君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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44話 名指しの理由

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週が明けて数日が経ったある午後、成瀬が自席に戻ると、広報部の上司が近づいてきた。

「おい、成瀬。ちょっと来い」

会議室に通されると、机の上には財前グループの封筒が置かれていた。

「どうやら、向こうから新しい企画の協力依頼が来てる。で、担当者として君を指名してきたらしい」

成瀬は目を丸くした。

「俺を……ですか?」

「そう。前回のブライダルフェアの成果を踏まえてだってさ。……先方はお得意様だしな、断る理由もない」

上司は企画書を成瀬に手渡した。

(……なんで、俺なんだろう?)

頭に浮かぶのは、あの打ち上げの夜。香澄の柔らかい笑みと、ふとしたときの真剣な視線だった。



そのころ、香澄は自分のオフィスで、机に向かっていた。

目の前には、何度も書き直した企画書のドラフト。そして、フェア当日の写真が数枚。

(……この判断は正しかったかしら)

企画書を作りながら、何度も迷った。成瀬を指名する理由を、父にどう説明するか。「前回のデザインセンス、構成力、編集技術が優秀だったから」——それは事実。ただ、それだけではない何かがあることも否定できない。

手帳を開くと、成瀬の名刺がそっと挟まれている。

(彼、どう思うかしら……)

フェアでの彼の真っ直ぐな瞳を思い出す。あの時の自然な笑顔。

香澄は落ち着いて手帳を閉じた。冷静でいなければ。これはビジネスなのだから。



その日の午後。社内の応接スペースで、香澄と成瀬は再会した。

「お忙しい中、時間を作っていただいてありがとうございます」

そう言って頭を下げた香澄は、いつもの上品で落ち着いた様子を保っていた。しかし内心では、成瀬と向き合うことへの微かな緊張を感じていた。

「いえ、こちらこそ。でも、俺で大丈夫でしょうか? もっと経験豊富な者のほうが……」

「前回のフェアでのデザイン、とても印象的でした。今回も、そういったセンスでお手伝いいただけたらと思いまして」

香澄の説明は丁寧で、表面上は完全に業務的だった。

しかし内心では、成瀬の反応を気にしている自分がいた。

(冷静に、香澄。これは仕事よ)

成瀬が資料に目を通している間、香澄は姿勢を正し、いつもの落ち着いた表情を保とうと努めた。

「今回はホテルやブライダル関連の企画書作成で、デザインと構成面でのご協力をお願いしたいと思っています」

「……わかりました。精一杯やらせていただきます」

成瀬がそう答えた時、香澄の表情がほんのわずかに緩んだ。それは安堵というより、何かが正しい方向に進んでいるという、静かな確信に似ていた。

「よろしくお願いいたします」

会議が終わった後、香澄は一人になると、そっと息を吐いた。

(思っていたより、うまく話せた)

でも同時に、自分の中に生まれた新しい感情に戸惑いもあった。これまで経験したことのない、微妙な心の揺れ。

香澄は窓の外を見つめながら、静かにつぶやいた。

「これが……恋、なのかしら」
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