君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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51話 小さな一歩、大きな一歩

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春菜は玄関を閉めて、部屋の明かりをつけた。
ふわりと照らされる部屋の中に、自分だけの気配が広がっていく。

手には、あの小さな紙袋。
お見合い相手からの手土産。

テーブルに置こうとして、やっぱり抱え直した。
あの車の中で、ずっと握っていた感触がまだ残っている。

---

ソファに腰を下ろすと、心の奥に温かなものがじんわりと広がった。

(……救い、か。)

蒼真が言った言葉。
「僕には救いだったんです」
(わたしの"弱さ"が、誰かの救いになるなんて……。)

目を閉じると、車内の空気がまだ胸に残っている気がした。

蒼真の言葉、あの声の震え。
「向き合ってください」と言われたときの自分の胸の奥の、小さな熱。

(……誰かとちゃんと向き合いたい。でも、また怖くなるかもしれない。)

「……ちゃんと怖いって言えるのが、強さ……?」

声に出してみると、なんだか不思議だった。

---

テーブルの上には、母からのメッセージの通知が光っている。
『今日のお見合い、どうだった?』

スマホを伏せて、息を吐く。

(怖いのに、向き合いたいなんて……欲張り、かな……)

でも――

「……少しずつでいいから。ちゃんと、向き合える私に。」

その独り言だけが、部屋の中に小さく落ちた。

---

翌日、会社。

春菜は昼休みのタイミングで、そっと成瀬のデスクを訪れた。

「成瀬くん、これ……お礼。仕事のカバー、ありがとう」

「えっ!お礼!ありがとうございます!」

成瀬は目を輝かせながら、紙袋を受け取って中身を覗き込む。

「わ~美味しそう……!」

無邪気に笑う成瀬を見て、春菜の心がほんの少しだけ軽くなる。

「良かった。喜んでもらえて」

「お見合い、お疲れさまでした。どうでしたか?」

春菜はちょっと困ったように笑って、小さく肩をすくめた。

「……まぁ、普通でした。相手の方も良い人だったけど」

「そうなんですね。あ、そうだ……」

成瀬は少し声を落として続けた。

「あの日、高瀬社長が俺のところに来られたんです。春菜さんの居場所を聞かれて……何か緊急の用事だったんですか?」

春菜の手が一瞬止まった。

「……え?」

「なんかすごく真剣な表情で……俺、ちょっと驚いちゃって」

春菜は一瞬言葉に詰まったが、笑みを作って答えた。

「……仕事のことだよ。」

「そうですか。でも、春菜さんのこと心配してる感じでした」

成瀬の何気ない言葉に、春菜の胸が小さく跳ねる。

「……そう」

春菜は曖昧に頷きながら、心の奥に小さなざわめきを抱えたまま、その場を離れた。

---

そのころ――

会社から少し離れた静かなレストラン。
人の少ない奥の席に、蒼真は一足先に腰を下ろしていた。

やがて足音が近づき、香澄が現れる。

「……急に呼び出して、どうしたの?」

香澄は微笑みを浮かべて、正面に座る。だが、その目は普段よりも注意深く蒼真を見つめていた。

蒼真は一瞬だけ香澄の目を見て、それから視線をテーブルに落とす。

「香澄さん、話があるんだ。僕たちの関係について」

「……私たちの関係?」

蒼真は頷いた。

「この結婚について、お互いの本当の気持ちを確認したいんだ」

香澄の表情が、わずかに変わる。

「……本当の気持ち」

「君は以前、『私たち、このままでいいのかしら?』と言った。あの言葉が、ずっと頭から離れなかった」

香澄は静かに息を吐いた。

「……そう。覚えていたのね」

「君も、何か疑問を感じているんじゃないか?」

香澄はしばらく沈黙していたが、やがて小さく笑った。

「……正直に言うと、そうかもしれない」

蒼真は安堵したような表情を見せた。

「僕も、同じなんだ。君は素晴らしい人だし、尊敬している。でも……」

「でも、恋愛感情とは違う」

香澄が先に言葉にすると、蒼真は頷いた。

「……そうなんだ」

香澄はテーブルに手を置き、考え込むような表情を見せた。

「私たち、最初から『条件の良い結婚』として始まった関係だものね。お互いに、それ以上の感情が生まれることを期待していたのかしら」

「期待していたかもしれない。でも……」

「でも、違う人に心が向いてしまった」

香澄の静かな声に、蒼真は驚いて顔を上げた。

「君も?」

香澄は苦笑した。

「私も、よ。お互い様ね」

二人の間に、穏やかな静寂が流れた。

「……どうしましょうか」

香澄が先に口を開いた。

「このまま結婚して、お互いに違う人を想いながら夫婦になるのは……」

「不誠実だと思う」

蒼真の言葉に、香澄は頷いた。

「そうね。私たちは、もっと誠実に生きるべきよ」

香澄はバッグからハンカチを取り出し、目元を軽く押さえた。涙ではなく、長い緊張から解放されたような表情だった。

「婚約を解消しましょう」

蒼真は静かに頷いた。

「……ありがとう、香澄さん。君がそう言ってくれて、救われた」

「私の方こそ。これで、お互いに本当の幸せを探せるわね」

香澄は穏やかに微笑んだ。その笑顔に、初めて本物の安らぎが宿っていた。

「父には、私から話すわ。蒼真さんは自分の気持ちに正直になって」

「……本当にありがとう」

二人は静かに立ち上がった。長い間背負っていた重荷を、ついに下ろすことができた夜だった。
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