君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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53話 大人の余裕と、小さな戸惑い

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昼下がりのカフェラウンジ。
成瀬は香澄に呼ばれ、次の撮影プランの打ち合わせをしていた。

テーブルの上には書類が整然と並んでいるが、香澄の指先はそれをゆっくりとめくったまま成瀬をじっと見ていた。

「……本当に、成瀬くんにお願いしてよかったわ」

「そ、そんなことないです。俺なんかで……」

香澄はふっと笑う。
柔らかく、でもどこか底が見えない笑みだった。

「あなた、ほんとに"俺なんか"ばかり言うのね。……でも、私は知ってるの。あなたがすごく誠実に、人を見てくれるって」

香澄の指先が、何気なく成瀬の手の近くをかすめた。

成瀬はびくりと肩を揺らし、慌ててペンを握り直す。

「え……あ、あの……そ、そろそろ次のページを……」

「ええ、もちろん」

書類を繰りながらも、香澄の視線は書類より成瀬の目に向いている時間のほうが長い。

(……なんでだろ。こんなに距離、近かったっけ……)

成瀬の耳の後ろに、じわりと汗がにじむ。

香澄は成瀬の顔を覗き込み、声を落として囁く。

「……成瀬くん、最近お疲れじゃない?」

「え?……あ、いえ、そんなことは……」

「今度、お時間があるときに……少しお茶でもしない? お仕事の話だけじゃなくて」

目の前の香澄は、大人の余裕をまとって笑っているのに、
その目だけが、まるで少女みたいに真剣だった。

(……え、これって……)

成瀬は愛想笑いを返しながら、頭の中で必死に状況を整理しようとする。

(香澄さんって……すごい人だし……俺なんかが……でも、これって……そういう意味なのかな? 違うよな……違うよな……?)

香澄は書類を閉じると、にっこりと笑って言った。

「成瀬くんとなら、きっと楽しい時間が過ごせそうね」

その声を聞きながら、成瀬はもう一度(え、俺……?)と心の中で繰り返した。

---

成瀬が帰った後のカフェラウンジ。
香澄はぬるくなった紅茶を指先で回しながら、さっきまで座っていた成瀬の椅子を見つめていた。

(……まったく、あなたは本当に素直ね。)

思い返せば、はじめて会った時からそうだった。
誰の意図も読まずに、目の前の人をただ真っ直ぐ見つめる。

(……だからこそ、あなたに惹かれるのよね。)

香澄の指先が、テーブルの縁を軽く叩く。

(もう婚約者じゃない。それなら私は、素直に自分の気持ちに従ってもいいはず。)

紅茶を一口飲み、ふわりと微笑む。

(あなたの優しさを、独り占めしたいなんて……我ながら欲張りね。)

そう思う自分を、少し可愛らしいと思いながら、けれど、その笑みは確かな意志を秘めていた。
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