君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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59話 波にさらわれたもの

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数日後の休日――
成瀬は、海沿いの小さなカフェの前で落ち着かない様子で立っていた。

「……俺、なんでここにいるんだ……」

スマホを握りしめ、深く息を吐く。そこへ、波の音に紛れて香澄の軽やかな声が届いた。

「お待たせ、成瀬くん!」

振り向くと、香澄は白いブラウスに薄いスカートを揺らして立っていた。海風に髪をなびかせ、どこか普段のビジネススーツ姿とは違う雰囲気をまとっている。

「……すごく、いい場所ですね……」

「でしょ? ちょっと遠かったけど……こういうの、嫌い?」

香澄が無邪気に笑うが、その瞳にはどこか隠せない熱が滲んでいる。

「……いえ……あの、でも、今日は何の……」

成瀬の言葉をさえぎるように、香澄が波打ち際を指さした。

「少しだけ、歩こう?」

戸惑いながらも、成瀬は頷いた。

二人は寄せては返す波に足を濡らさないよう、ぎこちなく砂浜を歩く。香澄はそっと成瀬の袖をつまんだ。

「……成瀬くんと、こうして歩きたかったの」

成瀬は一瞬で固まる。

「……え……」

波の音にかき消されそうなほど小さな声で、香澄は続けた。

「仕事だけの顔しか知らないの、寂しかったから……今日は少しだけ、私だけに向いてて?」

振り返った香澄の笑顔は、大人の余裕を装いながらも、どこか切なく揺れていた。

成瀬は波打ち際に目を逸らし、胸の奥でひとつだけ叫んだ。

(………どうしよう!……)

---

砂浜を少し歩いたころ。寄せては返す波の音が、二人の沈黙をさらっていく。

香澄は小さなシェルを拾うふりをして、成瀬のほうを見た。

「……成瀬くん」

「……はい」

「私……」

波が彼女の足元を濡らす。香澄は、ほんの少し唇をかんだあと、小さく笑ってみせた。

「……好きなの」

成瀬の胸がぎゅっと縮まった。

「……え……?」

香澄は、目をそらさずに続けた。

「……ずっと……気づいてたでしょ。最初は仕事だからって思ってたけど……もう、無理だった」

砂浜に立つ二人の間を、潮風が吹き抜ける。

「……香澄さん」

成瀬は言葉を探すけれど、うまく出てこない。

「あの時のお茶の時間も、そういう……?」

「ええ……気づいてた?」

「その……俺……香澄さんはすごい人だって思ってて……でも……」

香澄の笑みがかすかに揺れる。

「でも……?」

「……俺には……無理です。香澄さんみたいな人は……なんか……怖いっていうか……」

必死に言葉を絞り出す成瀬を、香澄はまっすぐに見つめていた。

ほんの少しだけ、瞳が揺れた。

「……そっか……ごめんね……変なこと言って……」

笑っているように見えた香澄の目尻に、ふいに光るものが落ちた。

成瀬の呼吸が止まる。

「えっ……香澄さん……?」

香澄は自分の頬に手を当て、驚いた顔をした。

「……あれ……私……なんで……」

涙が、あとからあとから零れてくる。

「……やだ……泣くつもりなんてなかったのに……」

香澄はくしゃりと笑ってみせたが、声が震えていた。

成瀬は慌ててポケットからハンカチを出すが、何をどうしていいかわからず、ただオロオロしている。

「す、すみません!俺……ごめんなさい……」

「……謝らないで……成瀬くんは悪くないのに……」

涙を拭いながら、香澄は必死に笑おうとした。でも、どうしても止まらなかった。

---

帰りの電車の中。二人の間には気まずい沈黙だけが残った。

香澄は小さく目を閉じたまま、成瀬は何度も声をかけようとしては、何も言えなかった。

車窓の外で、夕焼けの海が遠ざかっていく。成瀬は胸の奥にじわりと広がる、言いようのない罪悪感をずっと握りしめていた。

(……俺……どうしたら……)

電車の振動が、二人の沈黙を運んでいった。
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