼女に罪はない。この結婚話も、お互いの家のためでしかない。でも、だからといって――
グラスの水を一口飲みながら、蒼真は隣の席に意識を向けないよう必死に努めた。
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春菜は、まだ少し指先に残る熱を振り払うように、ゆっくりと席へ戻った。
「おかえりなさい、春菜さん。あ、ちょうど茶碗蒸し来ましたよ。俺、これめっちゃ好きなんですよ!」
成瀬はまるで何事もなかったかのように、にこにこと笑いながら箸を動かしていた。
その様子が、今は少しだけ――まぶしく見えた。
「ありがとう。お待たせしてごめんね」
「いえいえ、大丈夫です。春菜さんって、こういう落ち着いたお店も似合いますよね。あ、今度、同僚誘ってまた来ようかなって思ってます」
春菜は微笑みを浮かべながら頷いた。けれど心は、まだ少しだけ、あの廊下に置いてきたままだった。
隣の席からは、時折女性の穏やかな声が聞こえてくる。蒼真の声は、もうほとんど聞こえなかった。
(俺の前では……あんなふうに、笑わなかった――)
その言葉だけが、何度も心の中で反響していた。
成瀬は変わらず朗らかに話し、料理を楽しみながら、春菜に次の仕事のアイデアを語り始めていた。
春菜はその声に耳を傾けながらも、ふとグラスの中の水面に映る自分の顔を見つめた。水を口に運びながら、そっと、目を伏せた。
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食事が終わり、店を出る時、蒼真と春菜の視線が一瞬だけ交差した。
蒼真は軽く会釈をしたが、その目には複雑な色が宿っていた。春菜も小さく頭を下げて応えた。
「それでは、失礼します」
蒼真の声は、いつもの業務的な丁寧さに戻っていた。でも春菜には分かった。その声の奥に、何かが隠されていることを。
女性と並んで歩き去る蒼真の背中を見送りながら、春菜は胸の奥でまだくすぶっている感情を、そっと押し殺した。
成瀬が「今日は本当にありがとうございました!」と元気よく礼を言う声が、夜の街に響いていた。
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