君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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57話 恋の転機

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仕事を終えた春菜がビルのエントランスを出ると、そこに見覚えのある黒い車が止まっていた。

「春菜さん。お疲れさまでした」

蒼真が助手席のドアを開けて待っていた。

車内に乗り込むと、あの日の帰り道と同じ、ほんのりとした革の匂いと蒼真の緊張した気配があった。

エンジンがかかると、しばらく二人は黙ったまま。赤信号で止まった瞬間、先に口を開いたのは蒼真だった。

「……お話したいことがあります。食事しながらで大丈夫ですか?」

春菜は小さく息を呑んだ。

「……はい……」

春菜は少し緊張しながらレストランの扉を押した。

「高瀬様でご予約をいただいております」

店員に案内されたテーブルで、蒼真が春菜の椅子を引いてくれた。黒のスーツに落ち着いた表情。しかしその瞳は、どこか真剣で、少しだけ不安げに光っていた。

「春菜さん、どうぞ」
微笑む蒼真に、春菜は思わず胸が高鳴る。

席に着き、キャンドルの柔らかな光が二人の顔を照らす。

蒼真は一呼吸置き、低く穏やかに言った。
「……香澄さんとの婚約、正式に解消しました」

春菜は息を呑む。手元のナイフが少しだけ震える。
「……そう、ですか……」
声がかすかに震え、視線を窓の外の夜景に逸らす。

「まず、春菜さんに直接伝えたくて……誤解はさせたくなかった」
彼の声の奥にある真剣さと緊張が、春菜の胸を少しだけ締めつける。

春菜は黙って頷く。
(……自分のせいじゃない。でも、私が関わっていたら……)

蒼真は軽く息を吐き、視線を落としてから、再び春菜を見る。
「春菜さん、何も背負わなくていい。これは僕自身の決断です」

沈黙が二人の間に流れる。お互いが意識する微妙な距離感。
窓越しに映る夜景が、二人だけの世界を優しく包み込む。

料理が運ばれ、蒼真は少し照れたように小声で続けた。
「……それで、春菜さん。その…」

春菜はゆっくりと顔を上げ、長い沈黙がおとずれた。

「……僕と正式に付き合ってほしい」

蒼真の声に、春菜は胸の奥が温かくなるのを感じた。
ほんの少しだけ、指先に力が入る。

「……私も、蒼真さんと一緒にいたいです。よろしくお願いします」

春菜の言葉に、蒼真の表情がぱっと明るくなった。

彼の手がそっとナプキンに触れ、指先が春菜の手に触れる。二人は言葉少なに、ただ見つめ合った。
手のひらの間に流れる温度、指先のわずかな接触。夜景の光が二人だけの世界を静かに包み込み、時がゆっくりと流れていく。

春菜の頬がほんのり赤く染まり、蒼真の胸も小さく跳ねた。
互いの気持ちが確かに伝わる瞬間だった。


---

数日後、社内では婚約解消の話がひそやかに広まっていた。

昼休み、成瀬は給湯室でコーヒーを淹れながら、周囲の会話に耳を澄ませていた。

「……高瀬社長、婚約を解消されたらしいわね……」
「そうなの? 相手は財前グループの……」

成瀬は慌てて春菜のデスクに向かった。

「春菜さん……社内で話が出てますね。高瀬社長の婚約解消の件……」

春菜の手が少しだけ止まる。

「……そうだね、みんな気になるよね」

成瀬は心配そうに顔をのぞき込んだ。

「……もしかして、香澄さんが俺と会ったりしたことが……何か影響したんでしょうか?」

春菜は首を振った。

「大丈夫だよ。成瀬くんが心配することじゃない」

「でも……」

「自分なりに考えて決めたことなんじゃないかな」

成瀬は安堵の表情を浮かべたが、まだ少し不安そうだった。

春菜はそんな成瀬を見て、そっと微笑んだ。

(……そうだよね。みんな、自分の気持ちと向き合っているのよね)

内心では、蒼真との新しい関係への温かい気持ちが静かに広がっていた。

---

土曜の午後。
香澄は街のカフェのテーブル席で、少し緊張しながらカップを手にしていた。

「……ちょっと驚きました。本当にお誘いを受けて」

成瀬がたじろぎながら言う。その姿に、香澄は苦笑した。

「あの……香澄さん。社内で高瀬社長の婚約解消の話を聞いたんですが……」

成瀬は遠慮がちに言った。

「……そうなの。でも、前から成瀬くんときちんとお話してみたいと思っていたの」

香澄は少しだけ、安堵したように微笑んだ

「そうだったんですね……大丈夫でしたか?」

「ありがとう、成瀬くん。優しいのね」

「……婚約解消って、俺…関係ありますか?」

「私は……ただ、自分の気持ちに正直になっただけ」

成瀬は拳を握りしめた。香澄の言葉に、自分への想いを感じて胸がざわつく。
(……自分のせいで、香澄さんの人生を変えてしまったのだろうか……)

「……熱っ……」
思わず小さく声を漏らすと、成瀬が慌ててハンカチを差し出した。

「大丈夫ですか!」
ハンカチを差し出す彼の顔は、真剣そのものだった。

香澄は息を飲んだ。
差し出された白い指先が、カップ越しに自分の手に触れた瞬間――
(……っ)
胸の奥が跳ねて、鼓動が急に早くなる。

「……ありがとう、成瀬くん」
なるべく落ち着いた声で言ったつもりなのに、声が少し震えた。

成瀬は気づかず、ほっとした笑みを浮かべている。
香澄はその笑顔を見て、思わず心が甘く弾んだ。

小さな事故も、成瀬の必死さも、全てが彼女には愛おしく思えた。
(……この人の側に、もっといたい)

窓の外を吹く柔らかな午後の風が、二人の間を優しく通り抜ける。
香澄の頬が少し熱くなるのも、誰にも気づかれない甘い秘密だった。
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