君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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47話 それぞれの胸の奥

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春菜がその知らせを受けたのは、実家から届いた段ボールを開けたときだった。

ぎっしり詰まった野菜の奥に、母の字で書かれた小さなメモが入っていた。

> 「春菜へ 忙しいだろうけど、たまには体にいいもの食べなさい」

春菜は苦笑して、そのままスマホを手に取ると母に電話をかけた。

「もしもし、届いたよ。ありがとう、お母さん。相変わらず量が多いんだから」

「たまには料理しなさいってことよ。……で、春菜、彼氏と別れたって?」

唐突な母の言葉に、思わず野菜の入った袋がカウンターに落ちた。

「……え、ちょっと待って、なんで?」

「沙耶ちゃんに駅で会ってね。聞いちゃったのよ」

「……あー、まあ。」小さく息を吐き、野菜を袋に戻した。

電話口の向こう、母の声が少しだけ優しくなる。

「春菜、仕事ばかりじゃダメよ。あんた、顔色だって良くないんだから」

「そんなことないって。元気だよ」

「いい人がいるの。お母さんの知り合いの息子さんで、真面目でちゃんとした人。お見合いって言うと大げさだけど……一度だけ会ってみない?」

春菜は声を失って、小さく笑った。

「……お母さん、私まだ20代だよ?」

「わかってるけど、もうすぐ30でしょ。準備しておくくらいが、ちょうどいいと思うのよ。一度会ってみて、合わなければそれでいいから」

(誰かに期待するから、傷つくんだ。
だったら、最初から期待しなければ、何も失わなくて済む。)

少しだけ間を置いて、春菜は口を開いた。
「……わかった。一度だけなら」

母の向こうで、思わず笑いを含んだ声がした。
「びっくりした! 春菜が素直に言うなんて」

春菜は、スマホを耳から離しながら、ささやくように自分に問いかけた。
(……私、何やってるんだろうな)


---

お見合いの相手は地方勤務の管理職で、繁忙期のため日程はどうしても平日になった。春菜は二日間の有給を出し、手帳に「お見合い」とだけ書いた。

週の半ばの夕方。
春菜は残業前の休憩を取ろうと、給湯室でポットにお湯を注いでいた。

そこへ、香澄との打ち合わせを終えた成瀬が紙コップを片手に入ってくる。

「あ、春菜さん!お疲れさまです!」

「お疲れさま。香澄さんとの企画、進んでる?」

春菜の問いに、成瀬は肩をすくめて笑った。

「はい、でも……まだ正直、香澄さんのペースに飲まれてます。俺なんかで大丈夫かなって思ったりして。」

成瀬がいつもの調子で頭をかきながら笑うと、春菜も小さく吹き出した。

「大丈夫だよ。成瀬くんだから指名されたんでしょ? 香澄さん、ちゃんと見てる人だから。」

その何気ない励ましに、成瀬の顔に無邪気な笑みが戻る。

「ですよね!……がんばります!」

そう言いながら、成瀬はふと春菜の手元を見て気づいた。

「そういえば、来週お休みなんですか?」

春菜はマグカップをそっと置いて、小さく頷いた。

「……うん。二日間、有給とったの。」

「何か用事ですか?」

春菜はちょっとだけ口ごもり、肩を竦めて笑う。

「……お見合い。母に押し切られちゃって。」

成瀬の目が少し丸くなる。

「お見合い……そうなんですね」

「うん。一度会ってみることにしたの」

成瀬は少し考えるような顔をして、それから優しく笑った。

「いい出会いになるといいですね」

「ありがと。……まぁ、形だけだし。何もなければそれでいいかな」

「俺も仕事、ちゃんとカバーしますんで。お休み、心配しないでください」

「ありがと、成瀬くん。」

春菜はマグカップを持ち直し、小さく「じゃあ、お先に」と言って給湯室を出た。

残された成瀬はひとり、紙コップのコーヒーをゆっくりと飲みながら、少し不安そうな表情を浮かべていた。


---

週が明けて数日が経った午後。
社内の打ち合わせ室で、成瀬は香澄との企画の詰めに集中していた。

「この構成、前回より雰囲気が出そうですね」
成瀬は資料に目を落としながら、静かに言った。

香澄:「ええ。あなたのデザインセンスとっても良かったわ」

香澄が軽く微笑むと、成瀬は少し照れくさそうに笑った。香澄の口調は、以前の少しフレンドリーな雰囲気に戻っていた。成瀬は思わず肩の力を抜く。

成瀬:「……ありがとうございます。もっと良いレイアウトに仕上げますから」

香澄はそんな成瀬の真面目な横顔をしばらく見ていたが、すぐに視線を資料に戻した。

「じゃあ、今日のところはこのくらいで」
香澄がペンを閉じると、成瀬も深くうなずいて資料を整える。

「ありがとうございます、香澄さん。次回のレイアウトも、よろしくお願いします」

「ええ、楽しみにしてるわ」

一度、会話が締まった空気が流れた。そのとき、成瀬がふと思い出したようにため息をついた。

香澄が小さく眉を上げた。「なに?」

「あ、いえ。春菜さんのことなんですが……実は来週、お見合いをされるそうで」

「……お見合い?」
香澄は一瞬、資料から視線を外して成瀬を見つめた。

「はい。ご実家のお母さんからの紹介だそうです」

成瀬は少し考え込むような表情を見せた。

「春菜さん、いい人だから……幸せになってくれたらいいなって思うんですけど」

「春菜さんなりに考えた結果かもしれないわね。本人が幸せならそれでいいわ」
香澄は思わず口元に笑みを浮かべるが、その笑みはほんの一瞬で消える。

「でも、もし結婚が決まったら、春菜さん、仕事辞めちゃうのかなって思って」

成瀬の素直な言葉に、香澄は少しだけ目を細めた。

「……そう思うのは、困るから?」

「え? ああ、はい。俺、春菜さんには入社以来ずっと助けてもらってるので」

「そう」
香澄は小さく息を吐き、資料を閉じた。
「……頼りにしてるのね」

「もちろんです」

「……そう」
一瞬だけ伏せた瞳に、成瀬は気づかない。

「じゃあ、次の打ち合わせもよろしくね」
香澄は柔らかな笑みを浮かべ、いつもの調子で部屋を出ていった。

残された成瀬は首をかしげる。

(……なんか変だったかな?)

廊下を歩きながら、香澄は胸の奥に小さなざらつきを感じていた。
(……春菜さんが結婚?)
別におかしなことじゃない。
むしろ祝福すべきだと頭ではわかっている。

――なのに、あの子がいなくなったら困るって、真っ先に成瀬くんが言った。

(それは、仕事の話だってわかってる)
けれど、自分でも驚くほど、胸がざわつく。

「……やだ、私、何に嫉妬してるのよ」
小さく笑ってみせるが、その笑みはすぐに消えた。


---

蒼真はその頃、香澄から春菜のお見合いの話を聞かされていた。

「……そういえば、春菜さん」

蒼真の手が一瞬止まる。

「……春菜さんが、どうかしたか?」

「来週、お休みするそうよ。お見合いですって。成瀬くんから聞いたの」

淡々とした口調の中に、どこか他人事のような温度が漂っていた。

蒼真の視線は、資料の一行を追ったまま、しかし文字を読んでいなかった。

「……お見合い?」

思わず零れた声が、自分でも抑えきれないほど乾いていた。

香澄は気付かずに続ける。

「ええ。ご実家からの紹介らしいわ。きっと本人なりの判断よね」

そう言って、香澄は小さく笑った。
だが、蒼真の目の奥に一瞬、言葉にできない色が浮かんでいた。

「……そうだな」

絞り出すような一言を返すと、視線を再び資料に落とす。
だがページはめくられない。

香澄はその微かな変化には気づかないまま、バッグを肩にかけた。

「じゃあ、私、先に帰るわね。……無理しないで」

蒼真は、ようやく顔を上げて小さく頷く。

「……ああ。おつかれさま」

香澄がドアを閉めた後。
デスクの上で握りしめたペンが、小さく震えていた。

(……お見合い、か)

頭の奥でずきりと痛む。
けれど声にすることはできない。

夜の窓に映る自分の影だけが、無表情のまま蒼真を見つめ返していた。
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