君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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41話 距離と気配と

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ブライダル紹介フェアの終了から数日後。

都心のホテルのレストランフロアでは、関係者を集めたささやかな打ち上げパーティーが開かれていた。
丸テーブルにはグラスと軽食が並び、和やかな談笑の声があちこちから聞こえてくる。

香澄と蒼真も、やや遅れて会場に現れた。
シンプルなネイビーのワンピースに身を包んだ香澄が、少し浮ついたような足取りで笑顔を見せる。蒼真はその隣を歩いているが、どこか上の空のような表情だった。

「フェア、本当にお疲れさまでした。素敵な会場ね。こうして顔を合わせると、達成感があるわ」

言葉は落ち着いているのに、声がどこか弾んでいた。
(――また、会えた)
成瀬の姿を見つけた瞬間、心のどこかでそう呟いていた。胸の奥がじんわりと温かくなる。
思わず手にしたグラスをきゅっと握りしめる。けれどそんな気持ちは顔に出さないようにして、いつも通りの微笑みを浮かべた。

成瀬が軽く笑ってグラスを掲げる。

「香澄さんの笑顔が、フェアの成功の立役者ですよ」

「ふふ、それ、録音しておこうかしら。父に聞かせたら喜びそう」
口にしてから、ほんの少し声が上ずっていることに自分でも気づいた。

春菜も軽く頭を下げて応じた。
「おかげさまで、反響も上々でした。本当にありがとうございました」

お礼を微笑みとともに伝えた春菜は、揺れる赤いワインに目を落とす。その胸のかげりが、ワインの深い色にそっと溶け込むかのようだった。

---

ラウンジスペースで、春菜はひと息ついていた。
 
そこへワイングラスを片手にした成瀬がやってくる。
 
「お疲れさまです。……さっきの香澄さん、ちょっと浮かれてましたね」

「ふふ、よっぽど嬉しいことがあったのかも」

春菜の返事に、成瀬が肩をすくめて笑う。
「普段の落ち着いた感じと違って、なんだか可愛かったですよ」

「そうだね。でも……あの人が本気になるときって、どんなときなんだろう」

春菜がふと漏らした言葉に、成瀬がいたずらっぽく目を細めた。
「たとえば、俺に惚れたとき、とか?」

「はいはい、だといいね」
 
ふたりのやりとりに、軽やかな空気が戻ってくる。

その様子を、香澄と蒼真はガラス越しのロビーから見ていた。成瀬が春菜の肩に手を添えて笑う光景――。
 
「……楽しそうね」「……ああ」
 
香澄の言葉に、蒼真も応じる。けれどその目には、どこか苦しげな色があった。
 
(俺は何をしているんだ……)

香澄との話し合いすら忘れてしまった自分への苛立ちが込み上げる。

(どうしてこんなにも、すべてが空回りしているんだろう)
 
その思いが胸をよぎった。

---

香澄がふたりの元へ歩み寄ってくる。

「……ふたりとも、いい雰囲気ね」

成瀬が軽く笑って肩をすくめる。

「そう見えました? 春菜さん、ツッコミ鋭いんですよ」

「ふふ、そういう空気感、嫌いじゃないわ」

香澄の笑顔は軽やかだったが、その目は成瀬の言葉の奥を探っているようだった。

成瀬がグラスの水滴を指でぬぐいながら、笑う。
 
「香澄さんの表情が良かったから、撮りがい、ありました」
 
「そう? あんな顔、滅多にしないのだけれど」
 
春菜が、ふと視線を外し、バッグに手を伸ばす。
 
「……少し席を外しますね。あちらで関係者に挨拶してきます」
 
「はい、いってらっしゃい」

---

春菜がラウンジを離れ、成瀬と香澄だけが残った。
 
「ねえ、成瀬さん。あなたって、不思議な人よね」
 
「え? どこがですか?」
 
「春菜さんに話すときと、私に話すとき。距離感が違うの、気づいてる?」
 
成瀬は少しだけ間を置いて、肩をすくめた。
 
「……まあ、人によって雰囲気が変わるのは、普通のことじゃないですか?」
 
「普通、ね。じゃあ私は、"特別"に入るのかしら」
 
冗談とも挑発ともつかない香澄の言葉に、成瀬は正面からは答えなかった。ただ、少しだけ目をそらす。
 
(――その反応、悪くないわ)
 
香澄はそっと笑った。けれど今は――すこしだけ、意味が変わってきている。

---

そのころ、蒼真は会場の料理テーブルの前で、春菜に声をかけた。
 
「春菜さん。最近、なんというか……穏やかですね」
 
「え?」
 
「いや、前よりも。余裕があるというか」

蒼真の声には、どこか探るような響きがあった。春菜の変化を確かめたい気持ちと、それを確かめることへの怖れが入り混じっていた。
 
春菜は手を止め、ほんの少し微笑んだ。「……たぶん、ちゃんと整理がついたからだと思います」
 
蒼真はその言葉に、思わず息を呑んだ。

(整理が……ついた?)

視線を逸らしながら、胸の奥で重いものが沈んでいくのを感じた。
 
春菜はさりげなく料理をひと皿勧める。「高瀬社長、これすごく美味しいですよ」
 
「……ああ、ありがとう」

蒼真の返事は、どこかぎこちなかった。
 
ふたりの間に、ほんの一瞬だけ、かすかな温度が残った。けれど春菜はただ、背筋を伸ばし、会釈した。その仕草はまるで――ちゃんと終わった過去に、丁寧な蓋をするようだった。

蒼真はその様子を見つめながら、自分が取り返しのつかない何かを失ってしまったことを、ようやく理解し始めていた。
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